大人という生き物
午後二時・市内の街道
人の数も増え、お昼下がりの時間帯を迎える頃にはあらかた材料を買い終えていた。
昼食は行き当たりにあった店で軽く済ませ、その後はいつもミシェルと通っているスーパーにいき必要なものを揃え、こちらも贔屓にしている店にデザートを選びに行く途中だった。
料理の材料は手提げ袋一つに収まる程度で済んだ。大人としてそれを持つミゲル。そしてその前を歩くミレーナはというと、さらにご機嫌になっていた。
イタリアのヒットチャートを口ずさみ、小刻みに揺れている。
フォーマルな服装でそんな事をするものだから、さながら童話に出てくる少女に見えてしまうのは気の精ではないだろう。
「おい。あまりフラフラするなよ。周りに迷惑が掛かるし危ないぞ」
「大丈夫だよ。ちゃんと確認はしているから」
と言ったそばから、石畳のちょっとした段差で躓きそうになるミレーナ。反射的に駆け出しそうになるミゲルだったが、体勢を立て直し苦笑いする彼女を見て安堵の息を漏らす。
そして改めて思う。
一体自分は何をやっているのだろうかと。
周りに迷惑が掛かるかだとか、危ないから気をつけろなど、およそらしくない事を口走っている現状。
いつくしみや馴れ合いはほどほどにしておかなければ後々困るのは自分の方だと、それはミゲル本人が痛いほど分かっている。
分かってはいるのだが、だからといって具体的な行動に出る気はそこまでない。
そもそもそんな考えを持っているのなら一緒にピクニックへ行ったり今のように夕食の買出しに付き合いなどしない。
確かにミレーナには感謝をしているし、恩だって返したい。
しかしこれはまた別の話なのだ。利用できるものは利用して生き延びていく。恩返しや馴れ合いはそのついででしかなく、本懐を全うする上で邪魔になれば切り捨てる。
男は今までそうやって、生きてきたのだから。
「どうしたんだミレーナ?」
瞬間抱いた自問もなんのその。ミゲルはしれっとした様子で、急に立ち止まりどこかを眺めているミレーナに話し掛ける。
ミレーナからの応答は無い。相変わらずどこかを眺めたまま、呆けたように動きが無い。
そんな彼女に疑問符を提示しつつ、仕方なく視線を辿ってみる。
そこには獲物を探すかのごとく鋭い眼光の少年が立っていた。
雑踏から少し離れたレンガ造りの建物に背を預け、顔を隠す為か目深い帽子を被っている。あれでは逆に目立ってしまっているだろと老婆心から考えてしまうミゲルだったが、よくよく思えば今の格好をしている自分が言える立場ではない。
ミレーナが眺める少年。
それは昨日ピクニックの現場で大男に暴力を振るわれていた者に、間違いないだろう。
立ち止まり、眺めていた光景にターゲットを見つけたのか。
今一度帽子を目深く被り直すと、少年は早歩きで雑踏の中へと向かっていく。
――ヤルな。
直感的か経験か、そう確信を持ち、その行方を見送るミゲル。
少年の先には観光かはしゃぎながら写真を撮る警戒心のなさそうなアジア人の若い女が二人。絵に描いたようなカモだったので、すぐにターゲットは特定できた。
案の定、少年は人の流れに紛れるように大胆かつ機敏に距離を縮めていく。
喋りながら写真を撮り続ける二人は全く気づく気配が無い。
ありゃ相当手馴れている。成功率はほぼ百パーセントだろう。
ミゲルがそんなつれない事を考えている間にも距離はどんどん縮まっていき、そして後十メートルほどに差し迫り、最早脇に置いてある鞄を握ろうと少年が掌を開き始め、最後のスパートを掛けようと足の速度を上げ始めた、まさにその時。
これまで呆けていたミレーナは、大人しい性格からは想像もつかないような素早い動きで、少年と二人の間へと走っていく。
きっと幼い彼女にも、あの少年が何をするのかが分かったのだろう。
速歩の少年に対し全速力のミレーナはすぐに追いつく。
進行方向に立ちふさがり手を広げると、間違った事をしようとする少年をキッと睨みつける。
突如現れた知り合いに、少年も驚いた。
思わず仰け反り、混乱した脳内から言葉が溢れる。
「ミ、ミレーナ。なんでここに……」
「駄目だよ人のもの取っちゃ」
少年の戸惑いを一切受け付けず、譲歩しないという気持ちが表情にあらわれる。
言葉を受けると、少年はバツが悪そうな顔をして、眼を逸らした。
悲しいかな、そこはやはり子供。あれでどうやらとぼけ様としているらしい。
しかし、ミレーナはそれを許さず、知り合いが悪の道に走ろうとしているのを食い止めるため必死に訴える。
顔を逸らす少年を不安そうに見ながら、
「どうしてなの。もしかして幼稚園に来ない日は、ずっとこうして……」
知り合いのまさかの行動に、ショックを隠せないミレーナ。元々わんぱくな子だとは思っていたが、これほど悪い事をしているとは考えもしなかった。
となるとやはり、昨日の一件も彼に非があったのだろうと判断せざるをえない。
言葉ではなく悲しい眼での訴えかけに、少年は胸が締め付けられる感覚に陥りながらも、
「関係ないだろ、お前には」
と冷たく突き放した。
「そ、それは……そうだけど」
語気強く言われ、そして正論と思ってしまったのか、押し黙ってしまうミレーナ。
関係ない。確かにその通りなのかもしれなかった。幼稚園は同じでお互いに知っている間柄ではあるが、そこまで話したこともない。
となれば、個人が何をしようが他人にとやかく言われる筋合いはないのかもしれない。
幼い価値観はそう判断してしまい、正義の心を消極させたミレーナは、それでもどうにかしたいと言葉を捜すが、出てこない。
そんなひるんだ彼女に対し、少年は持ち前の乱暴な口調で言葉を被せていく。
口ごもるミレーナににじり寄って、
「だいいち、お前自分の母親に俺の事話しただろ」
「え? うん、だって」
「だってじゃねーよ。幼稚園の先公にちくりやがって。今日の朝電話がかかってきて、親に滅茶苦茶怒られたんだぞ。どうしてくれんだよ」
「そんな事言われても、だってロニーが……」
「何だよ。何か文句あんのかよ」
「……ごめん」
ふん、とそっぽを向き、怒りをあらわにする少年。
悪い事をしようとした人間に、それを止めようとした人間がなぜか怒られるという不可解な描写が、そこにはあった。
眉を吊り上げる少年に対し、今にも逃げ出しそうに尻込みするミレーナ。この辺りは性格の問題だろう。
内心では自分は悪くないと思っていても、結局相手の威圧の前に萎縮してしまい、止める所か逆に怒られてしまうとは。
納得のいかない表情をするミレーナに、相変わらず威圧的な少年の態度。まるで折り合わぬ気持ちをあざ笑うかのように場を風が駆け抜け、どこの国の言葉か分からない声を発しながらターゲットの二人は自分達が狙われていたとも知らず去っていく。
「どうしたんだ?」
ミゲルがやってきて、二人にそう問い掛ける。
助けてくれと言いたげにすぐさまミゲルを見上げるミレーナに、あんたもいたのかと言いたげな眼をする少年。
その眼はひどく荒み好戦的で、まるで昔の自分を見ているかのような気持ちになり、ほんの少しだけ同族意識を覚えてしまうミゲル。
少年は昨日の傷だって必要最低限の処置しておらず、まともに治療してもらえていないようだった。
可愛そうに。こいつもきっと良い環境で生活は出来ていないのだろうと、経験上からそう判断しつつもミゲルは、
「こんなところで何をしている。見た感じだと、昨日の件で懲りていないようだが」
大人としての忠告というよりも、事情を聞いているような、棘のない感じの言葉遣いだった。
しかし、別段少年の非行を認めている訳ではない。経験のある人間だからこそ、その心境は理解できる。
こういう場合は相手から気持ちを吐き出させるのが重要なのだ。
かくして、言葉を受けた少年はというと、
「な、何の話だよ」
流石に大人には勝てないと思っているのか、都合が悪そうに眼を逸らす少年。それからしきりにミゲルの顔をチラチラと見て、様子を窺っている。
まるで何かを言いたげなその行動に、ミゲルも顔をしかめる。
そしてある結論にたどり着く。ひょっとしたらだが、昨日の一件で身を挺して守った事に対して礼でも言いたいのではないだろうか。
だとすれば可愛らしいものだとミゲルは思う。
きっと不器用な性格が災いし、それを口にするのがどうしても出来ないのだろう。
何とも心が温まる話ではあるが、残念ながら男にそれを許容するだけの美徳は無い。
まあ少なからず恩義は感じているという事で、彼に対してそこまで生意気な口を聞いてこないのはいい事だろう。
そんな事を思いながら、ミゲルは一応は大人の端くれとして少年にこう告げる。
「もうやめておけ。どんな事情があるのかは知らないが、このままじゃそのうち取り返しのつかない事になる。犯罪に手を染めることに慣れると将来ろくな大人にならないぞ」
などと、最早テンプレートのような言葉に対し少年は、
「……分かってるよそんなの」
と顔をそらしたまま、とても小さな声で反応した。
「全然分かってないよ」
少年の言葉に、反発する声が。
ミレーナだ。先ほどまでしり込みしていた彼女だが、ミゲルという後ろ盾が出来た今、再び強気の発言に売って出た。
しかしとうの少年もミレーナには強気だ。年の割にはきつい目つきをミレーナに浴びせると、彼女はびくつきながらミゲルの後ろへと難を逃れる。
それでも止めてほしいという意思は伝えたくて、
「だったららどうしてまた盗ろうとしたの。本当に危ないんだよ。昨日だって私達が気づかなかったら死んでたかもしれないんだから」
少年の事を心配しているのは、声で分かった。そこまで接点はなくとも、知り合いは知り合い。
それも自分と同じ年という境遇は、ことのほか気になってしまうものだ。
その気持ちを汲み取ったのか、少年もミレーナに威圧を向けるのをやめる。膨れ上がった感情はみるみるうちにしぼんでいき、あるいは女相手に情けないと、あどけない悪は思ったのかもしれない。
「あっ!」
とここで、何かに驚いたような声が、空間に響き渡った。イタリアでは聞き慣れない独特の発声に、場にいる全員がそちらを振り向く。
見れば、アジア系の男が口を開けるという間抜けな表情をしながら、少年に指をさしている。
「どうしたの?」
彼と言葉を交わせるアテナが問う。いまだ動揺した様子の龍樹は少年の方を見たまま、
「この子だよ、俺の財布盗んだの」
と、まさかの遭遇に声が上擦りながら答えた。アテナは龍樹の方を横目で見ながら、
「財布って、スラれた件の事?」
「ああそうだ。なんだよ、もしかしてミレーナの知り合いか?」
「まあ……そんな感じだけど」
言いながら、今度は件の少年へと視線を向けるアテナ。言葉の分からない少年は突如自分に指をさしてくる人間に瞼を瞬かせている。
「本当にこの子で間違いないの?」
その反応を見るに、人違いの可能性も無くはないので、もう一度アテナは聞いた。冷静になってきたのか、龍樹はやや怒ったような顔をして、
「間違いないよ。流石の俺も、印象深い人間の顔を忘れるほど劣っちゃいないぜ――お前の精で大変だったんだからな。早く財布返せよ」
通じないにも関わらず、後半は少年に怒りをぶつける龍樹。しかし少年はいまだ顔を顰めている。龍樹の言動を見るに間違いないようだが、だとすればきっと、少年の方は彼の事を忘れているのだろう。
スラれた上に忘れられるとは何とも不憫な話だが、この際の問題はそこではない。
呆れからか、面倒くささからか。
他には気づかれないような小さな息を吐くと、アテナは疑問を晴らすべく少年に話しかける。
「ロニー、と言ったかしら」
「……ああそうだ」
「このお兄さんの事、覚えていない?」
「覚えていないって……そういえば何か見覚えがあるんだけどな。どこかで会ったっけ」
「あなたに財布をスラれたそうよ」
単刀直入に言ったアテナ。それを受けしばし考える間を空けた少年だったが、やがて思い出したのか、瞳孔を開けると明らかにバツが悪そうな顔をした。
それから努めて平常心を取り繕ったような態度を取ると、
「し、知らないね。人違いなんじゃねーのか。俺に似た人間なんて、ここいらじゃ結構いるみたいだし」
またそっぽを向き、誰とも眼を合わせようとはしない少年。
この辺りはやはり未熟だ。
そのしぐさを見れば例え裏世界の住人であるアテナでなくとも、彼が嘘を吐いているのは分かるだろう。
しかし相手はあきらめの悪い子供。
屈強な大男や狡猾な悪女とは、また接し方が違う。そもそもアテナ自身こういった詰問のようなものは決して得意とは言えない。
言えないながらも、どうにか話を進めようとはしているみたいだが。
「もう済んだことは仕方ないわ。彼にも落ち度はあったでしょうしね。ただ、財布には他にも色々と大事なものが入っているの。それが戻ってくれば今回の件は大目に見てもらうよう説得してあげるから、とりあえず財布を返しなさい」
「いや、返せ、って言われても、無いものは返せないからなあ。絶対人違いだって。もう一度よく考えてみなよって、そのお兄さんに言ったげなよ」
「お兄さんは絶対にあなただと言っているみたいだけど」
「だから人違いだって。本当に俺はやってない」
「本当にやっていないならなぜ眼を逸らす。正直に言えば許してくれると言ってるんだ。今更認めたところでどうなる訳でもないだろ」
「そりゃ、そうだけど……」
ミゲルも加わり、攻め立てられる少年。チラッとミゲルの後ろに隠れている少女に眼を見やる。まるで可愛そうな人間を見るような哀れみの瞳はそれだけで少年に罪悪感を与えてくる。
別段盗んだ事を認める、それ自体は構わない。昨日の大男と違い彼らはまだ話の分かる大人だという事は少年も理解している。
認めて財布を返せば今度から気をつけなよと終わるのは目に見えている。
しかし、嫌なのだ。
子供が大人に知恵でも腕力でも勝てないのは分かっている。ただ、ここで盗んだ事を認めてしまうと、どうしても避けられない出来事が起こってしまう。
とはいえ、やはりそこは子供の力。結局のところこうしてシラを切っているのも、時間の問題でしかない訳だが。
「ロニー。嘘を吐いても駄目というのは、あなたなら分かるはず」
再開される詰問。今度のは手探りだった先程とは違い断言した上での言葉だった。
最早逃げ道が無くなってきたロニーも、徐々に追い詰められていく。
「私達だって警察沙汰にはしたくないの。あなただって嫌でしょ? また親に怒られるのは」
「……嫌だけど」
「だったらどうすればいいのか。そんな事教えられなくても分かるわよね」
「分かってるよ。分かってるけど……」
「分かってるけど、何?」
追い討ちを掛けるような、アテナの言葉。別段彼女はそんなつもりはないのかもしれないが、如何せん感情の起伏が少ない彼女の事。
無表情で返される言葉を少年がそう捉えてしまうのも無理はないだろう。
「……」
最早間に合わせの言葉すら思いつかず、黙り込んでしまうロニー。悟ったかのようにどこか遠い所を眺めたかと思うと、チラチラとミレーナの方へと視線を行き交わせる。
そのしぐさが何を意味するのかを分からない様子で、
「仕方が無いわね」
ついにしびれを切らしたのか、アテナは目を瞑るとそんな言葉を口にした。
「それじゃあ警察に行きましょうか。あなたの親にもこの件に関しては話を聞かなければならない。ミゲル。この辺りで一番近い交番はどこだったかしら?」
「え? あ、ああ。確か東に進めばあったような」
「そう。なら早速そこにこの子を連れて行きましょう。考えても見れば、こんな回りくどいことしなくて、初めからそうすれば良かったのよ」
誰の反論も許さないような口調。目を開け方針を変えたであろうアテナは本当に先ほどまでの委ねる感じから一変していて、大人であるミゲルでさえ少し戸惑いを覚えるものだった。
彼でさえそうなるのだから、年端もいかない少年であるところのロニーは明らかにうろたえている。
逃げ出そうと半歩後退をするが、それを見た女はこんな言葉でその足を繋ぎ止める。
「無駄よ。あなたの素性は割れている。どこにいったってすぐに見つかるし、家に帰らずに行くあてはあるのかしら? イタリアの夜は小さな子供が生きていくには少しばかり厳しいわよ」
全てを見透かすような眼で少年を見るアテナ。今の話を聞いて逃げ出せるのなら大したものだが、ここで迷うような人間にそこまでの度胸はないだろう。
彼女もそう判断しているのか、ロニーに詰め寄る様子はない。
二の足を踏む少年に追い討ちを掛けるようにやりとりを進めていく。
「確かこの辺りは前からスリが多発していたのよね。もしかしたらそれに対しての関連も出てくるかもしれない」
「……そ、そうだな。スリに関しては警察も頭を悩ませているから、必然的にそうなるかもな」
「だとすればあらぬ疑いも掛けられてしまう可能性もあるわね……可愛そうに。でも仕方ないわよね。そこは私たちがどうこう出来る立場ではないし」
明らかに当て付けだった。あえて聞こえるように言っているであろうアテナと、それを聞いて顔を青ざめていく少年。
大人しそうな顔をして案外えげつないなと恐怖すら感じるミゲル。だが効果はてき面だろう。先ほどから何かを言いたげに口をぱくぱくさせるロニー。それは言うか言わまいかの葛藤か、助けを乞う情けか。
いずれにせよ確実に追い込まれているであろう少年に止めをささんと、アテナは言葉を続けていた。
「さあそれじゃあ行きましょうか。あなたにも色々と言い分はあるでしょうに。公平な第三者に聞いてもらってそれが正しいかどうか判断してもらいましょう。まあスリを働いた幼い子供と、被害者である大人の意見、どちらが重要視されるかは、言うまでもないでしょうけど」
「あーもう分かったよ! 言えばいいんだろ言えば!」
逆切れ、とはこの事だろう。
吹っ切れたロニーは声を荒げそう叫び放った。
これには場にいた全員が彼を見る。
「やっと話す気になってくれたみたいね」
計算通りというのは、表情を見なくても分かる。幾分か柔和になった目で少年を見るアテナ。
ロニーはふてくされた様子で頭を掻きながら、
「元から話す気だったよ。話す気だったけど……ミレーナの前であんまりそういう事言うなよ」
思わずそんな本音を口にした。
全然考えが及ばなかったのだろう。その理由は流石のアテナも予想していなかったのか、目を瞬かせ、黙り込んでしまう。
危険な状況に陥った相手の心理を突くのはそれなりに得意な彼女。ただ、こういった解釈をつけにくいものは、人一倍疎いのかもしれない。
ともあれ、これでどうにか話を進められる。
最早自分で犯行を認める供述をしてしまったロニーは、全てを話し始める。
「財布は……捨てちまったよ。足が付くと厄介だからな。用があったのはお金だけだし」
「……捨てたって」
今しがたの発言に余韻を覚えながらも、問いを返すアテナ。
「どこに捨てたの?」
「川だよ川。あそこなら時間が経てば海に移動するだろうし、いくら警察でも探せっこないだろう」
「捨てたのはいつ?」
「盗った日だよ。金だけ抜き取って、流れの激しい所に中身が入ったまま投げ入れた」
吹っ切れた少年は、まるで躊躇いのない返事で質問に答えていく。先ほどのうろたえていた一場面と、その真っ直ぐな視線を見るに、嘘は吐いていないだろう。
それにしても喋ってくれるのはいいが、悪びれた様子が全くないのは気のせいか。
そもそも彼はバラされたくないから喋っているだけだ。選択肢が一本に絞られてしまったから諦めただけであり、決して良心の呵責に駆られている訳ではない。
「なあ、どうだアテナ。俺の財布、戻ってきそうか?」
一縷の望みをかけ、問い掛けの途中でも入ってきた龍樹。その表情は不安半分、期待半分だ。しかし事の顛末を知っているアテナとしては、その事実を伝えるのは多少なりとも辛かろう。
だからといって優しい嘘を投げかけるような性格ではないが。
「川に捨てちゃったんだって」
「え? 嘘だろ」
単刀直入に告げたアテナに、驚く龍樹。
嘘だろと言って見たものの、彼女がそんな冗談を吐く訳がないと思い返す。となれば少年が嘘を吐いている可能性を探ってみるが、眼を合わせようとしない様子を見るにその線は薄いだろう。
「マジかよ。あの中には長年コツコツ貯めたポイントカードや、人生で唯一引いた大吉のおみくじがあんのに……」
と自分で言ってみて、正直そこまで重要なものが入っていない事に気づく。とはいえもちろん、無くなっていいものではない。
龍樹は眉を曲げ、ロニーを厳しい表情で見る。しかし普段からそういった威厳を示す事に慣れていない彼の睨みなど怖くないのか。
龍樹と目を合わせても表情ひとつ変えず。むしろ、何か文句があるのかよと言いたげに不機嫌な顔をするロニー。
びびっていないのが不服なのか、
「……くそ、言葉が通じれば強く言ってやるのに」
本当かどうか怪しい言葉をぼやく龍樹。
彼としても、子供に舐められて穏やかでいられるほどプライドは低くないという事だ。
まあこの際強く少年に言おうが言わまいが、財布が戻ってこないという事実は変わらないというのが、黙っている大きな理由ではあるのだが。
「もういいだろ」
財布がすでに紛失された今、次にどうすべきか。それを考えていた面々にロニーはそう持ち出した。
「ちゃんと約束通り話したんだ。この後は用事だってあるし、俺はもう行くぜ」
「まだよ。話は終わっていない」
アテナの言葉に、はあ、何でだよ、と反発するロニー。
「ちゃんと話せば見逃してくれるって言ったじゃん。嘘吐くのかよ」
「嘘は吐いていないわよ。財布が戻ってきたら大目に見るって言ったの。それが出来ないのであれば、このまま行かせる訳にはいかないわね」
「そ、そうだよ。大体用事があるってどこにいく気なの。また悪い事しようとしているんでしょ」
相変わらずミゲルの背に隠れているミレーナも黙ってはいなかった。びびっている癖に言いたい放題抜かしやがって、とロニーもミレーナを再び睨む。
「だから関係ないだろ、お前には」
「関係ないけど……でもやっぱりあるよ。悪い事するって分かってるのに行かせられないよ」
「勝手に決め付けるなよな。もしかしたら良いことしにいくかもしれないだろ」
「スリする人間がそんな事する訳ないでしょ」
食い気味に否定された、ロニーの言葉。もちろん悪い事をするからといって良い行いをしないというのは短絡的過ぎるが、その勢いと心配そうな表情に圧倒される。
「だいたいロニーは今の自分の立場を分かっていないよ。このお兄ちゃんが警察に言ったら、ロニーは捕まっちゃうんだよ。そうなったら幼稚園には来れないし、おいしいご飯だって食べられない。遊びにだって行けなくなっちゃう」
「……どうって事ねーよ。そんなの」
「あるよ!」
半ば興奮気味に急き立てるミレーナは、ここでミゲルの背後から前に出て、ロニーに詰め寄る。彼の目をしかと見ながら説得にも更に力が入る。
「約束して。もう悪い事はしないって」
「……何で俺がそんな」
やはりこの辺りは青臭い。分かったと言えば簡単に場から離れられるというのに、ロニーはあえて言葉を濁す。
後ろめたさからかついにはミレーナからも視線を逸らす始末。
つまりそれが意味するのは、この後の用事というのは彼女が懸念しているものであるという事。
「約束できないんだったら、行かせる訳にはいかない」
ミレーナ自身もそれを理解してか、決してロニーから離れようとはしない。彼を鋭い目で叱り付ける。改心させる為に言葉を掛けるのなら、弱気になっている今がチャンスだ。
「また悪い事しちゃうんだったら警察に言うよ。そうしたらきっとロニーも反省するだろうし」
「……勝手にしろよ。別に怖くねーし」
「どうしてそんなに強情なの。悪いことしなきゃいけない理由が何かあるの?」
「だからお前には関係ないだろ」
「無くてもあるの!」
語気を荒げ、一向に怖気ないミレーナ。そんな彼女に、ロニーは目を丸くする。これまで彼の中でのミレーナという少女は、内気で、自分の意見も口にできず、おおよそ言い返してくるような度胸は無いと思っていた。
なのに、今目前にいる少女は剣呑な顔でこちらを見据え、自分の意見どころか、他人の事にも口を出すというお節介を焼いている。
「……何か変わったなお前」
思わず漏れた本音に、変わってないよ! といまいち声量を調整できない感じで、ミレーナは否定した。
やっぱり、変わってる、とその変化に戸惑いながらも、ここ最近は幼稚園も休みがちだったから何かあったのだろうと勝手に推測するロニー。
まあどんな理由であろうと、今はそれが障害になってしまっている。
相手が退かないのであればこちらも真っ向から勝負するまでだと、渦中の変化を脇に置く。
「何にしたって、悪い事はやめられないよ。俺だって好きでこんな事してるんじゃないんだ。やらなくていいなら、端からやめてらあ」
「何それ。誰かにやらされてるって事? だったらそれこそ警察に相談しないと」
「うるさいな。簡単に言うなよ。色々あるんだよ事情が。浮かれているお前と違ってな」
「浮かれてなんかいないよ、普通だよ」
「どうだか。だいたいなんだよその可愛い格好。今から好きな男に見せびらかしにでもいくのかよ」
躍起になり、ついつい関係の無い事を引き合いに出して、ミレーナの戦意を削ぎに掛かったロニー。
しかし軽率だった。
これまで大人の立場として二人の言い合いを眺めていたミゲルはロニーの発言を聞き、こう口を挟む。
「……可愛いとは思っているんだ」
してやったりだったロニーの表情が、しまった、と焦りに塗り替えられていく。逆にミレーナは、馬鹿にされたと思い何かを言おうとしていたが、ミゲルの言葉で感情は一変、只でさえ赤い頬を、更に真っ赤にさせていく。
「と、とにかく、だ。俺はもう行くからな」
ミレーナ以上に顔を真っ赤にさせながら、およそ示しの付かないセリフを吐くロニー。きっと彼がこの場を去りたい理由は他にも付加された事だろう。
さておき、そのセリフを聞き我に返ったミレーナは再びロニーへと迫り、
「駄目だよ。まだ問題は解決していないんだから」
「しなくていいだろ。そもそもここいらじゃ結構当たり前なんだ。みんな問題問題って言ってるけど、気をつけない奴が悪いんだし」
「そういう問題じゃないの。悪い事をするのが駄目なんじゃない。皆がしてるからやるだなんてそんないい加減な考えじゃ――」
同級生の男の子に、道徳の何たるを、子供ながらの正義感を一生懸命振りかざすミレーナ。
だが埒が明かないと思ったのか、ここでロニーが強攻策に出る。
いまだ力説するミレーナ。そんな彼女の可愛らしくコーディネートしたであろうファーマルスカートの丈をロニーは両手で掴むと――豪快に捲し上げた。
ばさぁ、という効果音が聞こえそうな程見事に捲り上がるスカートは、少女の首下にまで舞い上がり、何が起こったのかを理解する間もなく落ちていった。
突然の出来事に場が凍り付き、事情を知りえない世界だけが進んでいく。
数秒後。
ミレーナは自分が何をされたのかに気づくと、短い、しかし甲高い悲鳴を上げ、その場に蹲ってしまった。
そして羞恥への耐性が整い、なぜこんな事をしたのかを問いただす為に顔を上げた頃には、実行犯である少年はすでに逃亡済みだった。
すばしっこい動きで遠のいていく背は半身で振り返りながら、
「はん! 格好は大人びてるくせに、パンツはヒラヒラ付きかよ――お前が俺に意見しようなんて十年早いんだよ。悔しかったら、もっと強くなれってんだ」
捨て台詞のようにも、励ましのようにも聞いて取れる言葉を投げかけると、ロニーはその後振り返らず、いつしか姿は消えていった。
「こ、こらぁ。ろにーぃぃ……」
完全に戦意を喪失されたのか、弱々しい口調のミレーナ。腰が抜けたのかいまだ立ち上がれず、どこか憔悴しきっている。
「随分とわんぱくな子だな」
少年の消えていった方角を眺めながら、そう呟くミゲル。
座り込むミレーナを助け起こすと、大丈夫か、と声を掛ける。少女はうん、何とか、と一応の立ち直りを見せるが、その顔はやはり浮かない。
ミレーナはお尻に付いた汚れを払い落としながら、
「どうしよう。ロニー、行っちゃった。また悪い事する気なのかな」
まるで自分に責任があるかのような表情。彼女の健気な心にほんの少し胸を痛めるミゲルは、思わずこう答えた。
「大丈夫だよ。あれだけ説得したんだ。もう懲りて足を洗うはずだ」
「そうかなぁ……」
ミレーナの気を揉む、優しい嘘。それは時が進むにつれアレルギーのように変動する残酷な言葉でもある。
経験者であるミゲルの見立てとして。
ロニーの身の上らしき話を聞くに、恐らく今後もスリなどの犯罪には手を染めるだろう。
悪い事をして捕まって、最悪の場合重大な過ちを犯し一生を棒に振る可能性だってあるのかもしれない。
だがそこにミレーナが巻き込まれる必要性は無い。
例え知り合いであろうとなんだろうと、自分の得にならない人間は切り捨てた方が絶対的に効率がいいはずだ。
しかし幼く、優しい性格の彼女はそうしようとはしない。
「もしかしてやり方が悪かったのかな。幼稚園の先生に相談して、ロニーが親に怒られたから、余計に腹が立ってそれで」
「おいおいそんな訳無いだろ」
自虐的なことばかり言うミレーナに、慌てて声を掛けるミゲル。
「ロニーだって止めてくれて感謝しているさ。ただ照れてるだけだ。ミレーナのやった事は正しい。何も自分を貶める必要は無い」
まさか自分がこんなに甘い人間だったとは、と内心で驚きつつ、やはりミレーナには悲しんでもらいたくないミゲル。
彼女には助けてもらった恩がある。
せめて傍にいる期間だけでも、笑顔でいてもらいたかった。
例えそれが偽りのものであろうと。
思惑通り。
「そうかな……だったら良かったかも」
ミゲルの言葉に励まされる格好となったミレーナは、ほんの少し報われた気持ちになったのか淡く笑う。
納得のいかなさそうな、しかし罠と分かっていても自らを守るために妥協したといった感じに、どこか不自然な同意。
人間やはり安心を本能的に求めるもので、それは子供であろうと変わらないんだな、とミゲルは勝手に分析し、自分の中で結論付ける。
これでいいと思った。
嘘をつく事が悪いのであって、何も知らぬ無垢な心は悪ではない。
人間が罪を犯さないようにするのは心理学的には簡単だ。それは罪を知らなければ良いだけの話。
アダムとイブだって蛇にそそのかされなければリンゴを食べなかったはずだし、ようは自分が嘘という罪を被ればいい、とミゲルは思ったのだ。
彼に限らず、既存する大人達の大半はこれまで幾度となく被ってきたであろう罪。
被りすぎて、すでに罪という認識さえ消えた、原罪の系譜ないしは残滓とでも呼ぶべきか。
大仰な話だが、つまり、何が言いたいのかと言えば、この際被る罪は一つも二つも同じだ。
ミレーナだっていつかは、元よりすでに吐いた事があるかもしれないし、何より洗脳教育というのは過去を遡っても必ずと言っていいほど付いて回る言葉だ。
「さあ。早く戻ろう。ミシェル達が帰ってくる前に食事を完成させたいんだろ」
しおらしい話はここまで、と半ば無理やりに声のトーンを上げたミゲルの言葉に、うん、とこちらは自然に声を上擦らせるミレーナ。
やはり子供というのは純粋で、素直で、何て脆いのだろうかと、その切り替えを見てミゲルは安心すると同時に、不安にもなる。
相対する感情が混じり合うのはどうにも気持ちの悪いものだが、元気になってくれて良かったと思う反面、こんな嘘をすぐに信じ込むだなんて、と最早親目線でミレーナを見てしまっている。
だが実際は違う。
すれた考えしか思いつかないような大人である所のミゲルには難題すぎるかもしれないが、ミレーナが特に根拠もない理論を鵜呑みにした理由はもっと単純で軽率だ。
粗のあるミゲルの言葉を信じた理由。
それは信頼しているミゲルの言葉だったからに他ならない。
「ん? どうしたんだミレーナ」
自分を見上げ笑顔を浮かべる少女に、その意を問うミゲル。少女は彼の問いに答える代わりに、少しだけ照れたように笑い、
「ミゲル、手繋ごう」
と小さな手を差し出した。
触れた事のない暖かさに、情けない事に戸惑ってしまうミゲルだったが、すぐさま大人の笑みを浮かべ対応する。
「ああいいさ」
小さな手を取り、並んで歩く。安心感を覚えたミレーナは更にミゲルへと擦り寄り、傍から見れば本物の親子に遜色なかった。
その後何事もなく、龍樹とアテナはパスポートに関する情報を得る為日本大使館へ、ミゲルとミレーナはサプライズの準備に取り掛かる為別れた。
途中道草はあったが、割かし効率よく動けたのが幸いし、食事はミシェル達が帰ってくるまでに完成し、驚いた顔をする二人にミレーナはとても満足そうな顔をした。
そして無事パスポート再発行の手続きを終えた龍樹達とも合流し、ロニーにミレーナがスカートを捲られた件、案の定戸籍謄本の送り方が分からず役所の人に迷惑をかけた十與の件など、話題に事欠かない場は様々な話で盛り上がった。
最後に仕事で疲れた二人の為に用意したデザートを提供して、これまた驚く両親を見て満足な顔をするミレーナ。
こうしてサプライズは大成功のうちにお開きになり、
アテナ、龍樹、ミゲル。
アルファーノ家の居候組み最後の夜は、良い思い出の中で幕を閉じていった。
そして。
次の日の朝。
仕事人間であるダニエルはその職務を全うし、龍樹とアテナは再発行されているであろうパスポートを大使館に取りにいき、休みのミシェルとミレーナは近くの街へと買い物へ出かけるというまさに誂えたかのような展開の中、ミゲルは家の中を気兼ねなく捜索していた。
戸建てとはいえ決して豪邸とはいえない面積。それに大事な物の隠し場所という条件で絞れば、空き巣経験豊富な彼に取っては、よほど難儀な場所でなければ見つけるのは難くない。
案の定。
二階にある子供部屋の机の引き出しに、ようやっと目的のものらしきものを見つける。
ミゲルは早速手にしたポーチのチャックを開ける。中には数えなければ分からない程度のユーロ札が入っていた。
イタリアの銀行は預けているだけで手数料がそれなりに掛かる。なのでこの家のようにタンス預金をしている家庭が多いというのは前から知っている情報だった。
(よし、これだけあれば)
と浮かれるミゲルだったが、見てみればそれらの大半は五ユーロ紙幣だった。だがお金には変わりない。
数えてみたところ、ざっと二百ユーロ。
身寄りのない身としては決して多い金額とはいえないが、この街から離れる事はできる。
チャックを閉め直すと、まるで自分の物のようなしぐさで服のポッケへとねじ込む。
悪いという気持ちはある。これが単なるミシェルのへそくりかもしれないし、ミレーナが一生懸命貯めたお金なのかもしれない。出来れば前者の方が有難いのだが、いずれにせよ、その行為に対して逡巡することはなかった。
そんな感情論に苛まれるほどの余裕など、彼には無い。
「悪いなミレーナ」
男は変わりに謝罪の言葉を置いていく。
「これが大人だ」




