淡い勘違い
午後二時。
持ってきた料理をほぼ平らげ、最早ピクニックという行事はたけなわを迎え、場は大人達の酒飲み場と化していた。
「いや本当に大したものだよミレーナは」
サンドイッチをちびり食べながら、ミゲルは唐突にそんな言葉を口にした。
彼は酒を飲んでいる。泥酔とまではいかないが、缶ビール三本にしては顔が赤すぎる気がせんでもない。
ミゲルはミレーナをいつくしむような目で見て、
「昨日の介護の件といい料理の件といい。まだ小さいのにこんなにしっかりしているだなんて……きっと父親に似たんだろうな」
「おいおい失礼な奴だな。そりゃどちらかというと性格は旦那似なんだろうが、この愛らしいルックスは私似だぞ」
「自分で言うか……まあ、そういう事にしとくか。でもなミレーナ。可愛いだけじゃ駄目だ。お母さんを見て学ばなきゃ駄目だよ。身なりもちゃんとして色気を出さないと、せっかくのルックスも台無しだからね」
「余計なお世話だよ」
酒が入った精か、ミゲルも調子が上がってきたようだ。ミシェルに対して皮肉めいた冗談を言う始末。もちろんミシェルがそれで怒ることはない。むしろ話が合う奴だと喜びさえしているようだった。
その後も続く談笑。最早喋っているのは二人だけで、言葉の分からない龍樹は何らかのアクションを求められるのを待つことしかできない。
「……おいパードリッジ」
耳打ちするように、龍樹は隣で腹を出しオヤジのようにくつろいでいる彼を呼んだ。大食いで全体の七割を食べたパードリッジは足を伸ばしながら龍樹へと視線を向ける。
「何だよ?」
「このピクニックっていつ終わるんだよ」
おおよその時間でもいい。
かれこれ二時間近くシートの上でくっちゃべっている現状。
スリの件で用事がない訳でもない龍樹としては、惜しみつつお開きにしたい所だ。
「何かあの二人を見てるとさ。まだ当分いそうな感じがするんだけど」
「気がするんならいるんじゃねーのか。もし嫌なんだったら先に帰るって言えばいいじゃねーか」
「別に嫌って訳じゃないんだが……」
「何だったら伝えてやるぜ。用事があるみたいだから帰らなきゃ駄目だって」
「いや……いいよ。楽しそうに話してるしさ」
内容は分からずともそれだけは分かる。はっきりいって龍樹がこの場にいようがいまいが二人は喋り続けるだろうが、如何せん客人には気を遣うミシェル。楽しい時間をわざわざ切り上げ、一緒に帰ると言い出しかねないので、龍樹としても下手に口出す気にはなれない。
彼もまた人の顔を見すぎるという、小心者の心が備わっているのだ。
酒が入った二人の饒舌は衰える気配が無い。むしろ談笑は過熱する一方で、傍にいるミレーナはなぜかそわそわしている様だった。
「それにしてもいいのかな。ミシェルさんお酒飲んで」
彼女は妊娠していると龍樹はアテナから聞いた。缶ビール一本をちびちびと飲んでいるので量にしてみれば少ないのかもしれないが、絶対お腹の子供には良くないと思う。
自分が妊娠している事を忘れているわけでもあるまいに。
多少なら問題ないという事なのだろうかと龍樹も色々考えもする。
酒を全く飲まない彼としては、そうまでして飲みたいものだろうかと率直に疑問を浮かべる。
そう思っているのは彼だけではない。
また缶ビールに口を付けたミシェルを心配そうな目で見るミゲル。当の本人は視線に全然気づいていない様で、あーやっぱりうまいな、と暢気な言葉を口にしている。
「いいのか? お腹の子供に響くぞ」
割かし小さめの声で告げるミゲル。妊娠している事は家族に内緒というのは、理由を含めすでに聞かされている。
ミシェルは隣に座るミレーナに注意を払いながら、
「ちゃんと考慮はしているよ。逆にストレスを溜めるのはよくないからね。こんな時ぐらい飲ませてくれよ」
「……何だかダニエルに罪悪感が」
「いいんだよ。家族よりも仕事を選ぶ男なんて」
思い出して腹が立ったのか、ミシェルはこれまでより幾分か豪快に缶を立てたように思えた。
ぷはあー、とビールを満喫し、幸せそうな顔をする彼女。
産婦人科の人間が見れば大いに怒鳴られるのは間違いない。
その後もミシェルのダニエルに対する愚痴は続いた。
「今頃あの男はデスクに向き合って黙々と仕事しているよ。いや、下手すりゃ喋りかけているかもな」
「まさか」
「どうかな。あいつならあり得るぞ。本を読む時だってぶつぶつ言ってるし」
「自分の愛する人をあいつ呼ばわりするのはよくない。ダニエルだってあんたやミレーナのためにがんばっているんだから」
「分かってるよ。分かっているけど……そもそも性格自体は合わないんだよな」
ぐびり、と恐らくは無意識にビールを喉に流し込むミシェル。段々ペースが普通になってきている。流石に次の一本に手を伸ばしたら止めようとミゲルは心に決めつつ、
「でも二人は知り合って長いんだろう。これまでちゃんと協調しあってきたんだ。今更どうこういうような事でもないだろう」
「お、さてはミゲル、本当の恋を知らないな」
発言の度にいちいちしぐさを取るのが彼女の特徴だ。両指でミゲルを指差しいじわるな表情を取ると、指摘された事についてそう返したミシェル。
その言動にドキッとするミゲル。
確かに思い当たる節もある。
事女性関連に関してはそれなりにやんちゃしてきた彼だが、そこに愛があったのかと問われれば答えはNOだろう。今までしてきた恋愛だって娼婦や行きずりのものでしかなく、誰かに恋をするなど、遠い昔に名前も忘れた同じクラスの女子にしたぐらいのものだ。
なので、今しがたのミシェルの言葉に対し、彼は反論できないであろう。
だがミゲルの胸がざわついた原因はそれだけではない。
こんな俗称を使うのは柄ではないし、いささか不本意ではあるのだが、
発言の際に彼女が取ったしぐさ。
不覚にもそれに胸キュンしてしまったのだ。
年上で男勝り。妊娠しているのにビールを飲むほどの酒好き。そんな彼女の垣間見えた女性の一面。
いわゆるギャップ萌えにやられたミゲル。
心という場所に花が咲いたような感覚に、思わず思考が停止してしまう。
「ん? どうしたんだ」
自分の言動が男を魅了してしまったとは露知らず、不思議そうな顔をするミシェル。
それを見たミゲルは我に返り、悟られては駄目だと言わんばかりにすぐさま言葉を発する。
「あ、ああ。ちょっと考え事をしててな……それより、もうお酒は駄目だ。やっぱりお腹の子に悪影響だし、子供たちだって見てる」
言って、ミシェルの手から優しく缶を奪う。
奪われた本人は瞼をパチパチさせた後、むう、と子供のように頬を膨らませた。
「なんだい。あんたもそんな真面目な人間だったのかい」
「真面目じゃないよ。これでも悪いことは大半やってきたつもりだ。ただかろうじて人で入れる場所には留まっているつもりなんだ。どうしても飲みたいんだったら、ノンアルコールのものでも飲むんだな」
「……いじわる」
思わず漏れた本音。もしかしてさっきの指摘で怒っているのだろうかとミシェルは考える。しかし彼女自身、言われて反省すべき点もある。ただでさえ無事に産める可能性が一般よりも低いのに、ついつい周りの空気に流されてしまい、酒の誘惑に負けてしまっていた。
これを機に本当にやめなければ。
顔は怒ってはいるが内心では、ミゲルに感謝を示すミシェル。
「ママ達何の話してるの?」
何やら訳の分からないやりとりをしている人に、不安を覚えた様子のミレーナ。無理もなかった。なぜなら彼女にとって、今のミゲルは母親を奪おうとする敵に見えてしまっている。
ダニエルの文句を言いながらその敵と仲良く話しているのだから、娘としては気が気ではない。
そんなミレーナの気持ちを知ってか知らずか、ミシェルは母親の顔をしながら話を逸らす。
「なんでもないよ。ほら、今日は友達も来てるんじゃないのかい。探してきなよ。ミレーナが作ったサンドイッチを食べさせてあげるといい」
バスケットに残っている最後のサンドイッチを指差すミシェル。だがミレーナはその提案に乗り気ではない。彼女だってそれなりに物事の分かる年頃だ。見知らぬ何かをはぐらかされたという事は漠然ながらも分かっている。
「サンドイッチはいいよ。それで、二人は何の話をしていたの?」
険しい表情で繰り返すミレーナ。これにはミシェル達も目を丸くする。
「どうしたんだい急に」
さっきまで普通だったのに、急にミゲルとの会話の内容を知りたがるだなんてどういう意図があるのだろうかとミシェルは考察する。
もちろん、それは大切な母親が父親意外と仲良くしているのが気に入らないという気持ちから来る感情だ。
ミゲルと話す母親は本当に楽しそうに見えた。このままだとダニエルが捨てられ、ミゲルと一緒になってしまうのではないかと、子供心は心配してしまうぐらいに。
だが子供心が分からない大人のミシェルは別の捉え方をしてしまう。はは~ん、とお得意の意地悪な笑みを浮かべると、
「さてはミレーナ、ミゲルの事が好きなんだな」
と明後日な考えを口にする。
よりによってとんでもない勘違いだ。
そりゃ助けた時は何とも思わなかった。そして正直今も嫌いというほどの何かがある訳ではない。それでもミゲルと仲良くするのは父親を裏切る行為になってしまうと、幼い彼女は捉えてしまっている。
ミレーナは即座に訂正した。
「ち、違うもん」
だが耐久性のない心は返って不自然な行動を取ってしまった。
訂正せねばと思えば思うほど焦ってしまい、それが悪いほうに取られてしまう。
「照れるな照れるな。へえー。ミレーナはこういう男が趣味なのか。何だか母親としては複雑な気分だな」
「どういう意味だよ」
「いや、正直庭で転がってた時の服装は無いよ。成金じゃあるまいし。あんなダサいネックレス、B級映画でやられ役の敵が付けているのしか見た事なかったからさ。遊んでいるのは聞かなくても分かる」
「言ってくれるじゃないか。こう見えて根は真面目なんだ。寄ってくる女だっていない訳でもない。見た目で判断するのはやめといた方がいいぞ」
「どうだか。その女とやらに追い出されている今の状況じゃ、まるで説得力がないんだが」
「……それを言うなよ」
「さっき私に色気が無いといったお返しさ」
口達者なミシェルの言葉に、ミゲルもたじたじのようだった。返す言葉が見つからないと言った具合に、口を噤んでしまう。
それを見て満足そうな顔をするミシェル。
これをよく思わないのがやはりミレーナだ。
まるでミゲルとの掛け合いを楽しんでいるかのように笑む母の姿は、彼女にとって不安しか与えない。
実際はそんな事はないのだが、ミレーナ視点だとダニエルと話している時よりもミシェルは活き活きとしているように見えた。大人しい父とお喋りな母の馬が合わないのは彼女も幼いながら分かっている。
また何やら仲良く話し始めた二人。会話は途絶える気配を見せず、場には他にも人がいるのに、ミシェルはミゲルにしか話しかけていない。
まあ言葉が通じないという点が大いに関係あるのだが、彼女にそこまで考察できる余裕は無かった。
このままでは本当にダニエルが捨てられてしまうのではないか。そう感じ取ったミレーナは更に焦り、色々と働き掛ける。
「そ、そうだ。ママ、パパが言ってたよ。今日これなかった代わりに、今度遊園地に連れて行ってあげるって」
「ん? そんな事いったのか……全く。また適当な事を。今度だなんて曖昧な言い方、明らかにご機嫌取りじゃないか。子供がどれだけ期待しているかも知らずに。そういうところも考えが及ばないんだよな、あの石頭」
「まあまあ。本当に悪いと感じているかもしれないじゃないか。愛する夫だろ。信じてやらないと」
「はん、甘いな。昔から私はあの男にその手を使われていてな。そりゃ最初の方は信じていたさ。でもあまりに数が多すぎて、いつしか諦めていったんだ。今度だとか近いうちにだとか……あの男も嘘をつけないからな。だから言葉の端々に耳を傾ければ、その真意が読み取れる」
「……流石だな」
ふん、と鼻息を立て得意げな顔をするミシェルに、ミゲルは苦笑いした。
伊達に十年来の付き合いではない。真面目人間、言い換えれば不器用な性格のダニエルの考えなど、彼女にとっては手に取るように分かるのだろう。
ともあれ、事態はまた悪い方へと転がってしまった。
こんなはずではと、ミレーナは更に焦る。
「でも、今度は本当だと思うよ。本当にわるそーな顔してたし、ママの事も愛してるって言ってたし」
「……子供に何てこと言ってんだあいつ」
呆れたような顔をするミシェルに、あれ、また思ったようにいかないと、ミレーナは困惑する。
正直愛していると言っていたというのは作り話だ。もしかしてそれを見破られ、嘘を吐いたから余計に怒ってしまったのではないかと短絡的な事も考えてしまう。
そんな風にミレーナが困惑していると、いつしかミシェルは不満そうな顔をしていた。
「にしても――かあー。子供にここまで気を使わせて段々本当に腹が立ってきた、あの男。何でここにいないんだよ。いたらボロクソ言ってやるのに」
なぜか怒った様子の母親。そんなつもりでは全く無いのに、とミレーナもどうしていいか分からない。
何か弁明の言葉を述べようとするが、それがまた悪いほうに働くのではないかとネガティブに考えてしまい、口を開けない。
「その辺にしときな」
そしてここでもミゲルが彼女を宥めようとする。熱くなってきたミシェルに対し穏やかな口調で語りかける。
「本当はダニエルだって来たかったはずさ。だが、何度も言うようだが家族を養うためには働かなくちゃいけない。あんたも働いているなら分かるだろうが、金ってのは簡単には手に入らない。そこらへんを理解してやらないと、ダニエルも浮かばれない」
あくまでも彼は家族のために。
間違いでもなんでもない。ミシェル自身にだって、それは分かっている事だ。ただ、周りに愚痴をこぼさずにはいられないだけの話。
しかし丸っきりの冗談というわけでもない。やっぱりこういった家族行事は大事だろうし、実のところミシェルが働き、そして籍を入れない理由はダニエルの負担を減らすという意味があった。
にも拘わらずこれでは、もっとも重要な観点を蔑ろにしてしまう。
ミレーナが自分よりも仕事の方が大事なのではないかと考えてしまうこと。
ミシェルはそうなってしまう事を危惧しているのだ。
「この子も表向きは気にしていない風だが、色々と悲しみや不安は覚えているはずさ。ようは気を張っているんだ。そりゃ鈍感な所もあるダニエルだって分かっていない訳ではないはずさ。気持ちはどうあれ、やっぱり結果的に仕事を優先させてしまっているのはどうかと思うよ」
「確かにあんたの言う事も一理ある。でも、逆に言えばそれだけ信頼しているって事じゃないか。俺の娘はそんなにやわじゃない、ってな」
「さあ……どうだろうね。ただ、だとしてもこれはまた別の話さ」
認めたくないのか、漠然としながらも今の言葉を素直に受け入れようとしないミシェル。
お酒の変わりにオレンジジュースを口にした。やはり身体は酒を飲みたがっているようだったが、ここは我慢だと自分に言い聞かす。
「いずれにせよ、その辺は後で本人と話してみるんだな。何なら俺も立ち会ってやるよ。まあ夫婦間の問題だ。邪魔ならもちろん干渉はしないけどな」
ダニエルの件に飲酒が出来ないという状況。
不満そうな顔をする彼女の顔を見ながら、ミゲルも一応は気を使う。缶ビールを脇に置き、彼女の前で飲むのをやめる。
その気遣いに気づいたミシェル。
そこまで気を使ってもらうと、逆に悪い気がせんでもない。
「いいよ別にそこまでしなくて。私だって良い大人なんだ。目前で飲まれたところで、冗談で悪態はつけど、本気で思ったりはしない」
「分かってるよ。ただ、一人で飲む酒はやっぱりあまりうまくないなと思ってさ」
そっけない表情で、そんな事を言うミゲル。
その言葉が本当か嘘かは分からない。
ただ、このタイミングで飲みかけの酒を置く。
丸っきり気を使わなかったという訳でもないだろう。
気を使われたという感謝と可笑しさから心がむずかゆくなるミシェル。ミゲルの顔を見て、思わず微笑する。
「どうしたんだ? 急に笑ったりして」
本当によく分からないので訝しむミゲル。不思議そうな顔をする彼を更におかしく思い笑うミシェルは、
「いや、顔に似合わず優しいんだなと思って」
と、本音をぶつけた。
それからほんの数秒ではあるが、二人は見つめあった。
腐っても男と女というところか。
思っても見れば年齢も丁度いい頃合。
話も合うし、彼らぐらいのカップルがいた所でなんら問題はないだろうし、むしろ生物学的には相性も良い。
とはいえ二人は昨日今日会ったばかりだ。おまけに片方には恋人だっている訳で、恋にそうそう発展する事もあるまい。
男が女に、女が男に。二人の間で友情が芽生えた。
今しがたの一瞬を見れば精々そのぐらいだと思うのが一般的なのかもしれない。
現に目前にいる龍樹は何も勘ぐっていないし――言葉が分からないというのもあるのだろうが――ミシェル達もすでに眼を逸らしている。
だが考えすぎてしまう人間が一人いた。
何だかいい雰囲気の二人を交互に見るミレーナ。やっぱりこの二人がこれ以上仲良くなるのはまずいと態度に表れ、傍から見れば明らかに挙動不審だ。
そんなそわそわする娘を見た母親が大丈夫だろうかと心配するのは至極当然と言えよう。
「どうしたんだいミレーナ?」
いつもおどおどはしているが、それとはまた程度が違う様子のミレーナを不思議に思い、瞼をしばたかせるミシェル。
もうこうなれば気持ちを直接伝えるしかない。
焦りからそう思い至ったミレーナは、率直な言葉を口にする。
「ふ、二人は仲良くしちゃだめ!」
振り絞るような大きな声で、真剣な表情。
まさかの反応に驚いた様子の一同。言葉の分からない龍樹達は急に声を荒げたミレーナに疑問を覚え、言葉が分かるミシャル達はその真意を探る。
そして出た答え。
これまでの話の脈略上、ミシェルでなくとも勘違いされるのも無理はない。
「……驚いたな」
半ば冗談で言ったつもりがここまで熱のある返しをされるとは思っても見なかった。
どうやら本気のようだとミシェルは判断する。
幼いとはいえ、可愛い愛娘の淡い恋。親戚の人間ならまだしも、母親としては茶化す訳にはいかない。
「大丈夫だよ」
ミシェルは優しい笑顔をミレーナに向けた。これには何が大丈夫なのだろうかと、ミレーナも言葉の真意を探してしまう。
ミシェルは相変わらずの笑顔で、
「反応が面白いからからかっているだけさ。ママには何せパパがいるからな。ミゲルの事を取ったりはしないから安心しろ」
しばらくの間、母が何を言っているのか分からず、呆けるミレーナ。
だが徐々にその言葉の意味を理解する。
取ったりしないから安心しろという、気を使っている口ぶり。
ようはいまだにミレーナがミゲルの事を好きだと勘違いしているのだ。
これにはミレーナも頭にきた。
普段は愛くるしい表情を剣呑にし、母親の鈍感さに業を煮やした少女は、
「だからそんなんじゃないって言ってるじゃない!」
声を張り上げ、溜め込んでいた感情を吐き出す。
恥ずかしさと怒りから、ミレーナは一旦この場から去り落ち着こうと立ち上がる。
「どこいくんだよ?」
奇行とも取れる娘の言動に戸惑いつつミシェルが言った。ミレーナはいまだ不満そうな顔をしながら
「トイレ!」
とイライラ気に告げると、そそくさとどこかへと向かっていった。その背を見送る一同たち。
「トイレって……あいつお金持っているのか」
イタリアのトイレは有料なものが多い。特にここら一帯は行楽地だから、今頃トイレ前は長だの列になっている可能性も高い。
「ちょっと見てくるよ」
誰になんと言われるでもなく、心配になったミゲルは様子を探りに行く。
しかし、気が合うとはいえそこは会って間もない。
「いいのかい? 何だったら私が行くけど」
「平気だよ。なんだかミレーナにはあまりよく思われていないらしいからな。少しでも仲良くなって、ちゃんと礼がしたいんだ」
「そうなのか? 私は別段そう感じないが……」
案外その辺りの微妙な違和には疎いミシェル。対照的に、今しがたのミゲルの発言を聞くに、彼にはミレーナが不機嫌な理由を理解しているのかもしれない。
さておき、ミレーナは命の恩人だ。彼女の一言がなければ今頃ミゲルは刑務所だったのかもしれないし、下手をすれば死んでいたかもしれない。それを考えれば、青空の下でピクニックが出来る現状、感謝してもしきれない。
ミゲルは腰を上げると、まだかろうじて視認できる小さな背を追いかけた。




