新たな居候
真っ暗な世界。それはまるで自分がしてきた事に対し蓄積された穢れに思え、不思議と居心地のいい暗さでもあった。
だが脳が目覚めるにつれ、それが自己弁護である事に気づく。
ゆっくりと瞼を開ける。
寝起きだというのにやけに頭がさっぱりしているのは強制的に意識が途切れた際の名残か。
見覚えのない天井にぼんやり疑問を覚えながらも、ミゲルは現の世界へと引き戻された。
ここはどこだ。脳内がそう叫んでいるのに、寝転んでいる地面の感触が気持ちよすぎで、身体が全く動きたがらない。
「気がついたかい?」
これまた聞き覚えのない女の声。
そこでようやく身体が動かす。声に反応を示したミゲルは横たわっている上体を起こすと、その姿を確認しようとする。
そこにいたのは女だった。ポロシャツにショートデニム。そんな大胆な格好で椅子の上で胡坐をかく姿は、見るものが見れば誘っているのではないかと疑ってしまう。
もちろん心身ともに疲弊しているミゲルに取っては、気にしている場合ではなかったが。
「傷の具合はどうだい?」
言われてミゲルは腕に奔る痛みに気付く。寝起きという精もあるのかいまいち記憶が漠然としていて、いつ負ったのかすぐには分からなかった。
「……ここは?」
辺りを見渡し質問する。それに対し女は気さくな感じで、
「イタリアの一般家庭の家さ」
と答えた。
そこで全てを思い出す。カッサロー二に騙され、手下達が抹殺しにやってきた事。その最中謎の子供が現れ車が事故を起こした事。その混乱に乗じ逃げられた事。そして命からがら辿り着いた場所で気を失ってしまった事。
もう一度辺りを見回すミゲル。食卓テーブルに六つの椅子。アンティークな座卓に壁掛け式のガラス。自分が横たわっているのはごく普通のソファーベッドで、生活観あふれるこの風景は、今しがた女が言ったように一般家庭の居住地のようだ。
それを知りとりあえずは安堵するミゲル。
命を狙われている現状、ここがカッティスの手の中でないと分かっただけでも、大分心持ちが違う。
それも束の間だったが。
手首に何か妙な感触があった。極めてソフトな力で掛かる圧力はどこか懐かしく感じるが、あまりいい思い出が浮かばないのはなぜか。
それを確認しようとした瞬間。
ジャラ、という鉄の音と共に、手首に掛かる圧力が強くなった。その正体を確認するミゲル。見れば、手には手錠がかけられてある。鎖の大きさや材質から考察するに本物ではなさそうだが、だからといって簡単に解ける拘束ではない。
片手に嵌められた手錠のやけに長い鎖はソファーベッドの下へと伸びている。きっと骨組みとして機能しているパイプ辺りに片割れが装着されているのだろう。
「悪いね。手荒な真似をしちゃって」
不思議そうに手錠を眺めるミゲルを見ながら、家の主はそう言った。
そちらに視線を移すミゲル。女は薄い笑顔の中に警戒心を覗かせながら、
「うちには一人娘も居てね。あんたが悪人じゃないとも言い切れない。その手錠を解く為に、いくつか質問をさせてもらう」
起きて早々まさかの展開に、質問? と眉を顰めるミゲル。あまり話しに付いてこれていない様子の彼に構わない調子で、女は続けた。
「まずあんたが何者でなぜこの家の庭で転がっていたのか。それを教えてくれないか?」
なんらおかしなことはない質問。彼女にしてみれば、家に帰れば庭に見知らぬ男が血を流し倒れているのだ。疑問に思わないほうがどうかしている。
それはミゲルにも理解できたはずだろう。
そして理解した上でこう言った。
「それは……言えない」
たったの一言。女の言葉に黙り込んでしまうミゲルは、申し訳なさそうな表情で、己の腕に嵌められた手錠を眺めていた。
そんな彼を考察する家の主。
何やら難しい顔をしている。その表情は怒ったようにも気持ちを汲んだようにも見て取れる。
「そうか」
やがて小さくそう言うと、緊張感を紛らわせる為か、目の前にあったタバコに手を伸ばした。中から一本取り出し、そのタバコをトントンと机の上で弾ませる。しかし弾ませるだけでなぜか口に加えようとはしない。
もしかしてそういう癖なのだろうかとミゲルが適当に推理していると、
「それじゃあ次の質問だ。あんたはここがどこか分かっているのかい?」
女は続けざまに質問をした。
ミゲルはそれに答える。
「ある程度の位置は把握している。ただ元々はこの辺りの人間じゃない。だから大まかな情報にはなるがな」
「その話し方。やっぱりこの辺りの人間じゃないのか」
何となく違和感は感じていた訛り。
地方だとかそう言ったものではなく、もっと根本的なところが違うような気がした。
それに骨格や髭の生え具合。
微妙な違いではあるが、自分達とは違うように思えると女は思っていた。
「もしかして外国人か?」
女のその質問に、ミゲルはよく分かったなという顔をする。
「ああ。産まれはスイスさ。それから色々あって世界を巡り、イタリアには最近になって来た。昔から観光や仕事で来る事はあったんだが、本当に良い国だよ。街は綺麗だし、人は明るい。少し物騒すぎるのが難点ではあるがな」
手錠を嵌められているというのにやけに落ち着いた様子のミゲル。
それもそのはず。
つい一時間前には死を決意したのだ。それに比べればこの程度の扱い、どうという事はない。
「イタリアには観光か何かかい?」
「まあそんな所だ。近々引っ越してくる予定だったんだ。もっとも、その話もどうやら無くなりそうだが」
「無くなりそう? なんだい。婚約者にでも逃げられたのかい」
「ハハ、そんな間抜けな理由だといいんだけどな」
鼻で笑い、ソファーベッドに背を預けたミゲル。最早逃げる気など毛頭なく、むしろリラックスしているようにも見て取れる。
そんな彼をジッと見つめる女。その眼はまるで審議を下す裁判官のように真剣で、触発されるように場の空気は静かだった。
「……最後に一ついいかい?」
頭の後ろで手を組み目を瞑ったミゲルに、女はそう問うた。再び瞼が開く。何を今更、と思いつつも、ミゲルは先を促す。
「何だ?」
「あんたは悪人か正義か。一体どっちなんだい?」
真剣な表情から発せられた、極めて抽象的な言葉。そもそも質問と呼べるかどうかも疑問だ。言ってみれば、嘘を吐く人間にあなたは嘘を吐くかどうかを尋ねるようなもの。
己のさじ加減でどうにでもなる。
そもそも何を持って悪となし、何を持って正義と言えるのか。
その明確な線引きさえ、提示されていない。
それらを踏まえた上で、ミゲルの回答はこうだった。
「悪人さ」
「……そうかい」
躊躇い無く発せられた言葉に、生じた間。
くつろぐミゲルに、気を張る女。これではどちらが不利な状況か分からない。
特殊な環境に、場はどうしていいのか分かっていないかのようにやけに大人しい。
長い沈黙。
お互い眼を見合わせる。まるで言葉ではなく気持ちで会話をしているような、傍から見ればそんな印象を受けてもおかしくない。
しばらくの睨み合いを経て、
状況が動いた。
ようやく自分なりの答えを見つけると、女はミゲルから視線を外し、何やら机の上を漁り始めた。
目の前にあったプリントのようなものを横にずらし、何かを手にする。
そしてそれを勢いよくソファーベッドに拘束している男へと投げた。
まさかの投擲に驚きつつも、咄嗟の判断でそれをキャッチしたミゲル。その際手錠の嵌められた腕を上げたので、鎖が音を奏でた。
手にした物体を早速見てみるミゲル。
鍵だった。その小さい棒鍵が一体何に合うかなど、考えるのに時間はいらない。
しかしこれには逆に戸惑った。
手にしたものの、すぐに使おうとはしないミゲル。不思議そうに鍵を見つめた後、女へと視線を移す。
「……いいのか?」
思わず漏れた率直な疑問。その言葉で更に確信が持てた。安心した女は微笑を浮かべながら背を伸ばす。
「いいさ。最初の質問で答えられないって言った時点で嘘をつかない人間だってのは分かっている。それに本当の悪人は自分を悪人とは言わないからな」
「……随分と単純な判断だな」
「そうかい? これでもかなりカマは掛けたつもりなんだけどな。まあ元々性分じゃないんだよ。人を疑うってのは、それだけで疲れる」
まだ火をつけていないタバコを、女は箱に戻した。不可解な一連の行動に眉を寄るミゲルは更に訊いた。
「あんた変わってるな」
「何がだい?」
「普通自分の家の庭に血を流した男が倒れていたら警察に通報するだろ。しないにしたって、家に上げるだなんてどうかしている」
「あいにくとそういうのには耐性があってね。もしかして迷惑だったかい?」
「いや……感謝している」
そこだけは履き違えて欲しくなかった。ただ単に、なぜそのような行動を取ったのかが気になっただけ。
ここでようやく手錠を外すミゲル。鍵は偽者ではないかと半信半疑だったが、どうやら本物の様で手錠は簡単に開けた。
「俺にもくれないか?」
指でタバコを挟むしぐさを取るミゲル。それを見た女は渋る様子もなく、机の上にあったタバコを箱ごと投げ渡した。
それを受け取るミゲル。
一本だけのつもりだった本人としては、まさかの箱渡しに目を丸くする。
「全部やるよ」
ミゲルの疑問は彼女にも分かっていたようだ。箱ごと渡した理由を、次のように述べた。
「妊娠しててね。だから酒やタバコは当分駄目なんだ」
「……おめでとう」
感情のこもっていない祝いの言葉。それもそうだろう。二人は今日会ったばかり。そこまで親身になって喜びを分かちえるほどの間柄ではない。
ミゲルは貰った箱からタバコを取り出し、口に加える。自分のポッケからライターを取り出すと、早速火をつける。
黙々と立ち上る煙。タバコはこんなにうまかったっけ、ともう吸える機会は無いと思っていたミゲルは、その味を噛み締める。
「ただいま」
居間に響いた、少しか細く幼い声。
見れば、一人の少女が、何やら紙袋片手にダイニングへと入ってきた。
大人しそうな子だ。だが何となく顔の整い方が傍にいる女と似ているので、ミゲルは直感的に娘だろうと判断した。
その少女は上体を起こしタバコをふかしているミゲルを見つけると、あ、起きたんだ、と言いたげに彼を見たまま固まった。
それを見た傍にいた女は少女に対し諭すような声で、
「ほら、渡してやりな」
と言った。
言葉を受けると、少女は恐れながらもミゲルへと近づいた。近づき、手を伸ばせば届くほどの距離で立ち止まる。そして手にしていた紙袋の中から何かを取り出す。
包帯だった。箱から取り出し巻かれていたそれを適当な大きさで取り出すと、少女は近くにあったミニテーブルの上に置く。
一体全体何が始まるのだろう。ミゲルがそう思いながら、目の前で作業を進める少女を眺めてる。
少女はミニテーブルから包帯と入れ違う形で消毒液を取ると、キャップを空け、その先端をガーゼに当てる。
多すぎず少なすぎず。慣れた手つきでガーゼに消毒液を染み込ませていく。
そして準備が整ったのか再びミゲルの方へと視線を戻すと、
「腕、出して」
掠れそうな声でそう言った。
「……」
何となく、少女がしようとしている事を理解したミゲル。
反射的に腕を差し出す。思った通り。少女は左腕に出来ている擦り傷にガーゼを当てると、優しく傷口を叩き始める。あまり刺激を与えないように、しかしちゃんと消毒液が染みるように、手当てを施してくれる。
消毒が終わると、ミニテーブルから再び包帯を手に取り、腕に巻きつけていく。
手先が器用なのか、包帯は綺麗に巻かれていく。その手際は子供にしては上出来過ぎるくらいだ」。
「ところであんた名前は?」
目の前にいる少女の手際に感心していると、そんな声が耳に入った。そちらに反応を示すミゲル。
椅子に座り、相変わらず無防備な格好の女は、悪人と知った上でも接し方を変えようとしない。むしろ、名前を訊くほどに深入りしようとする。
「ミゲルだ」
何のことなく答えたミゲル。実のところ恩義は感じている。彼自身そこまで不器用な性格ではない。仲良くとまではいかなくとも、少しくらいは礼儀を弁えてもいいと思った。
「そっちは?」
「ミシェルだ。そしてその子の名前がミレーナ。うちの一人娘でね。この家には後旦那がいる。今はちょっとした居候組みもいるんだがな」
「そうか……ありがとうミシェル。本当に助かった。改めて礼を言わせてくれ」
「礼なら私よりその子にいいな。あんたを助けるって言い出したのはその子なんだから」
言われてミゲルはミレーナを見た。丁度包帯を巻き終わったらしく、今は結び目を作ろうとしている。
「ありがとうミレーナ。お陰で助かったよ。それにその手際。将来は医者にでもなるのかい?」
「……うん。動物のだけど」
言いながらも、包帯から視線を上げようとはしないミレーナ。声の小ささといい大人しい雰囲気といい、どうやら極度の人見知りのようだとミゲルは推測する。
「……出来た」
包帯を巻き終えると、ミレーナはミゲルの顔を見る。その眼はこんな出来でどうだろうかと訊いているように思えた。
その出来を確認するミゲル。緩んでいる様子もなく、隙間も見当たらない。包帯越しでもガーゼは傷口へと的確に当たっているのが分かるし、結び目もちゃんとしている。
お世辞でも何でもなく、手当ての仕方は本当にうまかった。
「凄いじゃないか。驚いたよ。まだ小さいのにこれほどの技術。こりゃ将来はいい獣医になれそうだ」
包帯の巻き方だけで少し大げさな気がせんでもないが、しかし、丸っきりの嘘という訳でもない。
恥ずかしいのか、ミレーナは顔を赤らめ俯いている。褒められたのが嬉しかったのだろう。その頬はちょっとだけ緩んでいた。
「で、これからどうするんだい?」
手当てが終わったところで、ミシェルがミゲルに訊く。
今後の事。ミゲルの傷も見た所それほど重傷でも無い。それこそ歩くぐらいはどうってことはないだろう。
ミゲルは悩むような間を空けてから、
「そうだな……あまりここに居ても迷惑になる。旦那さんだって良い顔はしないだろうからな。傷もそう深くは無い。だから、すぐに発つよ――と、本当は言いたいところなんだが」
砕けた表情から一変、真剣な面持ちになるミゲル。建前としては今しがた話した通り。しかし、本心は別にあった。
申し訳なさそうな口調で、ミゲルは話を続ける。
「出来る事ならもう少しだけここにいさせてほしい。長居だけは絶対にしない。色々と工面を終えたら、すぐにでも場からは立ち去る」
図々しいのは分かっている。だが今は外に出るのは危険だ。負傷しているし、所持金だって少ない。流石のカッサロー二も、何の接点もないこの家にたどり着くには時間が掛かるはず。その間に逃走の手立てを用意できるはずだと、ミゲルは踏んだのだ。
とはいえ世の中そうそう都合よくはいかない。
ミゲルの要望に対し、ミシェルは逆に申し訳なさそうな表情をしながら、
「悪いがそれはできない」
と言った。
「私としても置いてやりたいのはやまやまだ。だが、やはり素性の分からない人間を家族と一緒にする訳にはいかない。……教えてくれないかミゲル。あんたが何者でなぜあんな状態に陥っていたのか」
「……」
ぶり返す質問に、押し黙るミゲル。ミシェルの表情は険しかった。それは興味本位などではない。本当に力になってあげたいと思っているからこその質問だと、ミゲルは感じ取る。
あまり押し黙るのはかえって怪しいだろう。
自分の家の庭で倒れていた見知らぬ男を介抱する彼女たちのこと。
きっと話せば分かってもらえるはず。
どうすべきか意を決したミゲルは、半ば言いにくそうにしながら、先の質問に答える。
「その……浮気、したんだ」
眼をそらしながら放たれた言葉。これがミゲルが選んだ答え。嘘の理由を作り上げ、どうにかして家に置いてもらう為の手段。
親切にしてもらった人間を騙すのは心が痛むが、どうしても言えなかった。
本当の理由を言ってしまえば、例えどれほど寛容な心の持ち主だろうと、断りを入れることだろう。
だがミゲルは少し後悔する。
嘘をついた事にではない。その理由があまりにも稚拙だったからだ。
浮気をしたから人の家の庭で倒れていたなど、今時の小学生でもつかないかもしれない。
かくして、肝心なミシェルの反応はというと。
眼を丸くしている。何をいっているんだこいつは。そんな事でも言いたそうに、ミゲルの顔をじっと眺めている。
「……浮気がばれてうちの庭で倒れていたのか?」
「あ、ああ。恥ずかしくてあまり人には話したくないんだけどな。だからさっきあんたが言った婚約者に逃げられたってのも、恥ずかしながらあながち嘘じゃない」
「その傷も相手にやられたと?」
「なかなかエキサイティングな彼女でな。と言っても、直接付けられた傷じゃない。天罰かは知らないが、階段から滑り落ちたんだ。始めは大丈夫だと思っていたんだが、急に激痛が襲い始めてね。どこかで腰を落とせる所がないかと思っていたら、素敵な庭を見つけたって訳だ」
すらすらと出てくる嘘の言葉達。
粗は目立つものの絶対にありえない理由ではない。世の中には理解しがたい理由で問題ごとが起こる事だってある。
それに比べればこんなもの、かわいいものだ。
まあ、結局物事の捉え方は、相手によるのだが。
今の話を聞いたミシェルは未だ目を丸くしている。ミゲルが言った話を頭の中で整理しているのか、または怪しんでいるのか。
審議を待つ身としては、この時間は中々に息苦しい。目の前にいるミレーナは浮気という意味が分かっていないのか特に反応は示していない。思えばこんな小さな子供の前で俺はなんて馬鹿な話をしているんだと、ミゲルは改めて自分を罵る。
やがてミシェルの中での判断が下されたようだ。
浮気して逃げ出したなどという馬鹿げた話を聞いたミシェルは――大笑いした。
身体を大きく仰け反らせ、口を大きく開け、少し大げさすぎやしないかと思うほどの声が、部屋一面に広がった。
ミゲルは思わず言う。
「……笑いすぎだろ」
「いや、すまないね。あまりにも間抜けな理由でさ。なるほど。それはとんだ悪党だ」
緊張の糸が切れたのか、満面の笑みを浮かべるミシェル。
それはどういった意味を孕んでいるのか。
そんな子供でも分かる嘘をつくからなのか、本当に馬鹿な理由だと笑ったのか。
確信を得るまでは、気が休まらない。
笑い終えたミシェルはミゲルの方を見ながら、
「分かった。少しの間なら匿ってやる」
「……いいのか?」
「ああ。笑ったお詫びも込めてな。ただ、やっぱりそう長くは無理だが。さっきも言ったように、うちには旦那がいる。優しくて温厚だから反対することはないだろうが、そこまで気乗りするのも無理な話だろう。だから彼女と仲直りするか踏ん切りをつけたら勝手に出て行ってくれればいいさ」
「……ミレーナもいいのかい?」
彼女の方へと視線を移し、伺う。ミレーナは使い終わった包帯を箱の中に戻しながら、「ママがいいのなら」と素っ気無いながらも了承してくれた。
「……恩に着る」
小さくそう呟いたミゲル。
ミシェルの発言に確信を得た。
信じている。急ごしらえの嘘を彼女は真と判断し、匿ってくれるとさえ言ってくれたのだ。
ほっと一安心するミゲル。嘘をつかない人間と判断された手前その優しさにやはり心は痛むが、隠れ家が出来たのは大きい。
「さあ、そうと決まれば夕食の準備に取り掛かるか。えーと今は龍樹君達もいるから……七人分か。結構多いな」
「俺の分は構わない。居座らせてもらうだけで充分だからな」
と格好いい事を言っては見たものの。
ぐうぅ~、と絶妙のタイミングで、ミゲルの腹がなった。
これにはミレーナもくすりと笑う。
「腹はそう言っていないみたいだな」
揚げ足を取ったように得意げな顔をするミシェルに、何も言えないミゲル。
身体は正直だ。腹は減っていて、所持金も少なく実のところ夕食をどうしようかと考えていたところ、その施しは大きい。
「遠慮はしなくて良いよ。うちでは客人が来たら歓迎会をやるって決まりなんだ」
料理に取り掛かるためか立ち上がったミシェルは髪を束ねなおし、台所へと向かっていく。
「さあ、手伝ってくれ、ミレーナ」
促されると、ミレーナも動く。母親の真似なのか、髪を束ねながら嫌な顔ひとつせず小走りで母親の背中を追いかける。
その光景をソファーベッドに横たわりながら眺めるミゲル。
不謹慎ながら、家族っていいなと感じてしまう。
こういう家庭を築きたかった。得た金はギャンブルにつぎ込み、気に入らない人間は殴り、女が恋しければ金で買ってきたこれまでの人生。
今目の前にある光景は、まさに金では手に入れられないであろう理想の形。
もう捨てたはずの淡い幻想。
だが改めて実感する機会に恵まれると、やはり、良い。
(……何を言ってるんだ俺は)
首を振り自分に言い聞かすミゲル。
今はそんな馬鹿な事を考えている場合ではない。
カッサロー二からどう逃げ切るか、それが重要だ。
手っ取り早いのは国外逃亡。しかし、飛行機は駄目だ。これまでは全てカッサロー二の人脈に頼ってきた。仕事を円滑に進める術として戸籍は彼に預けている。その彼が敵に回った以上、自分の戸籍の状態が分からない現状、海外はおろか国内線に乗るのだって難しい。
となってくると、やはり一から方法を探さなくてはならない。
全く当てが無い訳ではない。こういう事もあろうかと海外にいる時、カッサロー二も知らない仲間をいくつか作っておいた。
彼らがどこまで協力をしてくれるかは分からない。だが、何もしないよりかはマシだ。幸いにもへそくりのようなものだってある。それをうまく利用し、どうにかしてカッサロー二の目から逃れ、第二の人生を過ごすんだと、ミゲルは自分に強く言い聞かす。
キッチンからは包丁がまな板に当る音と、楽しそうに会話をする親子の声が聞こえてくる。
出来れば二人を巻き込みたくない。
となると、出来るだけ早い対策が必要になってくる。こうしてソファーベッドに横たわり邪な事を考えている暇なんてものは当然のようにない。
自分の為彼女たちの為。
準備が整い次第一刻も早くこの場から立ち去らねばと、ミゲルは固く決心する。
午後六時。
本格的に日が沈み始め、子供たちが家路に着きはじめる。今宵は満月のようで、大きく丸々とした月がはるか彼方に出没し、特別な夜を演出する。
祭日の前夜。家族や友人の集まりで祝うイタリア半島。
暖色の灯りが照らす道。
子供でもなく、しかし馬鹿騒ぎする予定もさらさら無いアテナは、アルファーノ家に戻る途中だった。
用事が済んだ訳ではない。いくら優秀な彼女であろうとその本質は人間だ。課せられた任務をこれ以上続けても体力の無駄遣いだと判断し、一息入れるために戻ってきたのだろう。
相変わらずの無表情。これでは任務が果たせていないという現状に苛立っているのか、街を歩き回って疲れているのかも分からない。
割かしゆったりとした歩調でアルファーノ家のすぐそばにまで迫ったアテナ。後十メートルも進めば庭先に到達し、そこから先は敷地内だ。
しかしここで彼女の足がふいに止まる。
何かを見つけたのか、立ち止まった彼女はほんの少しだけ目を細める。
原因は視線の先にあった。
夕日に照らされ、草木達の影が落ちるアルファーノ家の庭先。
そこに誰かが立っている。
仏頂面で腕を組んでどこか落ち着かない様子の人物は、明らかにアルファーノ家の様子を窺っており、傍から見れば怪しいことこの上ない。
「何をしているの?」
声を掛けられた怪しい人物――龍樹は、近づいてきたアテナに驚き、身を竦めた。
アテナの気配が薄かったという精もあるかもしれないが、それにしたって気づくのが遅い。
やはり、何か考え事をしていたのだろう。
改めてアテナの顔を見た龍樹は、安堵したように息を吐いた。
「よお、おかえり」
「……ただいま」
龍樹の言葉に妙な間を空けたアテナ。合理的な彼女は、きっと今の挨拶に妙な違和感を覚えたのだろう。
また家の方に視線を向けた龍樹は、そんな彼女に気づく様子はないが。
「中に入らないの?」
アテナの疑問に龍樹は何も言わなかった。聞こえなかった訳ではないだろう。
バツが悪そうな顔をして、首筋を摩り始めた。それは言いにくい事がある人間のしぐさ。表情は疲れているように見え、肩を落とし眼の焦点は逃げるように横を向いている。
最早確定といってもいいだろう。
「何かあったの?」
促すアテナ。だがすぐには話そうとしない。イタリアに来て色々とやらかしている龍樹。これ以上醜態を晒したくはないのが本音だろう。
とはいえ、結局は話さなければ先に進めない。
「……財布盗まれた」
言い難いので小声になってしまった。風が吹けば掻き消されてしまいそうな声量。なので、もしかしたら聞こえなかったのではないかと考える龍樹だったが、
どうやらそんな事は無かったようで。
「……どこで?」
具体的な質問を、アテナはしてきた。
起こった出来事を話した際に空いたわずかなラグ。
イタリアに来てから続く龍樹の不心得。
表情には現れていないが、アテナも内心勘弁してくれよと思っている事だろう。ましてや彼女はこうなる事を心配して家にいろと言ったのだ。わざわざしてくれた忠告も聞きいれず外に出歩いてこの様では、最早立つ瀬も無く、見放されたって文句は言えない。
それを理解した上で、龍樹は答える。
「多分街で盗られたと思う。風船が樹に引っかかっていたんだよ。それを取ってくれって言ってきた子供にさ」
「いくつくらいの子?」
「さあ……小学生くらい? の男の子。正直外人の体つき基準がよく分からない」
「風船を取った後、礼を言いながら抱きつかれた?」
「そう、何か必要以上に。よく分かったな。もしかして心当たりとかあんのか?」
少ない推測材料だけですぐに希望を見出そうとする龍樹にアテナは、
あり過ぎるわよそんなもの、と間髪いれずに告げた。
割かし強めの言葉遣い。やっぱり怒ってんのかなと、龍樹はちょっと不安になる。
「あり過ぎるって……どういう事?」
「子供のスリ。因習って言えば語弊かもしれないけど、昔からあるちょっとした社会問題。最近は組織化されて更に性質が悪くなったって聞いたわ」
「ちょっとした問題って……子供がスリだなんて大問題じゃないか。どうして国は放っているんだよ」
「……もしかしてわざと言っている?」
「何が?」
アテナの問いに、眉を寄せる龍樹。どうやらわざとではないようだ。はっきり言って、ここイタリアに限らず、世界的に見て子供がスリをするのはざらな話だ。
ましてや裏世界で様々な事情を見てきたアテナ。
そんな彼女には、日本育ちの平和な価値観を持った龍樹の疑問が、おかしく聞こえてしまったようだ。
だが今はそれについて追求しても仕方が無い。彼の住む国の環境とやらを多少なりとも理解しているアテナはまあいいわ、と言った後、話をスリの件に戻す。
「顔は覚えている?」
「ああ。忘れたくても忘れられねーよ」
「服装は質素だった?」
「ん? ああ質素といえば質素かな。あんまり裕福そうには見えなかった」
「話を訊く限り、恐らく常習犯ね。もしかしたら頻繁に街に現れているのかも」
そう言うと、アテナは黙り込んだ。瞬きをして伏目の状態で動かない。一体どうしたのだろうかと思った龍樹だったが、考えを巡らせているという事に気づく、
なら邪魔をするのも忍びない。緊張しながら、黙って彼女の横顔を見ていると、
「とりあえず、明日一緒に街へ行きましょうか」
アテナはそんな言葉を口にした。これには龍樹も目を丸くする。家に向かって歩き始めた彼女の背を追いながら、訊く。
「明日街にって、もしかして探してくれるのか?」
「可能性は低いけどね。それでもゼロではないし」
「でも用事があるんじゃ……」
「その憂慮。日本じゃ建前として取ってくれるのかは知らないけど、他所ではあまり使わない方がいいわよ。海外じゃ日本の価値観なんて理解されないもの」
「別にそういう意味で言ったんじゃねーよ。こっちに来てお前には迷惑ばっかり掛けてるからな。今回のもいわば俺の過失だ。助けてくれなかったところで恨むような事は無いし、むしろ当然だと思う」
「分かってるわよ」
適当な感じで言葉を返すと、アテナは玄関の扉を開けた。玄関といっても、厳密に言えば小部屋。イタリアでは靴を脱ぐ習性が無い。なので、開ければいきなり部屋が広がっているなんて光景が一般的だ。
室内用の靴に履き替えると、二人とも中へと入っていく。
「私だって出来る範囲でしか動かない。用事だって常日ごろある訳じゃないんだし。その辺りは合間を縫ってやっているから心配には及ばないわ」
そんな事を心配するのなら予防をしっかりやってくれ。前を歩くアテナの背中はそう言っているように、龍樹は思えた。
最早何も言えまい。口を開けば開くほど己のたわけ具合を露呈するだけだろう。
これからは人の話を聞いてちゃんとしよう。そしてその上でちゃんと考えて行動して、他人に迷惑は掛けないよう極力努力する。
幾度と無く心の中で念じた戒めを、龍樹は異国の地に来てまで自分に課すのだった。
小部屋を抜け右手の部屋に入ると、そこはダイニングルーム。
何やら笑い声が聞こえ明かりも付いているという点から人が居るという事が窺える。
もう皆帰ってきているのかなと思いながら、龍樹達はとりあえず中へと入った。
「やあおかえり」
相変わらず気さくな感じのミシェル。こちらもこれまで同様椅子に足を上げはしたない格好ですでにシャンパンを飲んでいる。妊娠しているのにそれはどうなんだと疑問を抱く龍樹だが、実はミシェルが手にしているのはアルコールフリーという完全0パーセントのものだ。
観察力の無い龍樹がそれに気づかないまま心配していると、やがてミシェルの対面に座っている人物に目がいく。
一瞬ダニエルかと思ったが、雰囲気や風貌がまるで違う人物。
地味なダニエルとは違い、高価な時計にお洒落な服。まるでハリウッド俳優を思わせるような身なりの男性。
昼間屋台の前に居た人物だ。
予想だにしないまさかの再開に、目を瞬かせる龍樹。もちろん男性側は龍樹の事を知らないし、龍樹だって厳密に言えば彼のことを知らない。だが、それにしたってまさか知り合いだなんて、確立に換算すれば中々レアな話だ。
どこか変わった様子の龍樹に気づいたのだろう。
ミシェルは状況が飲み込めていない面々に向かって、紹介の意味も込めて説明する。
「ミゲルだ。訳あって少しの間家に居る事になった。こんなチンピラみたいな格好をしているが、気さくで面白いやつだ。良かったら仲良くやってくれ」
「おいおいチンピラは余計だ。これでも有名な某大学を出ている理系なんだから――それはさておき、ミゲルだ。短い間だが、なるべく邪魔にならないよう振舞うからよろしく頼むよ」
龍樹がイタリア語を分かるとでも思っているのか、言い終えると手を差し出したミゲル。
もちろん何が起こっているのか理解していない龍樹。それでも反射的に手を取り、軽く振った。
「何て言ったんだ?」
傍にいたアテナへとすぐに訊く。アテナは何やらミゲルの顔を窺っている。誰だこいつは。そんな事でも考えているのではないかというほどの表情で。
龍樹と握手を終えると、ミゲルはアテナにも手を差し出した。反射的かどうかは分からないが、こちらも手を取ったアテナ。流石に差し出された手を払うほどに、彼女も人間付き合いが下手な訳ではないようだ。
それにしても、まあその握手に全然力が込もっていない事。最早手は添えているだけで、力はミゲルしか入れていないように思える。
それを感じ取ったかどうかは知らないが、握手は割かし早く切り上げられた。
これにはあの仏頂面な龍樹がもう少し愛想良くした方がいいのではないかと心配するほどであったが、
「ごめんなさい龍樹」
突如アテナが謝った。それが一体何の事に対しての謝罪なのかは全く分からない龍樹は目を丸くする。一瞬自分に放ったものではないかとも考えたが、少なくともこの場に日本語が分かるのは龍樹だけであり、現に彼女が口にしたのは彼の名だ。
アテナは意味が分からず瞼を瞬かせる彼へと続けざまに言う。
「明日は街へ一緒に行けないわ」
早すぎる前言撤回に面食らう龍樹。しかし彼としてはそもそも手伝ってもらうこと自体が申し訳ないので、異論など唱えられる訳が無かった。
「ああ……気にするなよ」
なぜ急に駄目になったんだろうという疑問を腹に抱えつつ、そう気を配る龍樹。
果たしてその言葉は届いたのかどうか。
横で立ち尽くすアテナの碧眼には、なぜかミシェル達と談笑する新参者が映っている。




