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妖美なるこの世界  作者: 桂馬
イタリアの闇達
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見え始めた焦り

 ちゅんちゅんと自慢の庭からは小鳥達の声が聞こえてくる。

 雲ひとつない空からのぞく太陽は燦燦と地上に降りしきり、休日明けで憂鬱な世間の空気をまるで読もうとはしていない。

 とはいえそんなものは仕事に行かない彼にとってはどうでもいい事だ。

 基本、時間に縛られない生活をしてきたミゲル。

 今日も昼過ぎまで寝ていようが何ら問題はないのだが、現在置かれている状況を考えるとそんな悠長なことを言っていられるほどその神経も鈍くはない。

 こうしている今もカッサロー二の魔の手は着実に近づいているはず。 

 少なくとも今日にはおおよその指針を決めなければと、ミゲルは考えている。

 そしてもう一つ。

 彼が早起きしたのには理由があった。

「うう……頭が痛い」

「調子に乗ってワインなんか飲むからだろ。自業自得だよ」

 玄関先では昨日の晩に慣れない酒を飲み頭痛を催しているダニエルと、それを冷めた目で見送ろうとしているミシェルの姿があった。

 よほどダメージがあるのだろう。

 頭を抱え靴を履くその様は、とても今から仕事に行く社会人の姿ではない。

 ダニエルはあの後ひどく酔っ払った。

 ワインが無くなりお開きかと思った矢先に台所へ向かい、缶ビールを数本持ってきてそれを結局は自分で全て飲んだ。

 完全に酔っ払い、泣き上戸の彼は普段感じている不満や不安を一通りぶちまけると、様子を見に来たミシェルの手により飲み会は強制終了させられた。

 つまり朝から体調不良で仕事に行くというのは、何の捻りもない当然の結果なのだ。 

「はあ……それじゃあ行ってくるよ」

 ため息を吐き、憂鬱な表情をするダニエルはミシェルへと向かい合う。

 アルファーノ家では毎朝夫が出勤する際にはキスをするのが日課になっている。例え喧嘩中であろうが何だろうが、それはこれまでずっと続けてきた慣例だ。

 しかし、キスをする為に振り返ったダニエルの顔を見るや否や、ミシェルは相変わらずの険しい表情で、

「今日はナシだ」

 と言い放った。

 これにはダニエルも驚き、一瞬だけでも二日酔いが冷める。

「え? どうしてだい」

「そんな酒臭いやつとキスなんかできるか。どうしてもしてほしいなら胃の中にあるもん全部出しな。もちろん綺麗さっぱり、匂いも残らずにな」

「……まるでバイ菌みたいじゃないか」

 ミシェルの容赦ない一言に、本気でへこみそうになるダニエル。日常的に唇を重ねている彼の事。今だってそこまでキスがしたい訳ではない。ただ、これまで当たり前だったものが無くなるというのは、彼の心情的には思わしくないだろう。

「お願いだよミシェル。キスしてくれ」

「だから嫌だって言ってるだろ――って、ああもう、気持ち悪い口をするな、早く仕事に行けって」

 唇を尖らせ迫ってくるダニエルを、頑なに拒否するミシェル。

 結局形振り構わずキスをせがむ彼を叱咤し、どうにか仕事へと送り出す。

 可愛そうに。

 全力で嫌がられたダニエルは肩を落とし、まるで敗戦したボクサーのように仕事場へと向かって行った。

「全く、子供じゃないんだからもっとしっかりしてもらいたいよ」

 鼻息を荒げ、夫が出て行ったドアを眺めるミシェル。高級なワインを飲んだからなのか、それを次の日にまで残したからなのか。

 いまだに険しい表情からは、そのどちらかは図れない。

「……厳しすぎやしないか?」

 今しがたのやり取りを見ていたミゲルは尋ねる。

 ミシェルは分かっているとでも言いたげに目を細めながら、

「いいんだよ、たまには」

 と言葉少なにそう告げた。

 別にダニエルの事が嫌いな訳ではない。

 彼には黙っているが、彼女は妊娠をしている。それによりホルモンの分泌がおかしくなっており、他人と身体を触れ合うのが嫌になっていた。

 とはいえもちろん、ダニエルの事は愛している。

 ミシェルとしても出来る事なら形だけでもキスはしてあげたい所なのだが、最近はつわりもひどく中々そういう訳にもいかない。

 匂いでばれる可能性だってあるし、何よりも彼には女として見てほしいのだ。

 そんな事情があるとも知らず、浮かない顔をしてほんの少しだけダニエルに同情するミゲル。昨晩に彼の熱い胸の内を聞いた身としては、心が痛む。

「ところでミゲル。ミレーナの件、本当にいいのかい?」

 沈んだ空気から一変、ミシェルは何気なく訊く。その言葉にミゲルはああ、と少しぶっきらぼうに答えた。

「これだけしてもらっているんだ。子供の面倒を見るくらいどうって事はない」

 ミゲルが早起きをしたもう一つの理由。それはミレーナのお守りをするというものだった。

 実はここイタリア。公立幼稚園の休みが非常に多い。その理由も復活祭や会合や選挙があるからなどなど。

 仕事のある親御さんに取っては堪らないが、昔から続いてきた土地柄なのだから仕方がない。

 そういう時の為かどうかはさておき、両親のすぐ傍に住まうというのがイタリアでは通俗的なのだが、彼女たちはその例に漏れている。

 別段遠いという程でもないのだが、代わりに見てくれる人間がいるのならわざわざ頼む必要もない。

「それにミレーナはしっかりしているからな。特に俺が注意するような事もないだろうし、楽なものさ」

「……ありがとう。バイト代は払うからよろしく頼むよ」

 淡く笑い、感謝の意を表するミシェル。

 とはいえ、彼女達だって決してお金持ちではない。

 そのバイト代とやらもほんの気持ちだろうし、むしろ居候させてもらっている人間がとやかく言う立場でないのはミゲル自身重々承知している事だ。

 


「それじゃあよろしく頼むよ」

 身支度を終え仕事へ行く準備が出来ると、ミシェルは玄関でミゲルにそう告げた。

「十六時ぐらいには帰ってくると思う。もし遅くなりそうなら連絡するよ。まあお守りをしてくれとは言ったが必要最低限の事だけをしてくれればいいから、後はゆっくりしてくれ。それともそろそろ彼女さんのほとぼりも冷めただろうから、電話の一本でも入れておくかい?」

「……そうだな」

 怪しまれないよう適当に相槌を打つと、ミゲルはどう切り返すかを考える。

 うまく取り入れられた今となってはこれまでの話が嘘だとは言い難い。はなから話すつもりはないのだが、ここまでよくしてくれている彼らの憂慮は、少なからずミゲルに背徳感を与えていた。

 しかしやはり自分を窮地に追いやるだなんて馬鹿げていると、ミゲルは瞬間芽生えた良心の呵責を振り払い、

「後で連絡をするよ。彼女もきっと朝は忙しいだろうからな。タイミングを見誤れば、それこそ余計に怒らせちまう」

「そうかい。随分と気難しい彼女さんなんだな」

 不憫に思ったのか、ミシェルは鼻で笑った。

 考えても見ればおかしな話だ。彼女に愛想をつかされて人の家の庭に倒れているなど、信じてもらえたのが今でも不思議でならない。

 ミシェルもそろそろその違和に気づいてもいい頃だ。

 傷はどういう経緯でついたものだとか、果たして本当に痴話喧嘩が原因なのかだとか、大の大人が一銭も持っていないのはどうかだとか――不審な点などいくらでもあるのだから。

「まあそういう事なら、確かに慎重にいった方がいいな」

 しかし次の瞬間快活に笑うミシェルの様は、そういった懐疑的なものを一切持っていないように、ミゲルは思えた。

 それどころかむしろ同情してくれてさえいるようで、

「じゃあそのタイミングとやらがくるまでゆっくりしてけばいいよ。代わりと言っちゃなんだが、出来れば龍樹君達にも昼飯を食べさせてあげてほしい。五十ユーロ渡しておくから、うまく皆の分をやり繰りしてくれ。もちろん、あんたのも含めてな」

 財布の中から皺くちゃなユーロ札を取り出し、ミゲルに託す。

 それを受け取った本人は感慨深そうに五十ユーロを見ていた。つい最近デザインが刷新された紙幣。長年ドル札で浸ってきた金銭感覚はやや抵抗しているようで、いまだにこれがいくらの価値があるかを考えてしまう。

 脳内で為替作業を終えると、ミゲルは改めてミシェルの方を見る。

 当の本人は最終確認をしているようで、玄関に掛けてある姿見で髪を束ねながら身だしなみをチェックし、やがてその作業を終える。

「じゃあいってくる」

 玄関で立ち尽くすミゲルに手を振り、ミシェルはドアを開け外へと向かう。

 その背中は感謝されるほどでもないと語っているようだった。

 当たり前の事をしているまでで、別段特別な事をしている訳でない、と。

 ミゲルとしても、一応のプライドのようなものはある。これでも他人の善意を断った事はあるし、だからこそ自分は他人に優しくしないと捻くれていた時代もあったものだ。

 もちろん、今はそんな事を言っていられない。

 元より無一文の身なので施しを受けざるを得ない状況。

 形だけでもと姿の見えなくなったミシェルに手を上げて誠意を示すミゲル。

 自分の空っぽになっている財布へと紙幣を乱暴に入れると、男は清々しく笑った。 

 改めてその変質な心意気に疑問を覚える。こんなどこぞの他人を匿うだなんてどうかしている。自分だったらまず関わろうとはせず、無難な道を選んだであろう。

 別に小馬鹿にしている訳ではない。

 遠いいつの日か受けた不明瞭な温もりを思い出し、おかしくなってしまったのだ。

 改めて考えてみると人の情というものは、ずさんな人生を歩んできた男には到底理解できないもの。

 しかし体が拒否反応を起こすほど悪いものではない。

 子供のころには確かに持っていたであろう純粋で無垢な思いやりという精神。

 長年疎遠になっていたそんな感情を少しだけでも感じられたという事は、心境に変化が現れているという事なのだろうか。

 今回の一件を乗り越えられれば、また戻れるかもしれない。

 純粋で思いやりのあった、若かりし頃の気持ちに。

 自分でも作りすぎではないかという笑顔を、彼女が見えなくなってもしばらくの間は継続するミゲル。

 これまで受けた施しやミレーナの純粋な言動が思い出される。状況が状況でなければ、これからも付き合いを続けたいと思えるほどに仲も良くなったと思う。

 アルファーノ家の面々は本当に素晴らしい連中だ。

 図らずとも展開される笑顔にはそういった敬愛の心も加わっており、ひどく自然に見えなくもない。

 もっと違う出会い方をしていればあるいは、と絵空事と分かっていながらも、男はほんの少しの間だけよこしまな事を考えてしまう。

 そしてミシェルが庭先を越えたであろう時を見計らうと、

(……さて)

 最早形だけの見送りを終えたミゲルは動き出す。 

 表情は一気に真剣なものになり、狭い家中を割かし早歩きで進み、ある場所へと向かう。

 脇目もくれずたどり着いたのは夫婦の寝室。

 そこにあるチェストに手をかけると、引き出しを上から順に開けていく。引き出しには服やズボン、寝巻きや下着といったごく普通のものが仕舞い込まれており、中には夫婦の趣味なのか自分も使われた覚えのある手錠やいわゆる大人のグッズなんかもあったが、ミゲルの探しているものはそこには無かった。

(別の場所か)

 時間は残されていない。この部屋には無いと判断すると、ミゲルは次いでリビングへと直行する。

 キッチンボードの引き出しや小物入れの中、挙句には冷蔵庫の中も漁っていくが、目当てのものは見つからなかった。

(くそ……一体どこに)

 玄関、トイレ、洗面台と探すも見つからず、そして今度はシャワー室を物色しようと考えた矢先、

「あれ? ミゲル何やってるの?」

 空間に響いた、寝起きのような可愛らしい声。 

 今まさにシャワー室に差し掛かろうとしていたミゲルは咄嗟に振り返る。そこには寝ぼけ眼で階段を下ってきたミレーナの姿があった。

「よお……おはよう」

 上っ面な笑みに対し、疑いを持たぬ無垢な笑みはおはよう、と返した。

 その様子を見たところ家の中を荒らしているのを見られた訳ではないのだろうが、例え相手が子供とはいえ心配にはなってしまう。

「どうしたんだ? 何だったらもっと寝ててもいいんだぞ。今日は幼稚園休みなんだから」

 ミレーナはパジャマ姿だった。昨日は階段を下りてきた時にはすでに着替えを終えていたのでてっきり習慣づいているのかと思っていたが、たまたまなのだろうか。

 それともやはり物音を聞かれてしまったのだろうかと、内心ドキドキするミゲルに対し、ミレーナは眼をこすりながらこう言い放った。

「おしっこ」

「……」

 その発想はなかった。

 まさかの答えに、苦笑いを浮かべるミゲル。

 ふう、とため息を吐く。

 考えても見れば、相手は子供。漁っているのを見られたところでどうとでも言えるだろうし、ましてやミレーナは彼に尊敬すら覚えている。

 ミゲルは気付かれないほど小さな息を吐くと、

「トイレに行ったら着替えてきな。朝御飯作っておくから」

「え? ミゲルが作ってくれるの」  

 無邪気な笑みを浮かべ、そう問うてくるミレーナ。ああ、とミゲルが言うとその笑顔は更に輝きを増し、子供の笑顔というものはなぜこうも眩しいのだろうかと、嫌気すら感じてしまうほどだった。

 小走りでトイレに駆け込むミレーナ。その小さな背は愛しくて、これが本当の娘ならきっと抱きしめてしまっているだろう。

 ワイルドな顔に描かれる複雑な笑み。

 自分でも不思議な感情だが、彼女には嫌われたくないと感じてしまっている。

 それにしてもまずい。何だかんだでズルズルと行ってしまっている現状は、確実に彼を追い詰めていく。

 家の中を荒らしているのがバレなくて良かったなと思う反面、やはり周りが見えなくなっていると危機感も覚えるミゲルであった。

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