ある少女の追想
あれは四歳くらいの時だっただろうか。
周りの子達が両親に迎えられてその数が減っていく中、少女は部屋の隅で孤独と闘っていた。
相変わらずみんなとは馴染めなかった。
馴染みたくなかった。
迎えに来るのはいつも皺が浮き出たお婆ちゃんで、きっとあいつは両親に棄てられたんだ、とやじってくる奴等なんかと仲良くなんてとてもなれない。
むしろ軋轢の淵は深まるばかり。
それが原因で交戦を繰り広げたのも一度や二度ではない。
もちろんそんな卑小な言動を取らない子もいる。
ある者は我関せずといった感じに、またある者はその苛めっ子に訓戒を喚起して慮ったりもしてくれた。
それなのに、あの頃の彼女はそれすらも拒絶した。
どうせみんな同じだと思っていた。
きっと慮ってくれた子も自分を哀れだと、両親に棄てられたのだと思っていたに違いない。
同情――人の心の悲しみや苦しみを分かち合い、いたわりの心を持つこと。
片腹痛かった。
体験もしたこともない人間が、現在進行形のこの胸が張り裂けそうな痛みを分かるはずがないと、あの頃の彼女は捻くれた思想を持っていた。
まだ子供だったのだ。
だからこそというか、世の中の本質的なものにも遭遇する機会はそうなかった。
だから、淡い期待感を抱くなんてのは至当のこと。
父と母はきっと仕事が忙しいんだ。
それが落ち着けばいつか迎えに来てくれる――それはいつも送迎してくれる皺だらけのヨボヨボなお婆ちゃんも常日頃口にする言葉だった。
信じていた。
何の疑いもなく。
突っ張ってはいたものの、心の片隅に確かに存在する無垢な感性はその期待を決して離さなかった。
もしその望みが叶えば忌々しい苛めっ子共にも一泡吹かせることが出来る。
そう信じてやまなかった。
その日は迎えに来るのが遅かった。
いつもなら午後五時には園内に出向き、お婆ちゃんは嫌だとか、どっか行けだとかの罵声を祖母に被せ、それを祖母があしらいながら帰宅につくのが日課だった。
なのに――来ない。
嫌だとかなんだとか言ってはいたものの、本当に来なくなればそれはそれで虚しい。
昼間賑わっていたぞう組の室内が閑散としていて、園長のコレクションだとかいう年季の入った無駄に大きな古時計が刻む秒針が少女の動悸と同調する。
結局、迎えが来たのは七時頃だった。
秋という事もあり、外は充分暗くなっていた。
ウトウトと顔を上下にしながら目を覚ました少女は、口から垂れている涎を手の甲で拭い、体育座りのその体勢を脱し、立ち上がった。
ぼやける視界の中、やはり迎えに来ていたのは祖母だった。
だが何かが違う。
服が違った。
最近着用し始めた地味な合服ではなく、全身が黒に染められた服だった。
幼なながらも新聞や本が好きな濫読者の少女はその服の呼称を知っている。
喪服だった。
首には似合わない一連の真珠のアクセサリーが掛けられている。
当然、その意味も理解していた。
誰かが亡くなったのだろう。
だがそんなに驚く事ではなかった。
祖母自体が高齢なので、周りの友好関係も図らずと年配者になってくる。現に、少女がその姿を目撃した事も幾度かあった。
やがて、教室の窓際で先生と祖母のやり取りを窺っていた少女の存在に気付き、祖母がそちらへと歩み寄っていく。
足腰が弱いのか相変わらず遅い歩調だった。
少女が不満そうに逞しい眉を曲げるのもいつものことだった。
別に祖母が嫌いなのではない。
ではなぜか。
それは内に溜まった憤りをどこかにぶつけなければおかしくなりそうだったからだ。
その掃き溜めに何も抵抗してこない身近な存在である祖母を選んでしまっていた。
その祖母が近づいて来る。
距離が縮まるたびに顔付きが歪んでいくのを少女自体が感じ取っていた。
しかし、近場――少女が居る教室前に展開される、蛍光灯が照らし出す廊下まで祖母が差し掛かった時、少女の剣幕は一気に不審へと変わった。
祖母がこちらを見ている。腰が曲がっている為、少女は視線をそんなに見上げなくてよかった。
いつもと様子が――雰囲気が違う。
長年の経験が構築した憔悴しきった身体から悲哀が放たれ、それが自分の小さな体躯に纏わり付いてくる感覚を少女は不思議に思った。
やがて祖母が頭に手を伸ばしてきた。
いつもなら振り払っていたであろう。
が、その時はなぜか抵抗はしなかった。
祖母は少女の頭を数回撫で、無理に明るくしたような抑揚でこう言った。
「さぁ、お父さんとお母さんに会いに行きましょう」
唐突過ぎて最初に出たのは歓喜でもなく驚きだった。
一度帰宅し、初めての喪服姿に着替える。
少しきつかったが我慢した。
そして馴染みの寺に行き着いたそこに両親はいた。
五歳の少女に取って一年という月日は充分長かった。
だがはっきりと覚えている。
少し前から会えなくなった最愛の両親の顔は忘れる事は出来なかった。
父の力強い目付き。母の整った顔立ち。それを受け継ぐ少女が確信を持っているので間違いはなかった。
少女は呆けたようにゆっくりと両親が入っているであろう遺骨に歩み寄った。
――可哀そうに、まだ小さいのに。
――なんでも遺体の損傷が激しくて仏さんは回収できなかったって
三十人ほどの周囲からはすすり泣く音や、少女に気付き、哀れむ声が大半を占めていた。
だが少女の耳にそれらの雑音は入っていなかった。
仏教式にあつらわれた祭壇の蝋燭がユラユラと揺れている。花がたくさん手向けられているその奥に、愛しい、凛々しい表情の両親の遺影が下手な笑みを浮かべていた。
そうか、死んでしまったのか。
理解力の早い少女の脳にその真実だけが真っ先に飛び込んできた。
思えば朝も祖母はどこか元気がなかったような気がする。
きっと、これが原因なのだろう。
その後を追うように、表現しがたい感情がこみ上げてきた。
しめやかに包まれた空間で立ち尽くす中、今まで心の片隅で微かに残っていた何かが粉々に砕けていくのを、少女は確かに感じ取っていた。
それからの事はよく覚えていない。
典型的な現実逃避だが、彼女の中ではそれほどにショックな出来事だった。
今でもたまに夢に見る。見た日は決まって嫌な寝汗をかき、身体がだるく、朝から憂鬱な気分になってしまう。
あれから十年経った今でもそのサイクルは変わらず、お陰であの日の出来事を忘れたことはただの一度もない。
現実じゃなくて、しかし現実である事を叩きつける様な、質の悪い悪夢。
そして今日も朝がくる。
快晴の太陽がカーテンの隙間から入り込み、明るい世界が部屋へと満ちる。
目覚めの悪い、最悪の朝が。




