命の値段
朝露を湛えた街並み。今朝は気温が低かった精もあり、霧も濃く発生していたようだ。その水滴に反射する陽光は眩しいほどの輝きを見せ、さわやかな朝の光景に花を添えている。
「もしもし俺だ、トロントのミゲルだ」
眩いほど明るい世界には不釣合いな小さく、くぐもった声。万が一にも人に聞かれたくない内容というのは、サングラスに帽子という随分と古典的な格好からも窺える。
公衆電話から国際電話を掛ける男の姿がそこにはあった。
切羽詰った彼の声にどうしたんだという相手側の返答。ミゲルは更に声を絞り、しかしどうにか懇願している雰囲気を声に乗せながら、
「手を貸してほしい。大元の人間に裏切られたんだ」
裏切られた? と相手側の反応。
「ああ。今イタリアに居てな。出来れば匿ってほしい。もちろん只とは言わないさ。それなりの見返りは用意するつもりだ」
わずかな沈黙の後。
いくらだ、と具体的な内容を知りたがる相手。
「とりあえず口座には一万ユーロほどの貯金がある。それでどうにかして住まいを確保してほしい。足りないのなら後々稼いで払う。頼む。あんたしか頼れる相手がいないんだ」
力強い口調で縋るミゲル。一刻も早くこの国を出なければ生きている心地がしなかった。流石のカッサロー二も国外に逃げた人間を見つけるのには手間が掛かるはず。その間に別人に成りすまし、ほとぼりが冷めるのを待つ。
それがミゲルが掲げた当面のプランだ。
電話の向こう側からは値踏みするような唸り声が聞こえてくる。果たして自分に取って損得なのか。それを計算しているのだろう。
緊迫の時間が続く。朝から手助けしてくれそうな人物に連絡をして、これで三件目。一人目は提示した金額を聞いたら、二人目はカッサロー二の名前を聞いたら、一方的に断りを入れてきた。
人脈はもう底を突き始めている。その中でも最も親しい間柄の人物。ここで無理なら、はっきり言って後は望みが薄い。
かくして、電話の向こう側の人物は長い沈黙の後。
いいだろう、と答えた。
「本当か!?」
思わず声が上ずってしまう。正直、また断られるのではないかと心配していたところだ。
今回の一万ユーロとは別に一万ユーロを上積みしてほしいと電話の向こう側の人物は付け加えた。
今の彼にとっては大金だが、命の値段と考えれば決して高くはないと踏ん切りをつける。
迷う事無く返事をすると、電話の向こう側の人物とドイツで落ち合う約束をして、電話を切った。
ドイツならパスポートが無くても向かえる経路を知っている。ようやく見えた活路にミゲルは安堵の息を吐く。一時期はどうなる事かと思ったが、どうやら自分はまだ神に見放されていないようだと調子の良いことを考える。
そうと決まれば、こんなところで油を売っている場合ではない。ミシェル達には世話になったしピクニックに行くという約束もしているが、これまで人の人生を狂わせてきた男に取ってそれを反故にするぐらいどうって事はない。
何よりも彼女達の前から消える事が、彼女達の為にもなるというものだ。
そして。
早速ドイツまで向かうための旅費を工面するため、最寄りの銀行へと駆け寄り、一万ユーロが入っている口座のキャッシュカードをATMに入れ操作ボタンを進めていったミゲルだったのだが、
「くそ!」
周りに人が居るにも関わらず大声を張り上げ、悔しさを露にする。それに気づいた人々が彼を戸惑った様子で見るが、当の本人は反応を示す余裕がない。
確かに一万ユーロ入っていたはずの口座。その残高がゼロになっている。
(……まさかここまで管理されていたとは)
怒りを通り越し感心さえする。
スキミングされたのか、口座にも何かしらの小細工がされていたのか。可能性としては前者だろうが、重要なのはそこではない。
これではドイツへと向かえない。事の真相を明かそうにも今日は祝日。銀行員は休みだし、例え理由を知ったところですぐにどうこう出来る問題でもない。
終わった、と落胆するミゲル。相手が前金も無しに手を貸すとは思えない。そもそも出向けないのではどうしようもない。
悲壮感に暮れるミゲル。
なけなしの財産も電話で使い果たしてしまった。
せっかく助かったと思ったのに、ただの延命でしかなかったと、そんな自暴自棄な事を考えさえする。
肩を落とし街を歩く様は明らかに浮いていた。しかし、だからと言って街の者が彼を注視するほど、イタリアも平和な国ではない。
すれ違う人の何人かは下を向いて頭を抱え歩くミゲルの事を不思議そうに見るが、いちいち声を掛けるものなどいなかった。
陽気な気質な彼たちの事。きっと女にでもフラれたのだろうと推測しているのかもしれない。
行く当てもなく、結局ミゲルはアルファーノ家に戻った。
外を出歩くと奴らに見つかってしまう、という理由もあるのだが、それより何より、落ち着いて考えられる場所に行きたかった。
外だと静かな場所を探すのも一苦労だ。
人様の家で勝手な話だが、囲いのある場所というのは、妙な安心感がある。
家に戻ると、丁度ピクニックの準備をしている最中だった。台所にはミシェルとミレーナの姿が見え、何を作っているのかとても甘い匂いがする。
そういえば朝ごはんを食べなかったっけ、と気づくと、急に腹が減ってきた。
絶望に打ちひしがれている時にも腹が減るなんて、人間はつくづく不便な身体だなと思いながらも匂いに釣られ彼女たちの元へと足を運ぶ。
「やあ。早かったんだね」
振り返らずとも気配で察したのか、料理を進めながらそう言ったミシェル。
ミゲルはか細いその背中を眺めながら、
「ああ。思いのほか、うまくいかなくてね」
二人の元へ歩み寄り、手元を覗き込む。どうやらサンドウィッチを作っていたようで。
甘い香りがしたのは、パンに付けているバターのようだ。
「なんだい。彼女さんまだ怒ってたのかい?」
「そんなところかな。くだらない事ですぐに切れる。ほんと、あんたらが羨ましいよ」
ミゲルがそう言うと、ミシェルは彼に振り返った。その表情には小悪魔的な笑みが浮かんでいる。
「まあ、私たちも一見は仲良さそうに見えるけど、お互い結構不満だってあるんだよ。昨日の件だってそうだしさ。いまだに腹が立つよ。朝送り出すとき散々嫌味を言ってやった」
「それでも見送ったんだろ。だから、やっぱり羨ましいさ」
朝の件を思い出しているのか急に険しい顔になったミシェルに、ミゲルも愛想笑いをする。
彼女の横を見る。椅子に乗り背丈をキッチンに合わせてるミレーナは、一生懸命パンにバターを塗っていた。
表情も真剣だ。ミゲルが来た際に一度振り返っただけで、後は黙々と調理を進めている。集中力があるというか何と言うか。
パンにこれだけ一生懸命な子供というのも、珍しいといえば珍しい。
「何か手伝おうか?」
一生懸命なミレーナを見てなぜか申し訳ないと思い、そう言ってみるミゲル。
「ありがとう。でも客人に手伝わせる訳にはいかないよ」
一生懸命な娘を見ながら、ミシェルが言う。
「そうじゃなくて、料理には自信があるんだ。これでも昔はシェフになりたかった時期もあってね。その辺りの素人には負けないと思う」
「へえー……そこまで言われると食べてみたいね」
静かなしゃべりに、丁寧な口調。そこから推測するに、ミゲルという男はまじめな人間のようだとミシェルは思う。
そんな彼が自身を持って言う腕前。
もてなしどうこうよりも、一人間として食べてみたい気持ちにもなる。
ミゲルはすっかりその気なのか、上着を脱ぎ、ワイシャツの袖を捲っていた。腕には蛇が炎と絡まっているような刺青が覗いたが、別段海外では珍しいものでもないので二人とも驚いてはいない。
キッチンに並べられていたソーセージやジャガイモを包丁で切っていく。手つきはかなりのもので、時には包丁の角度を変え、時には食材の角度を変え、あまりの速度に目が追いつかない。材料を切るという手順でこれだけ魅せられる。腕が良いというのは、あながち嘘ではなさそうだ。
「うまいもんだね。言うだけのことはあるよ」
「ありがとう。キノコはあるかな? なければタマネギでも構わないけど」
かつて料理人を目指したという手前妙なスイッチが入ったのか、食材を要求するミゲル。その間も手は止まる気配が無く、今もフライパンに油を敷き温めている。
「これでいいかい?」
ミシェルは冷蔵庫の中から昨日買ったばかりのマッシュルームを差し出す。本当はパスタに和えようと考えていたのだが、この様子ではミゲルに使われた方が食材も喜ぶに違いない。
ミゲルは受け取るとありがとう、といいマッシュルームを水道水でサッと洗い、切っていく。その間にフライパンもいい具合になったらしく、痛みやすいマッシュルームは最後の方に、これまで切った食材たちを炒めていく。そして頃合になるとデミグラスソースを入れるなど、素人では到底思いつきそうも無い所で調味料を加えていく。
これにはミレーナも関心を示しており、あれほど一生懸命だったバター塗りの事を忘れ、フライパンで煮込まれる食材たちを見ている。
「俺の住んでいた国の郷土料理でね。本当は白ワインなんかを入れるんだけど、ミレーナも食べるだろうからマイルドな味に作ってみるよ」
状況に合わせて様々な調理法で料理が出来る。
それも時間を掛けずに。
フライパンからはグツグツという音がし始め、漂ってくる匂いは食べてもいないのにおいしいという事が分かる。
「完成だ」
火を止めミゲルがそう言うと、ミシェルとミレーナは思わずフライパンの中を覗き込む。ソーセージを主体とし、適当に切られたジャガイモやキノコがデミグラスソースにほどよく絡み、見栄えも抜群だ。
弁当用にこしらえたのかデミグラスソースの量も若干少なめだったが、その分はキノコやジャガイモが蓄えてくれている。
「良かったら味見してみるかい?」
興味心身な二人にそう告げるミゲル。近くにあった小皿を取り、今作った料理を盛る。それを差し出されると、ミシェルは無言で受け取る。そして熱がりながら指で摘み口に運び、一言。
「うん、うまい」
目を広げ、頷くミシェル。
「ミレーナも食べてごらん」
娘にも差し出す。母とは違いこちらは恐る恐るといった具合のミレーナ。小皿を受け取ると、
近くにあったフォークを手に取り、試食する。
母が齧ったウィンナーにフォークを刺す。
パリ、という歯ごたえのいい音。口にウィンナーを運び、もごもごさせながら咀嚼する。
やはり親子というべきか、ミレーナはミシェルのように目を大きく広げると、
「……おいしい」
ぽつりとそう呟いた。
二人の感想を聞いて安心したのか、胸を撫で下ろすしぐさを取ったミゲル。実は料理を作ったのは久しぶりだった。おまけに他に用途があったであろう食材を使ってしまったので、思いのほか緊張していたのだ。
それを見てミシェルは更に彼の腕前を絶賛する。
「いや、本当においしいよ。店に出たっておかしくない味付けだ」
「それは言いすぎじゃないか? 俺だって一応は端くれだったんだ。自分の腕前は理解しているつもりさ。それにこのぐらいの料理、要領を掴めば誰だって出来る」
「そうかい? 残念だなそれは。せっかくそこまで上達したなら、もっと磨けば良かったのに。うちの旦那も料理はうまいが、あんたには負けるよ――なあミレーナ」
何気なく娘に同意を求めるミシェル。しかし当の本人は何やら複雑な顔をしている。平らげかけていた小皿に伸ばしていた手を止めると、
「……パパの方がおいしいもん」
と反論した。
目をパチパチさせるミシェルとミゲル。
誰が言わなくても分かる。
今しがたミレーナが言ったのは、強がりから来るものだと。
「すまないね。この子にとっては、父親が一番だから」
ミゲルに囁くミシェル。
「気にしていないよ。それに、本当においしいかもしれないじゃないか。一料理好きの人間として、一度彼の料理も食べてみたいものだ」
「じゃ一度言っておくよ。あんな大人しい男だが、負けず嫌いな所もあるからな。もしかしたら闘争心を燃やすかもしれないが」
「それは困るな。出て行けと言われると嫌だから、やっぱり内緒にしておこう」
「ふふ、そうかい」
ひそひそ話で、静かに盛り上がる二人。
娘のミレーナにはそれが何やら良い感じに見えたようだ。
ママが他の男の人に取られる事を危惧すると急いたように、
「マ、ママ。早く準備しないと、公園がいっぱいになっちゃうよ」
あながち嘘でもない話に、ミシェルは何の疑いもない様子で、「おっと、そうだった」と思い出しの声を漏らす。
今日は世間が行事ごと。公園には人が集まり、早めに行かなければ良い場所は全て取られてしまう。
「それじゃあそろそろ龍樹君達を起こさないと。ミレーナ、料理の詰め込みと、後、水も全員分用意しておいてくれ」
「しておいてくれって、料理の詰め込みなんてやった事ないから分かんないよ」
「何事も経験だ。がんばれ、我が愛しき愛娘よ」
困るミレーナに敬礼のようなしぐさを取りながら、ミシェルはこの場からいなくなろうとする。いまだ何か言いたそうなミレーナだったが、彼女が言葉を発するよりも先にミシェルの姿が見えなくなり、喉まで出掛かったそれを結局は飲み込む。
むすっとした表情。不満を隠そうともしない様はやはり年相応の子供で、何とも愛らしい。
とはいえ、ひどいと言えばひどいのかもしれない。
やった事のない事をいきなりやれだなんて、不安を抱かない訳が無いだろう。それがこの家の教育方針といえば、それまでなのだが。
「手伝おうか?」
未だむくれているミレーナに、ミゲルは思わずそう言ってみる。
ミゲルの優しさに、ミレーナは少しだけ振り返った。不安を湛えた瞳は、本当は手伝ってもらいたいのだろう。しかし今の彼女に取ってそれは父親を裏切る行為になってしまう。
悩んだ挙句、ミレーナは消え入りそうな小さな声でこう言った。
「……自分でやるからいい」
弁当を詰めるためか動き出す。
黙々と作業を進めようとするそれは、意識してミゲルから遠ざかろうとしているようだった。
料理に使っていた椅子を移動させ、机の前に持っていくミレーナ。これまで同様椅子に乗って背丈を合わせると、自分なりに弁当箱へと料理を詰めていく。
そんな彼女をミゲルは呆けた様子で眺める。
聞くところによると、彼を救おうと言い出してくれたのはミレーナという話だ。
それが事実なら、ミゲルとしても一番感謝を示したい相手という事になる。
あのまま警察に通報されていれば、不法滞在になっているミゲルは今頃拘留所だろう。そうなるとカッサローニの耳に入り、死に場所が変わっただけの話かもしれなかった。
冗談でもなんでもなく命の恩人である少女。
しかしそんな命の恩人には、どういう訳か嫌われてしまっているようだ。
中々うまくいかないのか、弁当に料理を入れては出しを繰り返すミレーナ。すぐそばにミゲルがいるというのに、頼ろうという気持ちはないようだった。
何分子育ての経験がない彼の事。
こういう場合は無理にでも手伝った方がいいのだろうかと悩むミゲルは、とりあえずその小さな背中を見守ることにした。




