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妖美なるこの世界  作者: 桂馬
イタリアの闇達
118/261

小さな決意 と大きな失態

芸術の街イタリア。世界遺産や歴史的建造物が多く、パスタやピザ発祥の地で靴の形をしている。

あまり頭がよろしくない龍樹が知っている情報は精々その程度だ。

そもそも自分が海外に出向く事なんてそうそう無いだろうと思っていたし、イタリアに来る可能性なんてものはゼロに等しかったはず。

だが今、間違いなくそこにいる。

アテナが現れたのがそもそもの原因だろう。

日常を送っていた人間の元に謎の女が現れて、やれ裏世界だの、やれ悪魔だの

 人生は分からないものだなんてのは最早常套句のようなものだが、しかしそれにしても分からないものだ。

 こんな形でイタリアに来るだなんて、きっとどんな天才でも予想できない。

 そんな事を考えながら龍樹は街をぶらつく。

 進路ははっきり言って適当だ。己の直感を頼りに街を練り歩く。もちろんここが未知の土地であるという点は忘れていない。その為に前もってアルファーノ宅の住所は教えてもらっているので、例え迷っても携帯のナビを使えば帰れるという寸法だ。

(……それにしても)

 川に沿う形で歩いていた龍樹は何かに気づく。気づくというよりも、本人がそう感じた。

 すれ違う人々がこちらを見ている様な気が、なぜか龍樹にはした。

 一体全体何だろうかと考える。思い過ごしだと自分に言い聞かすが、実は先ほどから何人かの人間と眼が合っている。

 もしかして日本人が珍しいのかもしれない。いやだが、コロッセオに行った時にも何人か邦人は居たような気がするし、その時は他人の視線が気になるなんて事は無かったはずだった。

 イタリアに滞在して早四日。

 普通なら慣れていくであろう海外という感覚が、だからこそ痛烈にイタリアという国の様式を彼へと刷り込んでいく。

 居心地の悪さを感じる龍樹。

 一刻も早くこの場を離れようと、その足も自然と速まる。

 とにかく人の目から逃れたかった。内にある本能的な感覚に従い彼は行動をしていた。

 見慣れない街を感覚だけで動くものだから、やっと落ち着ける場所に来れたと思った所で龍樹は立ち止まる。

 何とか人通りの少ない場所に行き着いた。

 石で造られた建物は大きく佇み、夕刻の準備をする太陽により影を落とす。

 よく分からない雑貨を売っている店やコーヒーショップ。日本で言う所の雑居ビルのようなものが立ち並び、何やら不気味な色をした卵みたいなものが店先に並んでいる。どうやらここはイタリアの下町的な場所のようだ。

 しかしどうだろう。

 確かに人目が少なくはなったが、ゼロではない。むしろ分散されていた視線が集中して、より一層彼を意識しているであろう事が窺える。

 直感的にチンピラだと思った。他の人間とは違う身なり。チケットのようなものを持っているという事は客引きか何かだろうか。

 安そうなスーツを羽織った男の姿が端々にいる。

 通行人に声を掛けるも無視されてしまう男。仲間らしき人間と喋っている男。階段に座り込み、獲物を物色している男。

 その誰もが、迷い込んだ龍樹に眼をやった。

 見つけたと言わんばかりに彼の元へと近寄ってくる。

 逃げなきゃまずそうだと思うが、身体が思うように動かない。

「ヘイ、ジャパニーズ?」

 結局声を掛けられた。

 早足で歩み寄ってきたかと思えば、いきなり目の前で立ち止まり、何かを言ってきた。

 聞き覚えのある単語。お前は日本人かと聞かれたようだ。

 驚き固まる龍樹。遅れてやってくる恐怖感。男性は未だに何かを喋り続けている。

 耳や鼻にピアスを空け、細身ながらも高身長な男のまくし立てるような物言いは、少年と呼ばれる齢の龍樹には怖さしか無かった。

 ルールでもあるのか他の連中は先を越されたかと言わんばかりに悔しそうな顔をして立ち止まっている。

 だが一向に他へ行く気が無い。一瞬助けてくれるのだろうかと淡い期待を抱いた龍樹だが、すぐにそんなはずはないと切って捨てる。

 闇を湛えた目で脚をゆすっている様は、きっと順番待ちでもしているのだろうと、不安は更に膨らんでいく。

 友好的な笑みを浮かべる男は何のものかも分からないチケットを五枚ほど差し出しながら、日本ではお馴染みのアニメキャラクターの名前を連呼してくる。

 きっとこうやって親近感を持たせて買わせようとしているのかもしれない。

 もちろんそんなもの買う気は毛頭無い。

「ノーマネー。ノーマネー」

 拙い英語で、それでも何とか逃げようとする龍樹。

 怒らせては駄目なので笑顔は崩せないが、早足でこの場を後にしようとする。

 しかしイタリアの客引きの、まあしつこい事。

 男を振り払ったかと思うと、次の商人が。それも振り払ったかと思えば、また別の人物が。

 いくら足を進めようとその波が途絶える事は無い。

 時計に始まり、ペンダントやネックレス。最早用途すら分からない物品まで勧めてくる連中。

 他の通行人も見て見ぬ振りをしている。助けるどうのこうのよりも、こちらではこれが当たり前の行為なのかもしれない。

 いずれにせよ日本人というのはこうまで舐められているのだろうかと、龍樹は不安を募るばかりか、少し腹立たしい気持ちにもなった。

 初めての海外で痛感させられた現実とアイデンティティ。

 気弱な日本人というのがここまで不便を働いていたとはと、龍樹は最終的にがっかりする。

 そんなこんなで、また次の試練がやってきた。今度の男は黒人だった。明らかに喧嘩腰だ。

 きっと怯えている彼を見て高圧的に行こうと考えていたのだろう。

 これじゃ本当のカツ上げだ。

 言葉が分からないようでは文句も言えない。

 何せ相手は身長二メートル近くある男。恥ずかしい話、脚が少しだけ竦んでいた。

 自分の弱さが嫌になる龍樹。

 迫ってくる大男。見知らぬ顔をする周囲。日本では見ることが無いであろう街並み。

 目に見えるもの全てが怖かった。 

 自分が住んでいた国がいかに平和かを実感させられる。

「ちょっといいかな」

 近づいてきた大男が何かを言ってきた。分かるわけ無いだろと内心で愚痴りながらも、こうなりゃ強行突破だと、龍樹の中で何かが弾ける。

「ノーセンキュー。ノーセンキュー。アイムイタリア語ノー!」

 あははははははと笑いながらやけくそ気味にそう言うと、龍樹は踵を返し、その場から全速力で逃げ去った。

  


「ふう」

 壁に手をつき一息。

 どうにか押し売り商人たちから逃れた龍樹は人通りが緩やかな場所にたどり着く。

 先程は人気のない場所と思っていたが、あんな群がり方をされては、ある程度人がいないと不安になる。さっきの調子だと結局この国には安全な場所など無いかもしれなかったが、流石に連中も全く人目を気にしない事も無いはずだと龍樹は踏んだのだ。

(最悪ここだと大声を上げればすぐに誰かが飛んでそうだしな)

 齢十七にもなって我ながら情けないと思う半面、仕方ないだろと思う部分もある。あんな体格の良い男に詰め寄られたら、こんなやわな日本人は一たまりも無い。

 そんな風に自己を弁護すると、龍樹は改めて今自分がいる場所を確認する。

 当てもなく走ったものだから此処がどこかだなんて分からない。ただ、近くには川があって、きっと先ほど目の前に広がっていた川と同じ脈だろう。

 そこで気づくが、遠目ではあるものの壊れた橋が窺える。無我夢中で走っていたので気づかなかったが、どうやら反対側に来てしまったようだ。

 携帯で何気なく時計を見る午後四時三十分。

 皆と別れてから何だかんだで一時間以上経過している。

「はあ~。勿体ねえなあ」

 堤防に肘をつき、ため息を吐く。

 せっかく外国に来たというのに、特にやる事も無い。

 アテナ達とイタリアを回った時はこんな風に気分が落ちることも無かった。

 思えばあの時だって他人に流されていたのだろう。結局一人きりになればこのザマだ。何をすればいいのかが分からず、また世の中に愚痴を零す。

 よくテレビで夢を叶える為に留学するだの働きにいくだのいう話を聞くが、こうして考えてみれば凄い事だと龍樹は思う。

 旅行にしてもそうだ。色々と計画を立ててその地特有の風物を楽しむ。計画を立てないにしたって、こうも環境が変わると自身に何らかの感情が沸き、自ずとそれは行動に繋がるはず。

 龍樹の中では、その気配が全く無かった。

 普段から感じてはいた事だが、あまり気にしていなかった部分もある。

 しかし改めて自分を見つめなおしてみると、本当に勿体無い気がした。

 こうしている今だって着々と死に向かっているというのに。

 一体全体自分は何をしているのだろうかと。

 観光やらで賑わうイタリアの地を背景に、道を定め歩く皆が妬ましいと同時にすごいと、龍樹はもう一度嘆息つく。

 (……まあ自分がだらしなさ過ぎるだけの話なんだろうけどな)

 間違いないだろう。これも結局逃げなのだ。凄いだなんだの周りを評価することで、前に進んでいるフリをする。

 こんなんじゃ駄目なんだろうなと思うもののやはり、ここも例に漏れず思うだけの龍樹。

 そもそも十何年培ってきた考え方を変えるだなんて、生半可な努力では駄目だろうなと、心のどこかで落ち着きを探す。

「ねえねえお兄ちゃん」

 ふと、たそがれる男に声が掛かった。

 そちらを振り向く。見れば小さな子供が服の裾を引っ張っていた。

 少年ともいえない男の子。身長が龍樹の腰ぐらいのその子は、何かを訴えかけるように彼の顔を見上げている。

「……何か用か?」 

 ここでも当然のように言葉が分からなかった龍樹は日本語ながらもそう問う。向こうも幼いとはいえ、イタリア語が通じないというのは理解しているようだ。

 身振り手振りで、何かを伝える。

 子供は道路を挟んで向こう側にある樹に指をさし、早口で何かを言っていた。

 それだけでは龍樹の脳味噌は理解できない。

「あの樹が……何だってんだ?」

 子供の前だろうと、存分に眉を寄せる龍樹。傍から見れば機嫌が悪そうで近寄りがたそうだが、イタリアの子供達には関係ない。

 ぐい、と龍樹の手を掴んだ男の子。何事だと気づいたと同時、結構な力で彼を樹へと誘導しようとする。

「おいおい危ないぞ」

 プ―――ッッ! という大きな音。前を通ろうとする車が、無作為に道路を横断しようとする彼らに対し、危ないとクラクションを鳴らしたのだ。

 龍樹は反射的に子供の身体を逆に引っ張り避難させる。

 車に乗った眼鏡を掛けた意地の悪そうなおばさんはサイドガラス越しに龍樹を睨み、何かを喚きながら前を通り去っていった。

「何だよ。あんなに怒んなくてもいいだろ」

 内心焦りつつも、遠のいていく赤い軽自動車を見ながら愚痴る龍樹。

 実際に子供が飛び出してくればびっくりしてあれぐらい怒るのも当然なのだが、運転をしたことが無い彼にはいまいちぴんと来ない。

 ともあれ、今度は車の通りがないと確認するや否や、

「ちょ、だから何だってんだよ」

 男の子はまた龍樹の腕を引っ張り、道路を渡ろうとする。

 何が何だか分からないが、安全を考慮するととりあえず付いていったほうが良さそうだと判断し、龍樹は彼に付いていく。

 半ば強引に樹の下に連れてこられると、今度は樹の上を指さす男の子。

 その指の先に自然と目を向けると、

「……あれか」

 なぜ男の子がここに連れてきたかったのかが判明する。

 見れば、何の変哲もない赤い風船が木に引っ掛かっている。ようはあれを取って欲しいという事なのだろう。

 男の子は不安そうな眼で龍樹の顔を見上げている。訴えかける眼は藁にも縋る様なその思いを反映しているものなのだろう。

「……よし」

 そう期待されては仕方がない。腕を捲くり、気合を入れる龍樹。先ほどまで自分という存在に疑問を抱いていた手前、子供とはいえ自分を必要としてくれた事がちょっと嬉しかった。

 足の取っ掛かりが少なく上りにくそうな樹だが、これは何が何でも成功させねばと意気込む。

「待ってろよ。俺が絶対にあの風船を救ってやるからな」

 伝わらないと分かっていても、男の子にそう宣言する龍樹。十七歳にもなって樹登りだなんて恥ずかしいが、ここは異国の地。あの子はいい歳して樹に登っていたと噂する人間がいた所で、何ら問題はない。

 樹のわずかなおうとつに脚を掛ける。高さはおよそ十メートル。結構な距離だが、よほど悪い落ち方をしない限り大怪我をする事はないだろう。

 しかし龍樹自身運動神経はあまり良くない方。痩せ型なので身軽なのが救いだが、五メートル程を登りきった所で握力が危うくなった。

(が、やばい。手が離れそうだ)

 歯を食いしばり、それでも何とか上へと進んでいく。普段の彼なら辛くなった時点で引き返していただろう。ただ、今は違う。あの小さな子供は他の誰でもない自分を選んでくれた。樹登りが得意そうな人間は他にもいたであろうに、他ならぬ自分を。

 そんな彼の気持ちを踏みにじってはいけない。

 その想いだけが今の龍樹を突き動かす原動力になっていた。

 しかし現実はそう甘くない。

(ぬおぉぉ……あと少しなのに)

 歯をかみ締め、苦しさから表情を歪ませる龍樹。握力はすでに限界に達していた。後たった一メートルなのに手が届かない。ジャンプをすれば届きそうな気配もするが、今の彼にはそこまでの余裕もない。

 ここでまた悪い癖が出る。

 もう頑張ったからいいじゃん。自分がやれる事はやった。ごめんなと謝ってこの場を去ればこんな苦しい思いをしなくても済む。

 もしあの子供に哀れみを覚えるのなら誰か他の人を見つけてあげればいい。

 それが最良の策だろうし、背伸びしなくていいじゃないとはアテナにだって言われた事だ。

 きっと誰かがこの問題を解決してくれるはず。

(ってまた俺は他人頼みかよ)

 力が無いのはしょうがない。風船を取るか取らないかだなんてそこまで重要な問題でもない。

 だが、なぜか龍樹は諦めたくなかった。

 本人にもよく理由が分からなかったが、どうしてもあの風船は取りたかった。

 ここ最近はいかに自分が無力なのか見せ付けられる機会が多かった。その体験が心のどこかでくすぶっているのかもしれない。はたまたどこかの誰かのように凄い事をやってのけてちやほやされたいのかもしれない。

 いずれにせよ風船を取るというのは決定事項。

 例えこの身が果てようとも、必ずや成し遂げて見せる、大義の様なもの。

 なんて。

 そんなものは、明らかに大げさというものだ。

 これはそこまで大層なものではない。風船を取れなかった所で別に死ぬ訳じゃないし、誰かに咎められる訳でも、もちろんない。

 風船を取る為に生まれてきた訳でもないし、頼まれた子供に何かしらの恩を感じている訳でもない。

 だからやっぱり、龍樹はただ何となく思っただけなのだ。

 世の中には己の全てを賭けて生きている人間だっている。それに比べればこんなもの屁でもない。

 もう少し頑張ってみるか、と。

「うお、やっばっ――!!」

 ついに握力が無くなり、落ちる龍樹。高さが結構あるとはいえ、まあ体勢をそれなりに整える程には彼も運動神経はあるだろうから、大丈夫だろう。

 アテナ達と同じような真似は自分には出来ない。銃を持っていたり見るからに対格差がある相手を叩き伏せる事なんて不可能に近いし、他の為に命すら張るなんてとんだクレイジー野郎だ。

 だけど、ちょっと憧れも覚える。

 世界の秩序を守るだなんて漫画みたいな話を、現実でやってのけようとする連中。

 彼らには世界がどう映っているのだろう。そしてそれを見た上でどんな感情を抱くのだろう。

 日常をなし崩し的に消化してきた少年からしてみれば想像もつかない彼らの心理。

 その世界の住人であるアテナの言葉が脳裏を過ぎる。

 ――やりたいからやるの。

 なんとわがままで自分勝手な言葉だろうか。

 しかしそれを堂々と言ってのける芯の通った考え。

 ああいうのを人生が充実しているというのだろうか。

 近くまで迫っていたはずの風船は段々と遠のく中、暢気な龍樹は落下しながらそんな事を思うのだった。

 


「ほら、取ってやったぞ」

 激闘のすえ手にした風船を、子供に手渡す龍樹。

 あの後結局二回ほど落ちたが、徐々に要領をつかみ何とか取る事に成功した。途中物好きなイタリア人が茶化しか応援かは知らないが何かを言ってくる一幕はあったが、ここは所詮異国の地。何を言われようが、それは一時的なものだ。

「ありがとう。お兄ちゃん!」

 眼を輝かせながら、笑顔で語りかけてくる男の子。言葉が通じなくても、それがお礼を言っているのは龍樹にだって分かった。

「ああ。いいっていいって」

 手をひらひらさせクールに勤める龍樹。そもそもそんな大それた事はしていない。しかし、図々しいかもしれないが人助けをしたという実感はある。

 これまで溜まっていた心のモヤモヤが少しは取り除けた気もする。

 何よりも目の前にいる子供の笑顔。

 それを見ると、こんな自分でも役に立てたんだなと龍樹は充実感と共にやっぱり大げさだと恥ずかしくもなる。

「ありがとう! ありがとう! ありがとう!」

 よほど風船を取って貰ったのが嬉しいのか、男の子は龍樹に抱きつき、感謝の言葉を何度も何度も口にする。

「おいおい大げさだな。風船を取ったくらいで」

 と言ったものの、悪い気はしない龍樹。

 いやそれにしてもどこの国でも子供は可愛いものだ。風船一つでここまで喜怒哀楽を示せるのだから、単純と言うか無垢というか。

 きっと大人になっていくにつれこういう感情は薄れていくんだろうなと、龍樹はしみじみと感じる。

「ありがとう! ありがとう! ありがとう! ありがとう!」

 いまだ感謝の気持ちを示す男の子。気持ちは嬉しいが、流石にここまで過剰にされると逆に申し訳なくもなる。

 なので、そろそろ止めさせようかと手を伸ばす。

「はいはい。ありがとよ。もう十分わかったから」

 子供の背中をぽんぽんと叩き、離れるよう促す。それを受けてようやく子供は龍樹から離れた。

 相変わらずの笑顔だ。やんちゃなのか掠り傷の様なものを顔に作っている子供は、そのひまわりのような表情で助けてもらった龍樹の方をひたと見据えている。

 こうなってくると、あの風船はどれほど特別なものなのかさえ気になってくる。

 子供は今度は言葉ではなく、行動で示した。これまでで飛びっきりの笑顔を見せる。それは何よりの恩返しだ。

 その屈託の無い笑顔に、逆にこっちも元気をもらう。

 屈託のない笑顔に、はにかみで返す龍樹。それを見ると子供は、踵を返し走り去っていった。

 人混みの中に紛れていく小さな背中。イタリアの街はまだ明るい。もうそろそろ十七時に差しあたる時間帯だが、人の流れが途絶える気配は無い。

「……さて、そろそろ戻るか」

 子供を見送った後、そう呟く龍樹。ミシェル達と別れておよそ二時間。帰っているかどうか微妙な時間だが、これ以上うろうろするのも疲れる。

(……ん?)

 とここで、ある違和感が彼を襲う。

 それに気づいた龍樹はズボンのポッケを手で探り始めた。そんなはずはないと今度は服も探ってみるが、やはり無い。次に辺りを見渡す。轢かれそうになった道路付近や、動きまくった樹の周りを確認するが、やっぱり無い

 判明した衝撃の事実に龍樹の顔が青ざめる。

 ポッケに入れていたはずの財布が、無くなっている。

 最後に見たのは屋台でジュースを買った時だ。となると無くなったのはその後、つまり街並みを眺めていた時か、押し売りから逃げた時。

(……いや、そんな風に都合よく考えるのはやめよう)

 彼にだって、本当は分かっている。思い出を美化したい訳ではないが、やっぱり信じたくはない。

 あれだけ気をつけていたのに。あれだけ注意されてたのに。まさか自分の身にそんな事が起こるだなんてと、カルチャーショックを隠しきれない。

 きっとさっきの子供だ。

 風船を取ってもらい抱きついてきた時に盗られたのだろう。

「……最悪だ」

 空になったポッケを裏返し、嘆く龍樹。日本人というだけでここまで舐められているのかと再度悲観する。

 いや、狙われやすい見た目だから悪いのだろうと、やり場のない怒りは結局自分に向けるしかない。

 全くと言っていいほど知らない地理。樹登りによる体力の消耗。人ごみがそれなりにある観光地。すでに影すら見えない子供の姿。

 最早追いかける気力もない。

 何も知らない異国の地で、結果的に無一文になってしまった龍樹。こんな事になるのならケチらないで使えば良かったとさえ思う。携帯を盗られなかったのはまだ救いだ。これで迷子になろうものなら、生き恥もいいところ。

 親切にしてあげたって、所詮それは自己満足でしかないという事なのだろうか。

 財布を盗まれた事よりも世の中の理というものにショックを覚える。良い事をしようがうまくいかない。分かってはいる事だが、やはり歯がゆい。

 大きな樹の下で沈む龍樹。そんな彼の前を、仲の良さそうな家族やカップルが通り過ぎていく。当たり前だが誰も財布を盗られた哀れな少年の心配などしている様子は無い。知らないというのもあるだろうが、知った所で所詮は他人。見ず知らずの人間に構えるほど、皆も暇ではないだろう。

 いまだショックを隠せない彼をあざ笑うかのように清々しい風が吹く。仕舞いには自治体の防犯対策か、スリには気を付けましょうと言うアナウンスを流すパトロール車が彼の前を通り過ぎていった。

 イタリアの陽気な空の下。

 まあ現実なんて、こんなものである。

 

 ◆     ◆


 そよ風が身体を叩く。その度に傷は痛み、意識が徐々に攫われていく。

 だがまだ痛みを感じられるから良かったのかもしれない。

 僥倖により絶望的な状況から脱し、何とか現場から離れた場所へとやってきたミゲル。民家の庭にある衝立に背を預け、治癒に努める。

 満身創痍だった。車が雑木林に突っ込んだ際の衝撃で肋骨が折れているのかも知れない。その痛みから正直ここまでの道のりもよく覚えておらず、人の目を気にしてきたつもりだが、果たしてうまくすり抜けられただろうか。

 右足も痛み、まともに動けなかった。服で抑えたお陰か頭の出血は治まったみたいだが、傷口が塞がった訳ではないだろう。全身打撲に軽い脳震盪。早く手当てしなければならないのは間違いないが、流石に今の状況で病院に行くのは厄介だ。 

 こうなるまでの経緯はもちろんの事、下手をすれば自分の身分だってバレるかも知れない。

組織の連中が嗅ぎ付けないとも言い切れない。ここら一帯はカッサロー二の庭のようなもの。その辺りの有力者だって取り込まれている可能性だって無いとは言い切れない。

「……くそ」

 痛みから意識が飛びそうになる。とりあえずここにいればしばらくは見つからないだろうが、今後はどうしようかと考える。

 これまで何かあれば戸籍を変えて国を跨いではいたものの、それらは全てカッサロー二という後ろ盾があって初めて実行できたもの。

 敵となった以上、その術はもう使えない。衣食住だってそうだ。今住んでいるボロアパートもカッサロー二が用意したものだし、手回しの早いあの男の事。すでに部屋は押さえられているだろう。

 今手元にあるのはカッティスから奪った銃と現金百ユーロ二十セント。契約者がカッサローニ名義の携帯電話は途中で捨てた。GPSで追跡される可能性がある為だ。

 現金を取りに帰ろうにも先の問題があり、もちろん女遊びで使った金が何らかの手違いで銀行に戻っている訳も無いだろう。

 百ユーロちょっとではホテルにも泊まれやしない。身に着けている貴金属でも売ろうかと考えたが、それも微々たる物にしかならないだろう。

 そこまで考えたところで、ミゲルはその問題を一旦脇に置くことにする。

 今はとにかく傷の治癒が最優先だ。確かに痛みはあるが、そこまで重症ではないだろう。一眠りすれば随分と楽になっているはず。

 そう推測すると、ミゲルは横になった。下は芝生なので少しばかり身体がチクチクするが、この際贅沢は言ってられない。

 横になるとすぐに意識が途切れる。眠るというよりも気絶に近い感覚。身体全体が警戒信号を発し、細胞の再生、修復を促す。

 大の大人が人様の民家裏で寝転び睡眠を取る。フレンドリーな気質の人が多いイタリアとはいえ、あまり見れない光景だ。

 そんな彼に迫る影が二つあった。

 女一人に子供が一人。買い物の帰りか、大人の女性の手には大きなビニール袋が携えられ、子供の方もお手伝いかバックを腕で抱えている。

 恐る恐るといった具合に近づいた彼女達。

 頭から血を流し倒れこんでいる男を見て怖がっているのか不思議がっているのか、目を丸くしている。

 彼としても細心の注意を払ったつもりだった。しかし、やはり朦朧とする意識ではそれにも限界がある。

 きっと茂みか何かを通る際の音を聞きつけたのだろう。

 あろう事かこの家の住人に、

 無防備な状態でミゲルは見つかってしまった。

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