少女の英雄(ヒーロー)
「でねでね。相手が殴ろうとしたのを避けて、自分よりも大きい人を投げて、だけど殴れるのに殴らなくて、それで殴られちゃったんだけど、でもやり返さなくて、結局最後まで手を出さなくて、凄い大人っぽかったんだよ」
ピクニックを終え家路に着き、食事の準備をして食卓を囲む頃には、すっかりミレーナはミゲルに心を許していた。
それは言葉の分からない龍樹にだって分かる。
食事の手を止め楽しそうに話すミレーナを見るに、彼は直接見た訳ではないが、よほどあの一連が印象深かったようだ。
今も父親であるダニエルにその英雄譚を説き聞かせている最中だ。
「へえーそりゃ凄いね」
相槌を打ち、合間を縫っては食事を進めつつ、ダニエルは娘の話に耳を傾ける。
実のところ、食事が始まってからテーブルはこの話で持ちきりだ。
というよりも、ミレーナがその話をずっと続けるので、皆がそれに合わせている感じだった。
ダニエルとしてもその英雄譚とやらは素直に賞賛したい。そして賞賛はしたのだが、どうもミレーナはまだ喋り足りないらしい。
同じような話を何度も聞きいい加減疲れてきたダニエルの笑顔も、徐々に引きつっていく。
その後も続くミレーナの信仰話。子供心というものはこうも単純にひっくり返るものなのかと驚きつつ、これには流石に当事者であるミゲルも困った顔をしている。
「おいおいもうそのぐらいでいいだろ。そんなに対した事はしてないんだって。大人なら当然の事さ。たまたま俺があそこにいただけなんだから」
謙虚、ともいえないミゲルの言葉。
あの場面は思い描いたものとはだいぶ違った収束の仕方だったので本当にそこまで感謝されるものでもない。
そう考えるミゲルとしては、こんな事があったんだよ的に話してもらえる方が素直に受け入れられるというものだ。
これほど熱心に熱弁されてしまうと、身に余ってしまうというのが彼の本音だった。
「ううん。誰にだっては出来ないよ」
ミゲルの発言に、首を振ったミレーナ。そのしぐさは感性だけで行うような荒々しさはなく、物事の裏にある本質を知った上での否定のようで、とても六歳児がするようには見えなかった。
まあ、考えすぎなのだろうが。
「誰かを救うのってすっごく大変な事なんだよ。ミレーナは出来なかったもん。それどころか余計に苦しませちゃって……だけどミゲルは違うかった」
子供が背伸びをして、一丁前の事を言う。こういうのをませていると世間一般では言うのだろうが、それにしては随分と重たい話をするなとミゲルは不思議がる。
そんな彼をよそに、ミレーナは話を続けた。
「ミゲルがあの人に声を掛けた時、正直不安だったんだ。一瞬でやられちゃうんじゃないかって。だから、ミレーナが大人の人達を呼んでこなきゃって思ったんだ」
「……そんなに信用なかったのか俺は」
過去の話とはいえ、少しばかりショックを受けるミゲル。
まあ相手との対格差を考えれば無理もない。
別に子供だからどうこうではなく、人間なんてものは目で見えるものを信じたがるのだから。
「だって普通に考えれば勝てないじゃない。でも、そういうのが本当の勝ちじゃないんだよね。なんていうのか、勇気をもらった。正しい事をしていたら、やっぱり神様が見てくれてるんだよね」
満面の笑みでそう言ったミレーナ。
勇気? 神様? いくつか出てきた大げさな単語に目を瞬かせつつ、
「なんかよく分からんが……役に立てて嬉しいよ」
とりあえずは本音を述べるミゲル。『ニーナ』の件を知らない身としては仕方のない反応といえよう。
彼としては命の恩人に喜んでもらっているようだという事実だけあれば、ちんぷんかんぷんな理念も些細なものだ。
一方で『ニーナ』の件を知っているミシェル達は胸が痛む。
明るい笑顔を振りまくミレーナと今の発言を聞いて、改めて気づかされる。
幼い少女の小さな体に纏わりつく気負い。ニーナの件は完全に踏ん切りがついたとは思っていなかったが、てっきり落ち込んでいるとばかり思っていた。
しかしその実は少しばかり違うようだ。
考えてもみれば大衆の中トイレに一人で行くと言い出したのも初めての出来事。
彼女なりにがんばろうと鼓舞していたのか、周りに迷惑を掛けまいとしたのかは分からない。
聞けばニーナと何か約束もしたらしいので、それが原因な可能性もある。
いずれにせよ、母親としては複雑な気持ちにもなってしまう。
子供の事は分かっているようでその実まだまだ分かっていないのかもしれないなとほんの少しだけ落ち込み、こうやって少しづつ大人になっていくのかと感動も覚える。
「ところで、その暴力を振るわれていた男の子はどうなったんだい」
ふと気になったのか、ダニエルが皆にそう訊く。
これにより場の空気が一気に深刻なものになった。
「ああ。それがその子供、傷の手当も施さないまま慌てて逃げ出したんだよ」
現場の出来事を思い返しながらミシェルが語り始める。
「聞けばその子供が男のポッケから財布を抜き取ろうとしたのが事の発端らしい。真意のほどは分からずじまいだが、逃げ出した以上、やっぱり後ろめたい何かがあったのかもしれないがな。追いかけるべきだったか今も少しばかり悩んでいるよ……ミレーナは知り合いなんだろ? 一体どんな子なんだい」
母の言葉に、ミレーナは難しい顔をした。
「幼稚園が一緒なんだ。だけど、最近は全然来てなかった。元々悪い事ばかりする子みたいだけど、ミレーナはあんまりそういうところ見た事がない。ロニーが外で遊んでばっかりだからなんだろうけど」
「幼稚園に来てないって……」
そこが一番の驚きだ。こりゃ何か家庭に事情があるに違いないと判断するミシェル。
「どのぐらい来ていないんだ?」
「正確には分からない。だって一週間来たかと思うと次の日は休んだり。先生は用事があるって言っていたけど」
「不規則的に休んでいるって事か。こりゃますます怪しいな」
話を聞いただけでミシェルが訝しむくらいだ。接している教員達ならもっと踏み込んでいてもおかしくはない。
余計なお世話かもしれないが、それらを踏まえた上で今日の一件は幼稚園の方へ一言声を掛けておいたほうがいいのかもしれない。
「まあ、二人が無事で何よりだよ。いいかいミレーナ。今日はたまたまミゲルがいたから良いけど、今後一人でああいう場面に出くわしたらすぐさま逃げるんだぞ」
「……逃げるって、もしその人がすぐに助けなくちゃいけなくても」
「そうだ。近くにいる大人の人に声を掛ければそれでいい。ミレーナはまだ子供なんだ。だから自分がどうこうしようとする必要はない。そういうのは大人に任せておけば良いんだ」
真剣な顔をして放たれた母親の言葉に、どこか不満げな顔をするミレーナ。しかしミシェルの言っている事は間違っていないだろう。
子供が一人で解決できる事など限られている。それよりかは力のある人間を呼んできたほうが、普通に考えればリスクが少ない。
そんな事は幼いミレーナでも分かる事。
だからこそ抵抗が言葉ではなく態度で現れてしまっているのだろう。
「……」
「どうしたんだアテナ?」
ふと、進めていた食事を止め動かなくなったアテナに気づき、声を掛けたのは龍樹だった。
何やら考え事をしているかのような間を空け微動だにしない彼女。やがて長いまつげを瞬かせたかと思うと、眼球だけで龍樹の方を見る。
そして一言。
「何が?」
相変わらずの冷たい言葉だが、もちろん今さらだ。
龍樹はさらに続けた。
「いや、何か難しそうな顔をしてたからさ。ちょっと気になっちゃって」
難しそうも何も、基本無表情なのでその言葉もどうかと思うが、しかし、いつもと違う様子なのは大体分かる。
考えすぎといえば考えすぎなのかもしれないが。
アテナはそんな事はないとでも言いたげなドライな反応で、
「大丈夫よ。気遣いどうも」
と流すように返した。
そう言われては龍樹としても何も返せない。ならいいけどと、食事を再開させる。
「ところで龍樹君。パスポートの方は大丈夫なのかい」
彼の方を見て言葉を発したミシェル。内容を知りえないが何かしらの働きかけがあったと感じ取った龍樹はどうしていいか分からず渋い表情をする。それを直接見ずとも気配で感じ取ったのか食事を進めながらのアテナが訳す。
それを聞いた龍樹は軽く首肯しながら、
「うん、大丈夫だと思う。昨日の夜電話した時にはもう送ったっていってたから。明日には届くんじゃないかな」
「それは良かった。で、手続きをしたらすぐに帰るって言ってたな。最後に食事ぐらい取っていきなよ。些細ではあるが、それなりにお別れ会でもしようと思っているんだ」
アテナづてに聞いたその言葉に、どうも、と軽く会釈する龍樹。
反応はやや戸惑っているようだった。
ありがたい気持ちというものは当然あるが、それ以上に本当によくしてくれる人だなと感心する。
「それじゃ夜の食事をするのは今日で最後か。そう考えると何だか寂しい気持ちになるな。まあこれも人生だ。またどこかで会えるのを祈っているよ」
コップの水を飲みながら、似合わないそんなしおらしい事を言ったミシェル。一期一会というところなのだろう。
日本とイタリアの距離は結構ある。お互いに観光か何かのきっかけがない限り、出会う可能性は低い。
「……」
「ん? どうしたんだい」
と、しみじみしていたミシェルは、自分に向けられている視線に気づいた。
ダニエルが呆然とした表情で彼女を見ている。何か不思議な点を見つけた。食事を止めすぐに反応を示さなかった様はそう思わせるものだった。
彼はミシェルに言葉を返す。
「いや、今日はお酒飲まないのかなと思って」
本人は何気なく言ったつもりなのだろう。
しかし言われた側としては穏やかではない。
思わず動揺が顔に出てしまうミシェル。
だがすぐに誤魔化さなければと、笑顔を強制的に引き戻す。
「あ、ああ。何か今は飲む気がしなくてね」
心持ち不自然な笑みを浮かべ水の入ったコップに目をやるミシェルに、ダニエルも少しばかり不思議そうな顔をする。
というよりも心配しているのだろう。
晩酌は彼女にとって何よりの楽しみでもあったはず。
かつて飲まなかった日は決まって体調が優れない時なのだ。
「昼間はあれだけ飲んでいたからな」
ここで出された助け舟。
「だから言ったのに。大方気分でも悪くなったんだろ。酒もほどほどにしておかないと、いつか体を壊す羽目になるぞ」
口を挟んだのはミゲルだった。食事を進めながら何気なく言い放ったように見えるそれは、もちろんミシェルの秘密を知っての気遣いだ。
それをありがたく頂戴する。
「そ、そうだな。いや、流石にあれは飲みすぎたよ。今も頭が少しばかり痛い。これを機に量を減らすのもいいかもな」
先ほどまであれほど元気そうだった表情を、若干曇らせる。流石に不自然かと焦るミシェルだったが、それも杞憂に終わる。
「え? そうなのかい」
白々しい事この上ないが、彼女が嘘を吐いているなどと微塵も思っていない真面目人間ダニエルはすんなりとそれを受け止めた。
寸分の疑いも抱いていないような純粋な反応。なるほど鈍感な男だとミシェルが言うのも納得だとミゲルは思った。
「君が参るだなんてどれだけ呑んだんだい。休日だからって羽目を外すのは分かるけどほどほどにしないと身体に悪い」
「分かっているよ。反省している。ちょっと呑みすぎたってだけだから、心配には及ばないよ。明日になれば完全に抜けているだろうから」
「そうかい……ならいいけど」
言葉を返され、結局は流されてしまうダニエル。夫としては心配だが、いつも通りに見えている彼女の姿にどこか違和を感じ、複雑な表情を取る。
それに気づいてか気づかずか、とりあえずはミゲルにアイコンタクトで礼を言うミシェル。された側も頭を搔くフリをして答えた。
ダニエルはそのやり取りに気づかない。
「そういえばパパ。さっき何か袋みたいなの持っていたけどあれは何なの?」
ミレーナが言う。
先程とはダニエルが帰宅した時の事だ。仕事帰りのスーツ姿で右手にバックを持つ父の左手には紙袋のようなものが携えられていた。
ミゲルの件を話したかったがために当時は気にならなかったが、しゃべり終わった今になって急に気になったミレーナ。
ダニエルは何のことなく答える。
「おみやげだよ。今日は一緒にいてあげられなかったからね。大したものじゃないけど、食事が終わったら皆で食べよう。内容はその時までのお楽しみさ」
「ほんとに? やった」
小さくガッツポーズし、早く内容を知りたいのか食事の手を早めるミレーナ。もぐもぐと口を動かす彼女の顔は明るく、こんなに楽しそうな娘を見るのはダニエル自身久しぶりだった。
「何だか皆が来てから良い事ばっかり起こっているね。このままずっといれば毎日お土産とか買ってきてもらえそう」
ミレーナが無垢な考えを口にすると、それを聞いたミゲルも思わず頬が緩み、そうだなと当たり障りのない返事をする。
もちろんいつまでもこの日々は続かない。
龍樹達は明日には帰るしミゲルだってお尋ねものの現状、同じ場所に留まる訳にはいかない。
特にミゲルは内心焦っていた。
今はこうして五体満足でいられるが、あの悪名高い男に見つかれば間違いなく死に直結する。
何せここはカッサロー二の縄張りだ。
見つかるのは時間の問題である事は必至であり、かといって資金繰りもできず動けないのだから焦らずにはいられない。
逃げ出してから一日の時がたった。奴等も手数を整え本格的に動き出した事を考えると出歩くのも危険だ。
しかし時間が経てば経つほど包囲網は広がっていき、いざという時には身動きの取れない状況に陥ってしまうだろう。
それを考えると、後二日程が山か。
最低でも後二日で遠くへと逃れる資金を調達し、実行に移さなければならない。
嘘みたいに和気藹々としている者たちを前に、ミゲルの心は大きく揺れていた。




