わずかな良心
トイレに行きたいというのはあながち嘘でもなかった。
公園から一番近い公衆トイレにまで足を運んだミレーナは、そこに出来ている行列に目を丸くする。
不幸かその公衆トイレは男女兼用のようで人の数も他よりも多い。並んで待っていれば軽く二十分は掛かりそうだ。
人間の心理とは不思議なものであり、出来ないと感じてしまうとより一層欲求が増してしまう。
尿意が段々ひどくなってきたミレーナは困った表情をし、どうするかを考える。
「あーあ。やっぱり並んでるな」
と、隣から聞き覚えのある声。ミレーナはそちらを見上げる。そこには公衆トイレに出来た行列を難しそうな顔で眺めているミゲルの姿があった。
ミゲルはそのままミレーナに視線を落とし、
「あの様子じゃ結構掛かりそうだ。近くにデパートがあってそこにもトイレはあるんだが……どうだ? もう限界か」
「……大丈夫」
勝手についてきて勝手に物事を進めようとするミゲルに、ミレーナはどこか嫌そうだ。
再三言うようだが彼女にとってミゲルは恋敵のようなもの。大好きな父親から大好きな母親を奪おうとする悪い奴なので、当然仲良くするわけにはいかないのだ。
しかし当のミゲルは構う様子が無い。むしろ逆で、どうにか彼女の役に立とうと色々と提案を考えてくれるとういう、何とも歯がゆい関係になっている。
「それにしても多いな。こりゃ本当にデパートに行った方が早いかもしれない。でも今日は休日だからあそこもいっぱいだろうな」
「……」
まるで自分のことのように悩んでくれるミゲルを見て、ミレーナは少し申し訳ない気がした。だがすぐに流されては駄目だと首を振る。
彼が悪い人間で無いのは分かっている。
しかし仲良くなってしまうと、ダニエルが孤立してしまう。
いまだアイデアをひねり出そうとしてくれているミゲルから、ミレーナはあえて離れようとする。
「一人でどうにかするから大丈夫。だからもう皆の場所に戻っていていいよ」
本当は頼りたいところだが、ここは自分ひとりでなんとかせねばと強がるミレーナ。
とはいえ休日で混む街中は年端の行かない少女にとっては広すぎる。
言ったはいいものの、どうすればいいかなどは全く思い浮かばないのが現状だ。
「一人でって、第一金は持っているのか? 無料のものなんて不衛生で使えたものじゃないぞ」
「……分かってる」
「となると、やっぱり家に戻るのが最善か。でも走って十分で着くかどうか……」
「もういいよ。自分で何とかするから」
「本当か? もしかして恥ずかしがっているんじゃないのか。だったら気にするな。トイレなんて誰だってする生理現象なんだ。隠す必要なんてないんだぞ」
「そんなんじゃないよ。私だって来年から小学生なんだよ。小さいからって子供扱いしないで」
「別にそんなつもりはない。ミレーナはしっかりしている。だから今俺はここにいるんだ。あの時ミレーナが看病してくれなかったらどうなっていた事か。その礼がしたいんだよ」
「……いいよ別に。そんなに凄いことした訳じゃないんだから」
「いや、それだと俺の気が済まない。何か良い方法はないだろうか……」
片手で頭を抱え、脳をフル回転させている様子のミゲル。本当に良い人なんだろうなとミレーナはつくづく感じた。格好は軽率だが、律儀で料理がうまくてお喋りも上手。これだと母親がミゲルに好印象を持つのも納得だし、正直、ミレーナもあの控えめのダニエルよりかはお似合いだと思ってしまう。
だからこそ怖いのだ。
相性がどうあれ、子供にとっては父親と母親が一緒にいるのが一番。
理屈どうこうではなく、そういう風に出来ている。
「そうだ。良い方法を思いついたぞ。茂みだ。茂みですればいいんだ」
本当に良い方法だと思っているらしく、満足そうな表情でミゲルはミレーナへと告げた。
当の本人は何を言っているんだこの男はと眉を吊り上げ、声高らかに言う。
「そ、そんなの出来る訳ないじゃない」
「なぜだ? 幸いにもここら一帯は森で囲まれている。周りからは見えやしない」
「そういう問題じゃないの」
「……モラルの問題か? 心配するな。ミレーナはまだ小さいから分からないかもしれないが、大人は皆一度は経験している事なんだよ」
「ミレーナは女の子だよ!」
軽々しく放たれた提案に思わず声を荒げた。頬を赤らめ、やけに攻撃的な表情でミゲルを睨む。茂みで用をたすだなんて、どちらかというと箱入りで育てられたミレーナにとってはよほどナンセンスなのだろう。
しかし事態は更に悪化してしまう。
「……う」
大きな声を出すときに力んだ精か、尿意が更に込み上げてきた。思わず内股を押さえるしぐさを取るミレーナ。それに気づくと、ミゲルは慌てて姿勢を落とし声を掛ける。
「どうしたんだ! もしかして漏れたか」
直接的な物言いに、もう少しデリカシーを持ってほしいと思うミレーナ。だがそれに言及する余裕など無い。
ぶんぶんと首を振り、言葉ではなく態度で答えるミレーナ。ミゲルもそれを見てホッとする。
だが問題が解決した訳ではない。
より大きな失態を避ける為に形振り構っていられないミレーナは、言いにくそうな声でミゲルに訊く。
「……本当に皆しているんだよね」
父親の敵である男の手を借りるだけならまだしも、こんな辱めの片棒を担いでもらうだなんて思っても見なかった。
顔を赤らめるミレーナ。
険しい、それでも泣き出しそうな表情は、よほど彼女の中で葛藤があったのだろう。
凄みのある表情にミゲルも困惑気味だ。
今さらながら子供の教育上悪かったのかもしれないが、ここで否定する訳にもいかない。
「あ、ああ。俺なんて今でもたまにするからな。本当に気にする必要はないさ」
「じゃあ早く連れていって。結構危ないかもしれない」
先ほどまで大丈夫といっていたのにその言い様。どうやら子供のしまりは思った以上に緩いらしい。
ともあれ、これで少しは恩が返せるかもしれない。
「よし、任せておけ」
この程度で恩を清算出来るとは到底思っていないが、とりあえずの一歩だ。
優しくミレーナの手を取ったミゲル。
流石に公でさせる訳にはいかないので、人気の少なくて死角の多い場所へと連れて行かなければ。
尿道になるべく刺激を与えないよう注意を払い、ミゲルはミレーナを適当な場所へと誘導する。
森の中は鬱蒼と茂っていた。
芽吹いている場所を開拓したのだから当たり前といえば当たり前なのだが、人為的に敷かれた芝生から五十メートル離れるとこうも景色が様変わりするのかと思うほどそこには自然が広がっている。
ここでは広場の喧騒すら聞こえない。聞こえるのはズアオアトリの歌うような鳴き声と風に揺られる木々のざわつきぐらいなもので、だからこそ二人の会話はよく響く。
「……もう出たか?」
一際大きな木の前で腕組みをするミゲルは、数メートル先にいるであろう少女に話し掛ける。
すると後方からそれに対しての返事が戻って来る。
「ま、まだだから」
おどおどしているのか、恥ずかしいのか。
いずれにしても心情に何らかの負担が掛かっていると分かるミレーナの声。
ミゲルは難しい表情をする。
手ほどきではないが、本人としては傍で色々とサポートをしてあげたい。
あえてかどうかは知らないがまだ人の手が加えられていないここら一帯には危険な生物がいないとも限らない。
だからミゲルはミレーナの近くを離れたくなかった。手を引き自分が先頭に立って歩く事で蛇や蜂などといった万が一の危険がないよう心がけ、ここまで来たのだ。
なのに事を成そうと場所にたどり着いた瞬間、向こうにいてと言われたのだ。
これにはミゲルも戸惑った。
言い分としては分かる。
これが成人と言わず、お年頃の女の子なら誰だって傍に人はいてほしくないだろうし、ミゲルだってその辺りの一般常識は分かる。
だがミレーナは五歳だ。
年頃もへったくれもない正真正銘の子供。そんな子供の排尿シーンを見て興奮する訳もなく、むしろそう思われるほどに自分は嫌われているのではないかと動揺する。
それとも今時の子供はこれぐらいが普通なのだろうか。
一般の人間なら少しませた子だとぐらいにしか思わないようなことでも、人知れずミゲルは考えてしまう。
正直家族や親戚とも縁を切っている身としてはミレーナほどの年の子と接する機会など全くといっていいほど無い。
恩義を返そうとしている今の状況さえ仇になってしまっていないかと心配になってくる。
(……それにしても)
辺りを見渡し始めたミゲル。
ふと自分が置かれている状況を思い出す。完全に気が緩んでしまっていたが、現在彼は組織の人間に命を狙われている。
そう考えると人目のない物静かなこの場所は非常に危険だ。
おまけに今はミレーナもいる。
こんなところを連中に見られれば彼女にも危険が及んでしまうはず。
我ながら相変わらず詰めが甘いものだと、先の銀行差し押さえの件も含めミゲルは自分に呆れ果てる。
「終わったよ」
茂みの奥からミレーナが戻ってきた。用を足し終えたからか先ほどの切迫感は無く、表情はどこか警戒をしているようなものに戻っていた。
思った通り、まだまだ恩義は返せていないようだ。
「大丈夫だったか?」
「何が?」
「いや、その、なんだ。よく分からないが……」
突拍子もない質問に返ってきたのは当然の疑問だった。
何を焦っているんだ、とミゲルは少し自分を見失っていた。
こんな子供の顔色を窺い、自ら窮地に立つような真似をして、これではいつ不手際が起きてもおかしくない。
理由は本人にも何となく分かっている。
金銭も工面できず、頼る相手もいないという八方塞がりになっている現状。
唯一の繋がりである彼女たちとの関係を保全しようと躍起になってしまっているのかもしれない。
あるいはこれまでの行いに対してのただの自己満足か。
いずれにせよしっかりせねばと、ミゲルはどうにか自分を保とうと必死だった。
「じゃあ戻るか。あんまり遅いとミシェル達も心配するだろうし」
その問いかけに返事はせず、こく、と頷くだけのミレーナ。
相変わらず余所余所しいそんな態度に、今更驚く事もない。
二人は元来た道を戻っていく。四方に囲まれた森林達は進むたびに拓けていき、もうすぐ人工的に整備された場所にたどり着く。
「ねえ、ママの事どう思っているの?」
「ん?」
予想だにしない質問に、思わず立ち止まってしまった。
振り返るミゲル。不安を湛えた顔をする少女は、彼の眼をじっと見上げている。
「なんだいきなり」
年甲斐もなく動揺してしまう。その気持ちを悟られないように愛想笑いを浮かべると、ミゲルは改めて歩を進め始める。
それでもミレーナの追求は続いた。
「ママの事好きなの?」
「嫌いじゃないさ。ミレーナのママは面白いからな。話していると楽しくなる」
「じゃあけっこんしたいとか、そういうれんあいかんじょーは無いんだよね」
「はは、無いってのも失礼な話だろう」
相手が子供なのを良いことにお茶を濁すミゲル。
そして話をはぐらかされているということはミレーナにも分かった。適当に返事をして、一向に立ち止まる様子の無いミゲルに苛立ちすら覚える。
成り行きとはいえせっかく二人になれたのだ。
娘としては、母親たちの元に戻る前にどうにかその真意を聞いておきたい。
「言っとくけど、ママとパパは愛し合っているんだからね。好きになったって無駄なんだから」
「ああ。分かってるよ。ミレーナが心配しているような事だけにはならないだろうから安心しろ」
「嘘だと思ってるでしょ。そりゃ今はパパの方がお仕事忙しいから喧嘩してるけど、いつも最後は仲直りするんだから」
「だから分かってるって。心配性だなミレーナは」
全く意に介さないような調子のミゲルに、不安を抱くミレーナ。彼としては適当にあしらっている訳だが、それが少女にとっては大人の余裕に見えてしまう。
つまり、子供のいうことは端から信用していないと判断しているのではないかと、穿った見方をしてしまっているのだ。
ミレーナはもちろんダニエルの事は好きだ。
しかし、その接し方は俗に言う尊敬や父性といった類のものではなく、優しくて物知りな、いわゆる母性的なものに近い。
何度もいうようだが彼の消極的な性格とミシェルの積極的な性格が合わないであろう事は子供ながらに分かっている。
何よりもミレーナの心を揺るがすのは異性と楽しそうに話す母の顔だ。
もしミゲルがこのままミシェルと仲良くなっていくと、その先に何があるのか。
人生経験が浅い少女に取ってはそこにある未知なる結果が怖かった。父親が去るか母親が去るかというやけに具体的な事を考え始めている自分に気づくと、ミレーナは首を振る。
あの二人が離れ離れになるだなんて考えたくない。
かといって年端もいかない少女にこれ以上どうすればいいのかが思い浮かぶはずもなく。
どうにかならないかと似合わぬ渋い表情をしながら、ミレーナは前方に立ち塞がる大きな背中を見上げていた。
これまでの言動やこうして誘導してくれる様子を見た所、きっとミゲルは良い人なのだろう。
しかし大好きな父親と母親を離れ離れにする可能性があると考えると、やはり心を許す訳にはいかなかった。
それでもこうして付いてきてくれた事に関してはお礼を言うべきではないだろうか。はたまた此処は断固として彼を拒むのが正しいのか。
一体全体どうする事が正解なのだろう。
感謝や嫌悪感など様々な思いが、その小さな体躯を駆け巡る。
と、少女がこれといった打開策を捻り出せないまま、森の出口へと近づいた時だった。
一際乱立する木々の物陰に、ある光景が潜んでいた。
大柄な男が地面を蹴っている。酔っ払っているのか、蹴りを放った際に反動でよろめくが、また地面を蹴り始める。
一体全体何をしているのか、草木が邪魔をしてそこからだと目視は出来なかった。ただ大柄の男が何かをぶつぶつ言いながら地面を蹴るという描写は予想以上に不気味なものだ。
その姿に恐怖すら覚えるミレーナは仇敵という事も忘れミゲルへと近づき、服を掴む。
対するミゲルも警戒をしているらしく、そして関わらぬ方がベストだと遠巻きながら森を抜けようとする。
怖がるミレーナの手を退き、大柄の男に見つからないよう――
「が、は……」
ふと、掠れるような声がした。
聴覚に纏わりつくようなねばつきを放つうめき声は何かを訴えかけていた。
ミゲルは瞬時に気づく。
あの大柄な男が蹴っているのは地面などではないと。
彼だってそこまで正義感があるほうではない。むしろ逆で、誰かと誰かが殴り合ってようがそれが見知らぬ人間なら無視するし、例え知っている人間であろうとそいつが気に食わないような奴なら煽るかもしれない最低な性格だ。
そんな性悪な彼でも、目の前で繰り広げられている光景には口を挟まざるを得なかった。
ミゲルは逡巡を抱くことなく飛び込む。
人気のない場所で酒に酔った大柄の男が一人。
泣き叫べないほど弱った小さな子供を幾度となく踏みにじっているという、その光景に。
「おい、何をしている」
凄みを持たせたミゲルの問いかけに。
あん? と強烈な酒の匂いと共に言葉が発せられる。
「あんだお前は。このガキの親かなんかか?」
呂律が回っているかどうかも怪しいほどに、男は酔っていた。
百七十後半のミゲルよりも一回り大きい身長は百八十ほどだろうか。
特別筋肉質という訳ではないが、それなりに肉つきは良い。
次いでミゲルは足蹴にされていた少年を見る。
一体いつから暴行されていたのか。
木に背を預け全く動こうとしないその体は、かろうじて荒い息を吐くのがやっとのようだった。
顔は晴れ上がり黄ばんだ服には血痕が付着している。見えてるのかいないのか分からない左目でミゲルを見る所を窺うに、何とか意識はあるようだ。
「ロニー!」
と、ミゲルの背に隠れていたミレーナは急いたようにそう言うと、少年のもとへと駆け寄った。
ぐったりとした彼に近づくと、服の裾で顔の鮮血を拭う。
「知り合いか?」
訊ねるミゲル。ミレーナはいまだに血を拭いながら、
「うん。同じ幼稚園なの。最近は休んでる日とか多かったんだけど、どうしてこんな……」
知り合いのあられもない姿に動揺を隠し切れないミレーナ。どうしたらいいのか分からず、無駄に手を出したり引っ込めたり、混乱している。
そんな彼女を見て無理もないか、と思いつつ、ミゲルはとりあえず確かめなければいけない事を確かめる。
「立てるか?」
体勢を屈め視線を合わして放たれたそれに、少年はこくっと頷いた。そして身体のあちこちを指で軽く押す。相変わらず痛々しい面構えだが、表情に変化はない。
骨が折れている訳ではなさそうだ。
とりあえずは良かった、とミゲルもほっと一息。
まあ、ここで重要なのは暴力の度合いではない。
どんな理由であれ、大人が子供にこれほどの暴力を振るって良い訳がない。
すっと立ち上がったミゲルは、大柄の男へと視線を向ける。鋭さを纏ったその瞳には怒りすら見て取れるようだった。
大して、酒に酔っているからかどうかは分からないが男も強気だ。
睨んでくる見知らぬ男に、敵対心を燃やす。
「おいおいなんだその目は。言っとくけどなあ。悪いのはそのガキなんだぜ。人の財布を盗もうとしやがったんだ。ようは被害者なんだよ。分かるか? ひーがーいーしゃ」
「……そうなのか?」
答えを聞くため、少年の方を見るミゲル。精神的にも大分安定したのか、先ほどよりも息が整った彼はこう答えた。
「ち、違う。拾ってやったんだ。その、酔っ払っていて、落ちそうに、なっていたから……」
途中から明らかに歯切れが悪くなっていったそれが、全てを物語っていた。
なるほど、とミゲルも一応の解釈はつける。
この大柄な男が酒に酔っ払い無防備なところを狙い、少年がスリを働いた。それに気づいた男が逃げたのか連れて来たのかは分からないが、ここでその怒りを少年にぶつけていた。
要約すると、そんなところだろう。
「あーん? 落ちそうになっていただと。嘘付け! じゃ何で逃げる必要があるんだよ。俺はこの目で見たんだよお前が俺のポッケから財布を抜き取ろうとしているのを! ガキが、まだ懲りていないようだな」
怒号にも似た声を発しながらまた詰め寄ろうとする大柄の男に、びくつく少年。
もちろんミゲルがそんな事を許しはしない。
険しい表情で再び暴行を加えようとする男の前に立ち塞がる。大柄とはいえ千鳥足の男は肩を押さえ込むだけで簡単に制すことが出来た。
「何だ、離せよ。お前には関係ないだろうが」
「落ち着けよ。確かに財布を盗られた事に対しての怒りは分かる。だが子供だぜ。そもそもあんたも無用心すぎるんだよ。こんな人込みの多い日に泥酔してどうする。そんな事じゃ、この坊主が取らなくても他の連中に狙われたさ」
はっきり言って、これは九十パーセントこの男が悪い。平和ボケしたどこぞの国ならまだしも、国柄的に不安定な現状。
おまけに今日のような催しに飲んだくれるだなんて、それこそ狙ってくださいと言っているようなものだ。
「うるせえ、どけ!」
指摘されて腹が立ったのか、男は急に暴れだした。ミゲルの胸元を力強く押し突き飛ばす。ふいな一手に身体は仰け反ってしまい、二歩三歩と後退してしまう。
そうして開いた道を進み、男は再び少年の前に仁王立ちした。
「やめてよ!」
声を張り上げたのはミレーナだった。少年を庇うような形で前に出ると、自分よりもはるかに大きい男を睨み付け、湧き上がる恐怖心をどうにか押さえつけ対峙する。
「は、恥ずかしくないの、大人がこんな子供に暴力を振るって」
「暴力? おいおい勘違いするんじゃねーよ。ここで俺が見逃しちまうとまたそいつはまた悪さしちまう。言っただろ、ようは躾なんだよ」
「こんなのしつけでも何でもない。無抵抗の人間を一方的に殴るだなんて、ただの弱い者いじめだよ」
「うるせーぞガキが。いちゃつきやがって。どかねえってんなら痛い目みるぜ」
男は足を振り上げた。少年に自称躾を与えるためというより、自分にたて突く少女を脅かすためだ。
自分の四倍近くもある人間の足元はどれほど怖かろう。
目を瞑り歯を食いしばり、身体は思わず縮こまる。
それでもミレーナは逃げなかった。
知り合いである少年を守ろうと必死な彼女は、逃げちゃだめだと自分に言い聞かし、文字通り身体を張る。
こんな大きな大人の蹴りは当たったら痛いだろうなと、ほんの数秒の間に考えた。
怖い怖い怖い怖い。
結果どうこうなんて考える余裕もなく、恐怖という感情と少年を助けなければという感情がミレーナの脳内で交錯する。
しかしどうしたものか。
それなりの時間が経過しても、一向に衝撃がやってくる気配がない。
来ない分には構わないが、状況が分からないというのもまた別の恐怖がある。
反射的に目を瞑ったことにより生まれた暗闇はより一層少女の不安を掻き立てていた。
ミレーナは恐る恐る目を開ける。
そこには足を振り上げていた男がミゲルに投げ飛ばされるという描写が広がっていた。
ドン、という鈍い音と共に、背中を打った男の口から呻き声のようなものが漏れる。
下には草が広がっているが、男の体重を考えるとクッションの役割をしているのかも怪しい。
目の前で繰り広げられた展開に呆然とするミレーナ。
あんなに大きい人間を投げ飛ばすだなんて凄いなと、子供心は感心する。
「いい加減にしろよ。こんな子供相手に大人気ない」
至極真っ当な事を言うミゲル。自分のような人間が他人に正義を説くなど滑稽でおかしかったが、この際そんなことはどうでも良かった。
命の恩人であるミレーナに暴力を振るおうとした事。
それこそが彼に手を出させた原因だ。
「あ、く、そ……何しやがんだ」
だがこれで男の闘争心にも火がついたようだ。
酔いも覚めてきたのか、背中に残るダメージを気にしながら立ち上がると、半袖だった服の袖を更に捲くる。
「おい待て。やりあうつもりはない。ちゃんと冷静に話し合おう」
「うるせえ!」
頭に血が上った男はミゲルの言い分を聞き入れず、拳を繰り出した。喧嘩慣れしているのかジャブのように素早いパンチだった。
それを間一髪でかわすミゲル。当然だが完全に酒は抜けていないようで、かわされた男は勢いあまり前のめりで転びそうになっていた。
体勢を立て直すと、怒り狂った目をしながら男はまた拳を構えなおす。
「落ち着けって言ってるだろ。酔いすぎだ。あんたもこんなくだらない事で怪我を負いたくないだろ」
「ああ。負うのはてめえの方だ。何が話し合うだ。人をぶん投げた奴が言う台詞かよ!」
がなりたてると、男は再度拳を繰り出してきた。まだ麻痺している脳が映す視界を頼りに繰り出された拳は端から直線的過ぎて簡単に避けられてしまう。
「悪かったよ。いきなり投げた件については謝る」
確かに、暴力はいけないといったそばから暴力で制止した点に関しては、男の怒りももっともだ。
繰り出される拳をかわしつつ何とか怒りを静めようとするミゲル。
相手は酒に酔っているので倒そうと思えば倒せるのだろうが、そして彼自身そうしたいのは山々なのだが、傍には子供たちがいる。
特に女の子であるミレーナの前ではどうしても血なまぐさい光景を見せたくなかった。
それを良いことに、男は一方的にミゲルへと攻撃を放っていく。
彼だってプロの人間ではない。
いくら相手が酔っているとはいえ、繰り出される拳を延々と避けるのは中々に難しい。
かといってまた投げ飛ばせば男の怒りに油を注ぐようなものだろう。
こういう場合はどうすれば相手の気を治められるのか。
一人身の時は考えもしなった疑問の答えはすぐには出ない。
さしあたっての対処策として、ミゲルはとりあえず男の動きを封じようと考えた。
相手が拳を出した後に生まれる隙を見計らうと、男の身体にクリンチする。
「やめるんだ。じゃないと本当に怪我をする羽目に――」
「うるせえっつってんだろ!」
やはり対格差の利便はあるらしく。
暴れる男に振り回される形のミゲルのみぞおちに苦し紛れに繰り出された膝蹴りがヒットする。
ぐふ、という声がミゲルの口から漏れ、痛みを優先させてしまった身体はクリンチを解いてしまい、ガードが無防備になってしまった。
そして叩き込まれた、男の拳。
至近距離とはいえ強烈な右フックが、ミゲルの顔面にクリーンヒットする。
酔っ払っているとはいえ威力は十分なもので。
吹き飛ばされたミゲルは数メートルほど後退すると、尻餅をついてしまう。
痛みで顔を歪ませ、切れた唇の血を指で確かる。
「気が済んだだろ。早くいっちまえよ」
いつもなら殴り返すところなのだが、今日は違った。
思った以上に落ち着いている自分がそこにはいて、これにはミゲル自身も驚きだ。殴られたことに対しての怒りが言葉に滲みではするものの、今は一刻も早く場の収束を図りたい。
しかしそんなものはこちら側の都合でしかない。
「まだだ。俺にたて突いたんだ。このぐらいじゃ収まりがつかねえ」
ポキポキ、と拳を鳴らす男。どうやら相当性質の悪い男のようだとミゲルも呆れる。
まあ考えても見ればそれほど融通の利かない男でなければ年端のいかない少年をあそこまで暴行したりしないだろう。
それはさて置き、まずい事になっているとミゲルはようやく気づく。
先ほどの殴打によるダメージが残っているのか、身体が思うように動かせない。不思議と痛みはそこまでないが、打ち所が打ち所だっただけに脳に何かしらの障害が起きているらしい。
立ち上がろうとしても、身体が常に傾いでいるようでうまくいかない。
後ほんの数秒もすれば正常に戻るのだろうが、相手がそんな事を考慮する訳もなかった。
腕力は思った以上にあるらしく、
男はミゲルの胸倉を掴むと、体重七十はあろう彼を持ち上げた。
宙吊り状態になったミゲルは手足をばたつかせ逃れようとするが――男の繰り出された拳が、また彼の顔面にクリーンヒットした。
今度のは先ほどよりも強烈だ。
宙吊り状態からの一撃により吹っ飛び、受身らしい受身も取れず、大の大人が地面に倒れ込む。
何とか立ち上がろうとするが、先ほどのダメージに加え、身体が思うように動かない。
それでもどうにか上半身だけを起こす。
その瞬間、口元を手で多い驚愕しているミレーナの姿が目に入った。
可愛そうに、とミゲルは思う。
知り合いを助けたいという純粋な想いを持つ彼女にとって大人が大人に殴られる光景なんて、下品なコメディ映画よりもショッキングなものだろう。
目を見開き言葉を失う彼女の姿はミゲルに取っては失望しているようにさえ見えた。
結局暴力を使わなければ何も出来ない。相手を言いくるめられる話術や愛想のいい笑顔を振りまければ、ミレーナは怖い想いをせずに済んだのではないかと自分を責める。
これでますます嫌われてしまった、とミゲルは人知れず肩を落とす。
彼にとっては案外肉体的な痛みよりも、精神的な痛みの方が大きかった。
だが今はそれを脇に置かなければならない。
男は未だ態勢を立て直せないミゲルへと迫る。酔いも覚めてきたのかその足取りは軽快だ。
特に声を発する訳でもなく目前にまで迫ると、いまだ尻餅をつくミゲルへと蹴りを放った。
咄嗟に腕を上げどうにかガードはしたものの、ダメージは全くのゼロという訳ではない。
一発、二発、と。
ミゲルが無抵抗なのをいいことに、男は蹴りを放つのを止めようとはしない。
肉を叩くような鈍い音から察するに一応は緩和できているようだが、長くは続かないだろう。
ようやく身体が動くようになり、男が蹴りを振り下ろしたその時、ミゲルは身体を転がしそれを回避した。
草が背に付着し、必死になって距離を置こうとする姿はみっともなかったがこの際気にしていられない。
こうなれば実力行使だ、とミゲルも覚悟を決める。
自分がやられる分に関しては構わないが、ミレーナ達にこれ以上の危害を加えさせる訳にはいかない。
そう思い至り、転がる反動を利用して立ち上がろうとしたミゲル。
しかし相手がそうそう簡単に態勢を立て直させる訳もなかった。
まさに立ち上がろうとした瞬間、男はさせじと蹴りを放つ。
繰り出された蹴りは思っていた以上にリーチが長くミゲルを押さえ込む形で機能し、再び彼に尻餅を付かせる。
(しまった)
もう少し余裕を持って行動に移すべきだった。早く立たねばと焦ってしまい、体格を計算にいれていなかった。
男は勝負を決めにきたようで。
腕を大きく振りかぶりながら尻餅を付くミゲルへと迫っていった。左腕で拳の軌道を確保し、いまだ防御が追いついていないミゲルの顔面に目の焦点はあっている。
ここであの一撃をもらうのはまずい。
頭では分かっているが、やはり身体が動かなかった。
今まさに倒れこんだばかりで、腕も反射的に動いてはいるが、まるで形になっていない。
対照的に男のモーションはほぼ出来上がっている。
肘の角度や脚の踏み込み具合から計算して、繰り出そうとしている拳は間違いなくミゲルの顔面を捉えるだろう。
喧嘩も本格的に火が付いた今、そうなれば再びダメージを負った彼が勝てる見込みは少なくなる。
目を見広げる子供達。
そんな彼らの為にどうにかしたいミゲルではあったが、これではそれもできそうにない。
きっと数秒後には大人が大人を殴るというバイオレンスな光景が再び広がってしまうのだろう。
しかし。
そうはならなかった。
パシッと、男の振りかぶった腕が、何者かによって捉まれる。
これには男も疑問を覚え、己の腕を掴んだ者の正体を確認しようと、いかつい顔で振り返る。
「誰だお前は?」
そこに立っていたのは女だった。タンクトップにジーパンという洒落っ気のない格好。髪を束ねた事で露になっている眉は吊り上り、見たところ怒っているようだ。
その女は男の先ほどの質問に答える。
「そこにいる女の子の母親さ」
剣のある声音で放たれた言葉。何が何だかよく分かってはいないが。とりあえず腕を振りほどいた男は、
「はん、だったらすっこんでろ。今俺達は男の喧嘩をしてるんだ。関係のない女がしゃしゃり出てくるんじゃねえ」
「関係なくはないだろ。うちの娘がそこにいるんだ。それに男の喧嘩だって? 私には抵抗しない男に一方的な暴力を加えているようにしか見えなかったけどな」
「勝手な事を……」
「何だったら皆に聞いてみるといいさ」
大柄の男の威圧にも屈せず、堂々と女――ミシェルは言ってのけた。腰に手を当て険しい表情で男を睨み付けていた彼女は、親指で後方を指し示す。
そこにはミシェル以外にも何事かと駆けつけた連中が数人ばかりいた。
それを見た男はバツの悪そうな顔をする。どうやら騒ぎすぎたようだと解釈し、自分が置かれている立場をようやく理解する。
「違うんだ。関係ないくせにこいつが口を挟んでくるから」
と、ここで。
男の発言に妙な違和感を感じたミシェルは視線を動かすと、その奥にある凄惨な光景を発見した。
愛娘の後方にいたので初めは分からなかったが、ミレーナと同じぐらいの年頃の男の子が、顔を腫れ上がらせ倒れている。
ハッとし、慌てて駆け寄るミシェル。男はまずいものを発見されたと言わんばかりに引きとめようとするが、そんなもので彼女が止まる訳もなく。
駆け寄ったミシェルは男の子の容態を軽く確認し、どうしてこんな状態になっているのかを考える。
そして浮かんだ一つの憶測。
具体的に何をしたのかは分からない。しかしながら、先ほどの一幕を鑑みれば、原因である人物が誰なのかは大体想像がつく。
険しい表情で男を睨み付けるミシェル。それは世間一般の認識としての怒りというよりも、子供を持ついち母親としてのものだった。
完全に立場が悪くなった男は大きな身体を萎縮させながら、
「おいおい待ってくれよ。俺はそいつに財布を盗まれたんだぜ。そんな事されれば誰だって怒るだろ」
「だとしても、それが子供に暴力を振るった理由かい? あんたもいい年なんだろ。適切な手順ってのを知らない訳じゃないだろうに」
先程までとは違い弱気な男を攻め立てるミシェル。正論過ぎて男には返せる言葉が無かった。それ以前の、この数での勝負では話にならない。
ふと周りを見渡す男。
遠巻きで見て只事ではないと感じたのか、広場の方から数人の人間がこちらへと歩み寄ってくる。
男としても、こんな事で警察沙汰になるのは避けたい所だ。
「くそ!」
やり切れなさから苛立ちを吐くと、男は人目を避けるようにしながら急いでこの場を立ち去ろうとする。
「待て。ちゃんと話を」
男の背を見ながら呼び止めようとするミシェル。しかし男はただの一度も振り返らず、集まり始めた人込みを強引に掻き分け、その姿が見えなくなった。
子供に暴力を振るった件に関しては責任を取るべきじゃないのかとミシェルは考えるが、事の全容が不明瞭な現状それは後回しだと思い至る。
今は怪我人の治療が先だ。
「大丈夫か? どこか痛む所はあるかい?」
上体をゆっくりと起き上がらせ、確認を取るミシェル。知り合いであるミレーナも心配そうにその反応を窺う。
少年は腫れた顔を二人から隠そうとしているのか、不自然に横を向いたまま、
「平気だよ。これくらいどうって事は無い」
なぜかふてくされた様子でそう言った。
強がっているのか、本当に大丈夫なのか。
いずれにせよそう言えるという事は大きな損傷は被っていない証拠だろう。
「どうする? 病院に行くか?」
ミシェルの提案に、少年は首を横に振った。それを見たミレーナはなぜか怒ったような表情をする。
「駄目だよ。顔だって腫れてるし、こーいしょーっていうがあるんだから、ちゃんと見てもらわないと」
「……大丈夫だっていってるだろ」
「でも凄く痛そうだし……」
「うるさいな。俺の事は俺が一番分かってるんだから、放っておいてくれよ」
半ば投げやりにそう言うと、少年はスッと立ち上がり、この場から逃げようと走り出した。
それを見てあっ、という声を漏らすミレーナ。そんな彼女の反応を尻目に、素早い動きの少年は森に紛れ、ものの数秒で見えなくなってしまった。
もしかすると近づいてきた他の大人達に、何か後ろめたいものがあったのかもしれない。
一瞬追うかどうか迷ったミシェルだったが、あれだけ動けるということは、本当に大丈夫なのだろうと判断し、放っておく事にした。
まだやるべき事は他にある。
振り返るミシェル。そこには何事かと近寄ってきた人間に事情を話しているミゲルの姿があった。それから集まってきた大人達に騒ぎを起こして済まないと謝罪しこの場から引き上げるよう促すと、集まってきた人々は再び行楽の席へと戻っていく。
「立てるか?」
ミシェルの言葉に、ああ、と肯定したミゲル。
男に殴られてから時間は経過しているとはいえまだ頭がボーっとするのだが、立てないというほどではない。
というよりも、彼としてはこれ以上醜態を晒したく無いのだ。
意識して素早く立ち上がるミゲル。尻に付着した草を払い、余裕感を漂わせるのを忘れない
「いや、参ったよ。あの野郎いきなり殴り掛かってきたんだ。本当はやり返してやりたいところだったんだが、子供たちもいる手前だったもんで」
必死に弁明をするミゲル。話す際も極力笑顔を絶やさない様にするという手の入れようだ。
余程情けない男だと思われたくないらしい。
しかし存外、ミシェルは全く気にしていなかった。
喧嘩に負けたのがどうしたといいたげにミゲルの言葉を聞き流すと、人目を憚らず、服の裾で彼の口元を拭う。
驚き半分、なるほどミレーナは母親の真似をしたんだなとミゲルは感心しながら、
「大丈夫だよこれくらい。軽い擦り傷のようなものさ」
「いいからジッとしてな」
減り口をやめ、言われた通りジッとするミゲル。知らない人間の前でこんな事をされると恥ずかしさはあるが、なぜかそれ以上に嬉しさのようなものもある。
母性のような優しさで包み込まれているようで、これが世に言う年上の女というものなのだろうかと考えてしまう。
「よし、後は家に帰って消毒だな」
作業が終わったのかホッとした表情をして、ミシェルはミゲルから手を引っ込めた。
「ありがとう。その、何というか……悪い」
「全くだ。帰ってくるのが遅いと思ったら、こんなところで馬鹿やって」
「ああ……情けない所を見られたな。本当はどうする事も出来なかったんだ。ミシェルが来なけりゃ、今頃どうなっていた事か」
「お、やっと弱気な一面を見せたな」
してやったりのような笑みを浮かべるミシェル。しかし特に反応を示さないミゲルを見て本気で落ち込んでいるんだなと感じると、一変してしおらしい顔になった。
「分かっているよ。子供達を守ろうとしてくれたんだろ。情けない訳がないじゃないか。むしろもっと胸を張るべきだ。例え殴られようと子供たちを守ろうとしていたあんたはカッコよかったよ」
「……そうか」
お世辞と分かってはいながらも、思わず頬が緩むミゲル。それは言われた相手が相手だからなのかもしれない。
包容力があって前向きで一緒に居て楽しい。
明るい性格は沈んだ心を上げてくれる。きっと彼女を知れば知ってしまうほど好きになってしまうのだろうと、ミゲルは久々に芽生えそうな感情を抑えるのに苦労する。
「まあ、肝心なミレーナには、やっぱり嫌われちゃったけどな」
苦笑いするミゲル。今しがたの話からわかる様にそれなりのモラリティーを培ってきたミシェルはともかくとして、まだ幼い少女は目で見えるもので物事を判断するだろう。
悪者に負けた情けない大人。
六歳のミレーナの目にはそう映った事だろう。
「凄かったんだよ!」
しかしミゲルの考えは見事に覆される。
嬉々とした表情で母親に駆け寄ったその顔は、自分が見た光景を話したくて仕方がないようだ。
「あんな大きな人にも怖がらないですぐに止めに入ったんだ。ミレーナなんて足が震えて動けなかったのに」
「……何言っているんだ。ミレーナだってその大男に吠えていただろ」
「あれはミゲルを見て勇気を貰ったからだよ。きっと私一人だったら逃げ出していた。そう考えると、やっぱり凄いのはミゲルだよ」
「……そうか?」
キョトンとするミゲル。彼としても、一大人として当然のことをしたまでだ。
にも拘らず、この誉められよう。
ミゲルとしても、もらえるものはもらえるものはもらっておくかという感覚だが、如何せん不思議な感覚は否めない。
そんな彼の心情を見透かしたのだろう。
良かったじゃないかとウィンク一つ、ミシェルは腑に落ちない様子の彼にこう告げた。
「どうやら一気に株が上がったらしいな。今の子供ってのは案外シビアだ。本当の正義ってのを理解している」
「らしいな。まあ俺は正義なんて柄じゃないが」
心の底からそう思う。これまで散々悪事を働いてきた人間が今更正しいことをしたところで過去の悪行が消える事はない。
そもそもそこまで大仰な理由で動いた訳もない。言うなればかろうじて人間として残っている良心が働いたに過ぎず、そこにたまたま自分がいただけの話だ。
しかし、心の奥に溜まっていた穢れは確かな変化を感じている。
それを感じてしまう時点でやはり自分は悪者なんだろうなと思うし、そして今更そんなものに目覚めるだなんてことさらおかしくなってしまう。
良い行いをするのも悪くないな。
目の前で笑う二人を見たミゲルはそんな当たり前の事に気づく反面、やはり自分は柄じゃないと全身がむず痒くなるのだった。
一方その頃龍樹とパードリッジはというと。
食事をするために腰を落としたあの場所で留守番を任されていた。
用意した食事も全て平らげ、大きなシートの上には仏頂面の少年と腹を膨らませ仰向けになっている鳥が一羽。
やはり言葉が通じないのは辛いし、通訳役のパードリッジがいるとはいえ訳す彼の事を考えると談笑ひとつにも気を使ってしまう。
おまけにその相手になりうる人物達もどこかへ行ったっきり帰ってこない。
という訳で、楽しいはずのピクニックに来て結局食事だけを食べた感じになってしまっている龍樹。
行楽日よりの空の下。賑わう周囲をよそに、ホームステイさせてもらっている身としてはこんな事を言えるような立場でないのは彼自身承知だが、つい本音だって漏れてしまう。
「つまんない」
やる事のない龍樹は仕方なく、開けた弁当箱やらを片すのであった。




