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妖美なるこの世界  作者: 桂馬
イタリアの闇達
133/261

逃走の始まり

 ティブルティーナ駅。


 賑やかな駅広場。高貴な格好をしたお役人や、地方から仕事でやって来たであろう労働者が 交通機関の要所であるこの場所には自ずと雑多し、この流れは街が静まるまでしばらくは続く光景だ。

 スイス着の国際列車があるミラノには電車で向かわなければならない。 

 それも数時間という長い旅だ。

 アルファーノ家からくすねた現金とその他もろもろを手にしたミゲルは、辺りを警戒しつつ、なるべく早足で駅へと向かう。

 眼鏡にコート、そして帽子という逆に目立ちそうな格好だが、不自然という程ではない。それに顔を見られないためにはこれが一番だ。

 本当はもう少し荷物を持っていきたかったのだが、もしもの場合動きが遅くなるのも締りが無い。

 というより、やはりアルファーノ家の面々には負い目があった。

 負傷していた自分を助け、その上寝床の用意までしてくれた優しい家族達。

 彼女達は今頃事態に気づいているのだろうかとミゲルは思わず考える。

 置手紙なんて律儀なものはもちろん用意していないし、家の中はそこまで荒らした形跡は残していない。

 もしかすると今晩も帰ってくると思っていて、食事の支度でもしているのかもしれない。

(……何を考えているんだ俺は)

 もし目の前にもう一人の自分がいれば殴ってやったところだ、とミゲルは自分自身の虫の良さに腹を立てる。

 元々そういう思惑だった。今ごろ情に移ってどうすると、今自分が置かれている状況と過去にしてきた事を脳内で算段した結果、男はその葛藤に打ち勝っていた。

 自分はもう汚れた人間。こうなれば後はとことんやりたいようにやるだけだと、腹をくくる。

(さて、もう少しだ) 

 広場の人ごみを縫う様に、駅へと向かっていくミゲル。駅広場を駆け抜ける風が強かった。いつもなら穏やかな風だが、なぜだか今日は一段と激しい。まるでこれから先の命運を示しているみたいだと皮肉げにミゲルは思う。

 これから長い旅路になる訳だが、そこはまだ通過点に過ぎない。

 北部は元々カッサロー二の生まれ故郷であり、むしろ南部よりも危険といえよう。

 しかしそこを抜け国境を越えれば、ひとまず安心してもいいだろう。

 勝負は今から七時間ほど。

 長い時間ではあるが、決して気が遠くなるような時間ではない。

 つまりその間は決して気を緩めてはいけないという事。

 猫一匹注意を払うように見て、安全地帯に行くまでは仮眠を取るのも駄目だと自分に言い聞かす。

 ホームまであと少し。ミゲルの足は自然と速くなっていた。それでも警戒を怠っている訳ではない。ちゃんと辺りを見渡し、安全かどうかを精査する。

 そして階段に差し掛かろうとした――まさにその時。

 ミゲルの足が不自然に止まった。かと思えばあろう事か踵を返し、そそくさと後方へと下がってしまう。

 人の目に付きにくい木陰の下まで身を寄せると、一休み。

 驚いたように息を切らすミゲル。早足によりコートを脱ぎたい衝動に駆られながらも何とか堪え、落ち着くよう自分に言い聞かす。

 それから今何が起こったのかを整理する。

 そー、と木陰からホームへと向かう階段の方を見やる。家族連れや労働者が行き交うその場所に、見知った顔が立っていた。

 カッティスだ。

 彼は階段の壁に背を預けながら険しい表情で、行き交う人々を凝視している。

「……」

 顔を引っ込め、今一度落ち着きを保つため息を吐くミゲル。

 カッティスがいるのは想定外だった。あの男はカッサロー二の側近、いわば金魚の糞のようなものだ。 

 だから常にカッサロー二の元に付いており、わざわざこんな所に出てくるとは思っても見なかった。

 しかしよくよく考えれば迂闊だった。

 奴はミゲルの顔を知っている。その男が自ら出向いたほうが効率は格段に上がるはずだった。

 現にそれを踏まえての変装だ。だが特徴や写真で見た連中とは訳が違うカッティスがいるとなると、まじまじと見られれば流石に気づかれてしまう。

(昨日、奴はいなかった……やっぱりもたつきすぎたか)

 冷静に物事を分析していたのが意外だった。

 というより、こうなってしまっては焦ってもしょうがない。

 結果論として慎重に行き過ぎたのが仇になってしまった訳だが、どの道あの関門は突破しなければならない。このまま引き返し時間を置くという手もあるのかもしれないが、不思議とミゲルの頭の中にその考えは無かった。

 アルファーノ家に戻った所で金銭やらを盗んだのがバレていればおおらかなあの家族も黙ってはいないだろう。

 そもそもカッティス達はずっとこの駅に張り付いている可能性だって無くは無い。

 だから行くなら今しかない。

 この駅は反対側にもう一つの入り口が設けられている。それに時間に追われている者も多いらしく、腕時計を見ながら走ったりスーツケースをゴロゴロと転がす人間がそこかしこに見受けられた。

 カッティスだって全てを見渡せている訳ではない。変装もまじまじと見られればまずいだろうが、遠目から瞬間的に見られた所で問題は無いはず。

(……いける)

 あれこれと考えた結果、そう判断する。ポジティブに考えろと己を鼓舞し、緊張の糸を和らげる。

 そして今一度帽子を深く被り直すと、ミゲルは逆の入り口へ向かうため踵を返した。

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