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妖美なるこの世界  作者: 桂馬
イタリアの闇達
126/261

そよ風のウッドデッキにて

 そよ風が草木を撫で、辺り一帯を優しく包む。

 アルファーノ家の一階には立派なウッドデッキがある。

 客人が来た時にはそこでパーティーが出来るし季節によればここから星空を眺め家族で天体観測だって出来る自慢の場所だ。

 食事を終えたミゲルはそこで煙草をふかしていた。囲いとしての植物が茂ってはいるが、全く中の様子が覗えない訳ではないので彼としても外に出るのは出来れば避けたいところなのだが、妊婦のいる前で吸う訳にもいくまい。

 大らかな性格のミシェルは構わないといいそうだが、身体に悪い煙を吸引すれば胎児に少なからず悪影響を与えるのだから構わない訳がない。

 という事で、自主的に外へ出る形になったミゲル。

 暑かった昼間と違い手入れされた庭を駆け抜ける風はひんやりとして心地よかった。昼の気温に雲もやられたのか空には月がくっきりと鎮座している。

 混乱した頭を冷やし、冷静に物事を考えるには丁度いい環境だ。

 かといって何か浮かぶかといえば、全く浮かばないのだが。

「良い場所だろ」

 一際口に溜め込んだ煙を中空に吐いたその時、後方から声を掛けられた。

 ぼんやりとした頭で振り返るミゲル。

 そこにいたのは思った通りダニエルだった。

 手にはビンのようなものが携えられている。もう一方の手には二つのグラス。となれば、それが酒を酌み交わすために持ってきたものだと推測するのは想像に難くない。

 予想通り、ウッドデッキにある椅子に腰掛け、まだ封を開けていないワインを机の上に置くとダニエルはグラスを対になるように並べた。

「一杯どうだい」

 相変わらず人当たりの良さそうな笑みを浮かべるダニエル。それを見たミゲルはうっすらと笑う。こんな事を思うのは失礼かもしれないがとても年上の男とは思えない、と感じたのだ。

 さておき、せっかくの誘いを断る理由もない。

 了承の言葉を述べると、ミゲルはダニエルと酒の席につく。 

「今日は悪かったね。本来なら僕が行くべきだったんだろうけど」

 お詫びのつもりか、ミゲルのグラスにワインを注ぐダニエル。

 まあ人がいい性格の彼の事。

 例え後ろめたいことがあろうとなかろうと、酒を注ぐのは変わらなかっただろう。

「ピクニックの事か?」

 分かっていても一応は確認するミゲル。ダニエルはああ、と答え、

「いや、自分でも分かっているんだよ、駄目な父親だって。せっかくの休日に家族の傍にいてやれないだなんて、たまにならまだしもほぼ毎回だなんてさ」

「考えすぎじゃないのか。男は働いてこそだろ。その金をだらしない使い方しているならまだしも、あんたは家族のために使っている。むしろもっと尊敬されるべきだと俺は思うね」

「ありがとう。そう言ってもらうと浮かばれるよ」

 と言った割には、力のない笑みを浮かべるダニエル。仕方がないと言えば仕方がないとミゲルは思う。こんなどこぞの落ちぶれた男に慰められているとあっては、これまで培ってきたであろう努力とやらも報われまい。

「それで、二人はどうだった?」

 ダニエルが問う。昼間の二人の様子を。自分に対して何か言っていなかったかを。

 恐らくこの飲み会の狙いはそこだろうとミゲルはすぐに気づいた。

 へらへらしている割には小心者だなと驚きつつ質問に答える。

「どうもしないさ。ミシェルはよく喋ってあんたの悪口ばっかり言っていた。まあ悪口っていうよりかは愚痴かな。とにかく家にいる時と同じだよ。何を気にしているかは知らないが、あんまり考えすぎない方がいいと思うぜ。俺が言えた義理じゃないんだろうけど」

「そうかい? まあ考えてもしょうがないと言うのは確かにその通りだ。結局自分が変わらなきゃ何も変わらないからね」

「そういう事さ」 

 適当に相槌を打ちながら、ワインを半分近く飲むミゲル。安物のワインだろうと踏んでいた酒は思った以上にうまかった。推測になるがこれほどの味なら値段はそこそこするはず。発泡酒を飲んでいた昨日の事を思い出すと、これは確実に贅沢なものだ。

 それをそのまま伝えたところ。

「ああ。実はちょっと奮発したものでね」

 頼んでもいないのにボトルのラベルをミゲルに見せる。正直酒は最高級なものを飲める環境にあったのでそれなりに分かる。

 ダニエルが買ってきたワインは確かに高級と言えば高級なのだが、それは一般庶民で例えた場合。

 まあそれでも奮発したには変わりない。

「いいのか? そんな酒を俺なんかが飲んで」

「もちろんさ。本当はミシェルにお詫びのつもりで買ってきたんだけど、何だか体調が優れないみたいだからね。僕自身あまり酒は飲めないから、どうせなら客人にもてなそうと思って」

 勢いよくワインを飲むダニエル。決して低くはないアルコールを含んだそれを飲み干すとぷはあ、と息を吐く。

 本来その酒はそういう飲み方をすべきではないのだが、きっと彼なりに飲まずにはいられない理由があるのだろうとミゲルは察した。

 普段酒を飲まないのに無理をしたのがたたり、やはり苦しそうに酒から口を離したダニエル。グラスを机に置くと、はあ、と一際大きなため息を吐き、

「彼女が夜抑える程飲むだなんて、やっぱりストレスが溜まっていたのかな」

「まあ……ストレスの溜まらない人間なんていないと思うぜ。家族とはいえ他人と一緒に過ごすならなおさらさ」

「どうだろうか。酒はよく飲むほうだけどちゃんと管理できていたんだよ。というより、彼女はそうせざるを得ない体質だから。もしかしたらそこまで追い詰めちゃっているんじゃないかなと思って。それこそ僕に愛想を尽かしていても不思議はない」

「だから考えすぎだって。俺だってそれなりに女の気持ちは分かるつもりさ。ありゃあんたがいないからふてくされていただけさ。本当に嫌いなら、その場にいないやつの話なんてしないって」

 ミゲルの心遣いにほんの少しだけ救われた気になると、ダニエルはありがとう、と礼を言った。

 しかし当の本人はお世辞でもなんでもなく己の見立てで喋ったに過ぎないので感謝される義理はない。そもそも他人の事なんて心配するような柄ではないし、何より相談相手を間違っているような気がせんでもないと、ミゲルは少しだけダニエルに不憫を覚える。

「それにしても、そこまで思いつめているなら逆に休めばいいじじゃないか。一週間に一度休むくらい、ここいらじゃ無い方が異端だ。もしかしてブラックにでも勤めているのか」

「そうじゃないよ」

 まさかの見解だったのだろう。苦笑いのようなものを浮かべ、また自分のグラスにワインを注ぐダニエル。

 では一体何が原因なのだろうかとミゲルが考えていると、

「……ミシェルはああ見えて身体が弱くてね」

 ダニエルは悲壮感漂う笑みを浮かべポツリと呟く。

「あの性格だからあまりそれを表ざたにはしないけど、一般に比べてはるかに運動ができない。重いものを持てば動悸が激しくなるし、ちょっと走っただけで眩暈を引き起こしてしまう。本人は元々運動は嫌いだから丁度いいと言っていたけど、あの性格だとそれが本心かどうかも分からない」

「……というと?」

 暇つぶし、と言えば失礼かもしれないが、仮にも仲良くなった間柄。酒の肴にできるほどには興味のある話だと、ミゲルは耳を傾ける。

 ダニエルも酒を呷りながら続けた。

「これは人づてに聞いた話なんだけど、中学の時にあった体育の授業で彼女は倒れた事があってね。何でも皆が健康に動いているのに自分だけ見学しているのが嫌という理由で運動に参加したらしい。それが原因で心臓が発作を起こし、彼女は生死をさまよった」

「生死って……そんなに悪いのか?」

「ああ。出産の時だってそうさ。当時の僕も身体が弱いってのは知っていたけど、そこまでだとは思いもしなかったからさ。妊娠して医者に見てもらって死のリスクがあると言われた時は頭が真っ白になったよ」

 出産、というワードを聞いて、ミゲルは何かが引っかかった。それからしばらくして、ぴんと来た。

(なるほど)

 ミシェルがなぜ妊娠した事をダニエルに隠しているのかがようやく理解できた。てっきりサプライズでも仕掛けるのかと軽い考えを持っていたが、まさかそんな事情があったとは。

 西欧ではピルが一般的だ。なので、男性がスキンを装着するという概念が薄い。つまり女性側が避妊していると言い張れば、大抵の男はそれを信じ込むしかない。心配な場合は色々とやりようはあるだろうが、夫婦である彼がそんな事をいちいち気にするはずがない。

 そこだけ切り取ればまるで詐欺のように思えてきたが、自分は所詮他人、余計な口は挟まないでおこうとミゲルは踏ん切りをつける。

 そんな事を露知らないダニエルは、落ち込んだ様子で話を続けていた。

「とにかく、一見して感情的になる性格に見えるけど、本当は溜め込んでしまう性格だからさ。今は経済的にも苦しい状況だから彼女にも働いてもらっちゃってるけど、そのうち仕事もやめてもらおうと思っている。本人がやりたいっていえばしょうがないけど、いずれにせよ無理だけはせずに済むよう経済力を持たないと。その為には仕事で結果を残して、もっと稼ぐようにならなきゃいけない。僕はそこまで優秀な能力は持っていないから、休日返上だとか他の人間と違う事をしなくちゃ上には上がれない。だから今は休む訳にはいかないんだよ」

 抱負のような言葉が、その口から放たれていく。

 きっとダニエルは色んな角度から妻であるミシェルの事を見て、常に気を配っているのだろう。彼がここまで仕事を優先しているのも、もしかしたら百パーセント家族の為なのかもしれない。

 だとすればますます理解できない話だ、と畜生な人生を送ってきたミゲルは思う。

 愛する者とはいえ他人の為に人生を注ぐなど、尊敬こそしないがよくやるよと感心はする。

 そしてそれは幸せなことなのだろうかと、少しばかり考えてしまう。

「一つ聞いていいか?」

 ミゲルは興味本位で訊く。

 ダニエルはまた人のいい笑みに戻り答えた。

「何だい?」

「仮にミシェルやミレーナの命と引き換えにあんたの命が必要となる。もちろんあんたは迷わず自分の命を差し出すだろう。だが、本人が死ぬリスクを承知の上であんたに死んでほしくないと言う。そういう状況に立った時、アルファーノ・ダニエルという男はどんな選択肢を選ぶんだい?」

 回りくどい、おかしな質問。ミシェルの意を汲み、妊娠している事を伏せて彼に問うているのだ。

 しかし先ほどのくだりがあるので、このタイミングでこの質問は勘の働く者なら怪しむ可能性だってあるはず。

 まあ例えそうなった所で、こじつけはどうとでもできるが。

 かくして、突飛な質問に目を丸くしたダニエルはやがて笑って、

「何だいその質問は。心理テストか何かかい?」

「まあ……そんな所かな」

 酒が回るのが早いのか、頬がやけに赤いダニエルは乗り気だった。これまでの社会的な間の取り方と違い、声も弾んでいるのは距離が縮まっている証拠か。

 それにしても酔うのが早い。グラスはまだ三杯目だ。ミゲルはこの男は相当な下戸のようだと判断しつつ、

「で、どうなんだい。彼女の意思を尊重するのか、それとも自分の意思を押し通すのか。または他の方法を選ぶのか」

「うーん。そうだなあ……」

 真剣に考えているのか、腕を組み難しい顔をするダニエル。ミゲルとしてもそこまで本気で考えなくても、と思ったが、曲がりなりにもそうさせているのは自分なので止めるのも悪い気がせんでもない。

 十秒ほどだろうか。 

 押し黙っていたダニエルはとりあえずと言った具合にこう答えた。

「やっぱり自分が死ぬかな」

 親が聞けば軽率にもほどがあると叱咤しそうなほど軽い声で、そう言った。

 予想だにしない答え、では無かったので、ミゲルもそこまでは驚くまい。というよりも、あくまでもこれは架空の話だ。

「別に僕たちに限った話じゃないはずだ。誰だって愛する者には先に死んでもらいたくないだろう。ようはそういう存在がいるかいないかの問題であって、特例の何かがある訳じゃない。僕にとってはそれがミシェルとミレーナってだけさ」

「……そうかい」

 ぐい、と一際勢いよくグラスを煽るミゲル。これでミシェルが黙っている理由がはっきりした。恐らく、というか今の返しを踏まえるに、ダニエルは間違いなく彼女が出産するのを許しはしないだろう。

 自分の命に関る事なのに黙っているだなんて……肝っ玉が据わっているとは思っていたがここまでとは、とまたしても理解できない考えに、ミゲルのワインをあおる手も進む。

「で、心理分析ではどうなったんだい?」

 明確な言葉は無いのに、そう信じてやまないダニエル。

 見かけの割にはそういった凡俗のようなものが好きなようで、今も楽しそうに目を輝かせている。

 先の見解といい今の状態といい。

 酒によって露になった彼の本性は、どうやら相当おめでたいらしい。

 仕方なくミゲルは辻褄を合わせる。

「心理分析、というかこれは俺からのアドバイスになるが、もう少し家族の事を信用してやったらどうだ」

「……というと?」

 赤くなった顔をしかめるダニエル。こんなごろつきの男の言葉に所帯持ちの大人が興味を占めすだなんて世の中おかしいものだと思いながらも、断る理由もないミゲルは続けた。

「全部自分で抱え込む必要ないんじゃないのかって話だ。一人の稼ぎで養おうとするその心構えは立派だが、人間慣れないことをすればどこかで無理が生じる。実は昼にミシェルとあんたの話をしてな。何を考えているのか分からないだとか馬が合わないだとか言っていた。それを聞いた時俺は、この家族はお互いに気を使っちまっているんだなと感じた……あながちハズレちゃいないと思うぜ。一見してあけすけに話し合える仲かと思いきや、本心で話し合えていない部分もあるんじゃないのか」

 図星だったのか。

 眼をぱちぱちさせた後、感慨深そうに大きく唸るダニエル。

 当てるのはそんなに難しい事でもない。案外身の回りの事は本人達が一番気づいていないだけで、それなりに人間という生き物を知る者が彼らを見ればすぐに見抜ける問題だ。

 馬鹿まじめなダニエルにもそれは分かっており、しかしどうすればいいのか悩んでいたところだった。

「やっぱり他人から見てもそう思うかい。何だか恥ずかしいな、見透かされているみたいで」

 ワインをぐびりと飲むダニエル。気を紛らわせようとしているのが丸分かりだ。真面目な性格の彼の事。

 きっとこんな話は誰にもせず今日まで来たのだろう。

「別にあんたらが特別って訳じゃない。どこだってそうさ。考えの違う人間が一つ屋根の下で過ごすんだ。悩みが無い方がおかしい」

「そりゃそうだ。だけど、人間には相性ってのがあるからねえ……」

 苦笑いを浮かべ、落ち込んだ様子のダニエル。直接的な声に出さずとも意見を求めているのは明確だった。

 やれやれ、とミゲルは内心でため息を吐く。彼自身はあまり気付いていないようだが、ほんの少しばかり嫉妬もしていた。良い奥さんに可愛い娘がいる現状、何を心配する必要があるのだろうか、と。

「あんたはミシェルの他に好きな人間でもいるのかい?」

 ミゲルはぶっきらぼうに言った。

「……いる訳ないだろそんなの」

 質問の意図が分からず、妙な間を空けたダニエル。愚問も甚だしいとでも言いたげに、その表情も不機嫌そうだ。

 ミゲルは構わない調子で続けた。

「だったら一緒にいればいいじゃないか。考えるのは良い事だが悩むのは違うと思うぜ。向こうだってあんたの事が好きで一緒にいるんだろうから。さっきも言っただろ。全部抱え込もうとしてどうする。あんたはちっぽけな人間なんだ。人の人生をどうこう出来るほど優れちゃいない」

「優れちゃいない……ってのは同感だが、人の人生に影響を与えない、って事はないだろ。僕が日中酒やギャンブルに明け暮れる体たらくな男なら二人の生活は大きく変わるんだから」

 酒の精か、熱く反論してくるダニエル。この男にはさじ加減というものがいまいち分からないらしく、言った言葉をそのまま飲み込む傾向があるようだ。

 なるほどミシェルに聞かされた馬鹿がつくほど真面目とはこういう事かと冷めた目でワインを口に含むミゲルに気づかない調子で、ダニエルの弱音は続く。

「僕が金持ちで何でも出来る人間だったら、二人はもっと幸せな生活を送れたんじゃないのかって、近頃ふと思ってしまう事があってね。だってそうだろ。それならわざわざ料理の食材を買うのに値段を見る必要もないし、休日遊びに行く場所でやりくりをする必要もない。本当に申し訳ないよ、彼女達には」

 泣き上戸なのか。

 俯き、ひどく落ち込んだ様子のダニエル。恐らく、というか絶対にこの男はミシェルしか女を知らないのだろう。初々しいといえば聞こえはいいが、正直、昨日今日会っただけの関係である身とすれば、ちょっとしんどい。

 まあしかしこれも居候させてもらっている義理かとミゲルは判断して、

「そもそもそんな男ならミシェルは惚れなかったと思うがね」  

「……どういう意味だい?」

 顔を上げ、まるで信仰する教祖の言葉を耳にしようと言わんばかりに彼を見るダニエル。

 泣いてはいないが、その表情はは悲壮感を漂わせていた。こりゃ慎重に言葉を選ばないといけないなと、ミゲルも妙な切迫感に見舞われる。

「あの勝気な性格だ。嫌なら嫌って、直接は言わなくても態度には表れる。まだ会ったばかりの俺がこんな事を言うのは早いんだろうが、その傾向は見られなかった。むしろ可愛い娘と優しい夫を持った今の現状に満足しているようだったぞ。金持ちでルックスがいい男なんて存外つまらないものさ。選り好みはあるだろうが、結局優劣が付けば一緒に居てもうまくいかないだろうし、何よりも面白みがない。それなら勝気な女は生真面目で内気な男と一緒に居たほうが楽しいに決まっているだろ」

「……そんな簡単なものかな?」

「まあな。ただ、そこまで気にする必要はないと思うぜ。あんたはあんたが思っている以上にいい男だ。苦しくても一緒に居たい。これ以上の愛がどこにある。仮にそういったいわゆる非科学的なものが嫌いなら他所に聞くことだ。為になるアドバイスってのは、結婚もしていない俺じゃ役不足だからな」

 自分の見解を述べつつ、早めの切り上げを試みるミゲル。せっかく上質なワインを飲んでいるというのに辛気臭い話など酒がまずくなる。

 それに今しがた言った話も丸っきり適当という訳ではない。

 出来る事ならこれで一応の納得がいって気持ちが楽になってくれればいいのだがと、ミゲルは小さく願う。

「苦しくても一緒にいてくれる、か……」

 感慨深かったのか、その言葉を反復するダニエル。どこを向いているのか下を向いたまま黙考する姿は、己の中で結論を出そうとしているのだろう。

 その姿をミゲルは静かに見届けていた。自分には到底理解できぬ悩み。人間という生き物がいかに多様で贅沢なものかに気づかされながら。

「うん、そうだね」

 やがて結論が出たらしく、そう口にしたダニエル。すがすがしい笑顔を浮かべる彼を見ていると、振り子がどちらに傾いたかは想像に難くないだろう。 

「彼女の意見も聞かずに勝手にそうあるべきだと決め付けるのはよくない。一度と言わず悩んだ時こそ話し合わないとね。経済力にいたっては、きっと彼女も僕に期待していないだろうし」

「立ち直ってくれて良かったよ。さあ、仕切り直しといこう。明日も仕事なんだろ。出来る男ってのは要領良く息抜きするものだぜ」

 ミゲルはそう言って、空になりかけているダニエルのグラスにワインを注ぐ。その雰囲気に釣られたか、ダニエルの表情には先ほどまでの不安はない。

「ありがとう。すまないね、客人にこんなどうでもいい相談をしてしまって」

「構わないさ。むしろ俺は客人というより招かざる客だからな。せっかくの一家団欒に、いい年の男なんて邪魔で仕方がないだろう。愚痴ぐらい聞かせてくれよ」

 恋人間の相談だなんて、正直マフィアに追われているこちらの相談に乗ってほしいというのがミゲルの本心だったが、まあ仕方がない。

 本人としてもいい気分転換にはなる。

 上質なワインを飲み、こうして全うに生きてきた人間に相談されているというのは、それだけで悪に染まった心を洗ってくれているようだった。

 死を覚悟していた昨日では考えられない展開。

 アルファーノ一家に会いその性質に触れた事により、ミゲルはこれまでの行いに後悔を覚えるようになってきていた。

 今まで自分が行ってきたことはなんて愚かで軽率なのだろう。これからは善良な行いをして罪を償う。もう極悪な輩に追い掛け回されるのはこりごりだ。全うな人間として生きていこう。

 アルコールもいい具合に手伝ってか、ミゲルは内心でそんな事を思うのであった。

「ところでミゲル。君はうちの娘に好かれているみたいだね?」

「ん? ああ、そういえばミシェルがそんな事を言っていたな。最初は嫌われていたみたいだが、大男に果敢に立ち向かったのがどうやら評価されたらしい。とりあえずは良かったよ。何せあの子は俺の恩人だからな。どうにかして礼を返そうと思っていたところだから、嫌われないに越したことはない」

「娘はやらんぞ」

「安心しろ。俺にそんな趣味はないから」

 これまでの罪を償い、全うな人生を送る。

 まあ、無理な話である。

 すでに骨の髄まで汚れてしまったミゲル。ここで善良な行いをした所で過去が無くなる訳ではないし、連中の気が変わる訳でもない。

 今頃躍起になって街中を探し、徐々に包囲網を展開しているはずだ。

 いわばこれは束の間の休息。

 嵐の前の静けさであり、神様の気まぐれが与えてくれた地獄へのプロローグ。

 酒を飲み談笑するという当たり前の幸せの中。

 いつまでもこのままじゃいられないというのは、彼自身が一番分かっている事だ。

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