彼女の日課
四月五日 金曜日 AM7:50
「行って来ます」
千石雫は十年前にドイツで客死した両親の写真に向かって目を瞑り堅実心合掌し、日課である挨拶をする。
父の名は天海 雲慶。母は天海 陽菜だった。
雫は現在、天海陽菜の母――雫からすれば祖母に当たる齢六十八の千石 楓と二人で暮らしている。
彼女の名字が両親と違うのは、彼女が本来は祖母であるはずの楓の養子になっているから。
それは親が亡くなる前にはもう手続きが取られていた。
仕事柄海外を転々としている両親。
彼らに変わり世話をしてくれる祖母の負担を色々と軽減させる狙いがあったらしい。
仕事がひと段落ついたらまた親子の関係に戻る手はずだったと一応の慰みは受けているが、本人はいまだその点に関しては納得出来ていない。
とはいえ雫自身、両親がどんな仕事をしていたのかはあまりよく分かっていない訳なのだが。
「お婆ちゃん、おはよう」
雫は、今起きたのかヨタヨタ産まれたての子馬のような足取りの楓に、学校に行く為に必要な物を鞄に詰め込みながら挨拶をする。
「あぁ、おはよう雫ちゃん」
のんびりと、隣の部屋から現れた楓は笑顔でそれに答える。
「気分はどう?」
いつものように楓の調子を窺う雫。
「あぁ、いい天気だねぇ」
「……そうだね」
薄ら笑いで、雫は言った。
楓は軽度の認知症だった。
今はまだ許容範囲で治まるくらいの症状しかでていないが、その内孫娘の顔も忘れ、物を盗まれた等と思い込みしたり、勝手に家を出て行くなどの突拍子のない行動を取るらしい。
だが雫は構わなかった。
幼少期には多大な迷惑を掛けた。
面倒を見るのは至極当然の役目だと思っている。
「それじゃ――行って来る」
だからこうして抱きしめてあげて、誠心誠意を込め心を通わてあげるのはとても大切な事だ。
「ホームヘルパーさんに迷惑かけちゃ駄目だよ」
ああ、と楓はまたのんびりと答える。
それが空返事なのは雫にも分かっていた。
だがどうする事もできない。毎日経験している事だが、いつまで経っても生まれる歯がゆさがなくなる事はなかった。
人は衰えていき、いつ何時死を迎えるやも分からない。
それを雫は痛感し、恐れている。
(……そろそろ行かなければ)
楓を抱擁したまま、向こう側の壁に掛けてある時計で時刻を確認した。
八時を回っていた。
学校の登校時間は八時半である。
雫は口惜しそうに楓から身体を離す。
床に置いてあった鞄を手に取り、学び舎へと登校を開始する。




