日常の裏側
ティベリーナ島
午後三時四十分。
暇を持て余した龍樹は、ぶらり旅気分そこにいた。
大きな川の中洲にあるこの島もちょっとした観光スポットのようで、島の先端からは壊れた橋がそのままに残っているのが窺えた。
先ほどから何人もの人が写真を撮ってはそそくさと退散していく。
そんな光景をぼーっと眺める龍樹。それから改めて橋を見てみる。大きな橋だ。なぜこんな姿になってしまったのかはもちろん知らないが、こういった歴史的建造物が街中に無数あるのは流石イタリアと言った所か。
何にしても滅多にお目にかかれる光景でもないだろう。
せっかくだし、と龍樹も携帯を取り出す。カメラ機能にし、一枚パシャリ。
上手く取れたかどうか、確認する。
(う~ん……)
出来はいまいちだった。ほぼ真下なので別にアングルが悪い訳ではないのだろうが、迫力が全く足りていない。これじゃあまだネットの写真とかの方が断然綺麗だろうし、そもそも誰に見せるのかが疑問である。
柄にも無い事をした、と写真が気に入らなかった龍樹はそれを削除する。
携帯をポッケに仕舞うと、これ以上ここにいても仕方がないと歩き出す。
それがまた苦労するところで。
「あいててて……」
数歩進むたびに、顔を歪ませる龍樹。典型的な筋肉痛だ。恐らくは昨日のアスレチックがいけなかったのだろう。普段運動もしないのに無茶するからだよと、昨日の自分に愚痴を零す。
「……とりあえずどっか座るか」
なんて、ヨボヨボのお爺ちゃんみたいな事を言う龍樹。橋を渡った所で屋台を見つけると、手間取りながらもジュースを購入。ぜんぜん頼んだものと違うような気がするが、目的はあくまで店が広げている椅子。そこに腰掛けたかっただけなので、まあ良しとする。
「ああ、今着いた」
ふと耳に入った声。
龍樹は何気なくそちらを見る。昼過ぎである今の時間帯は結構込んでいるので相席状態。その男も、丸型机を挟む形で隣にいた。
サングラスを掛けアロハシャツ。なぜか先ほどから辺りを気にしながら電話でやりとりをしている。
言葉は当たり前だが外国語だ。腕には高そうな時計に、首からは恐らく金であろうネックレスが伸びている。
(……有名人か何かかな?)
ジュースを飲みながら横目で彼を見る龍樹。
ちなみにジュースはマンゴージュースのようで、味は上々だ。
机の上に置いてある飲料には目もくれず、男は割かし小さな声で通話をしている。
しばらくすると。
男は席から立ち上がった。まだ半分以上残っている飲料を置き去りにし、電話片手にどこかへと向かう。
龍樹はその行方を何となく眼で追う。
男が歩み寄ったのは、見るからに高級そうな外車――本場ではそう呼ばないのかもしれないが――だ。
後部座席からはスーツ姿の男が出てきた。歩み寄ってきた男と二、三話すと、後部座席の真ん中に座るよう指示している。
促され乗り込む男。
見れば運転席や助手席の人間も皆スーツを着ている。高級車に整った身なりという大層なお出迎え。そこから窺うに、やはり一般人ではないだろう。
セレブがこんな所で一人ジュースを飲んでいるだなんて。
流石海外スターは開放的だな、と真実を知らない彼は思うのだった。
一方そのころ車内では。
「出せ」
低く、唸ったような声。
後部座席にいる男から言葉を受けると、運転手の男は車を発進させる。
位置取りは後部座席に三人、運転手、助手席を合わせると、全部で五人だ。
ミゲルは後部座席で二人に挟まれる場所にいた。
厳かな雰囲気に緊張しつつ、辺りを再度確認してみる。他の連中とは顔を見た限り面識が無かったが、左側にいる男は知っている。アルバーノ・カッティス。頭が切れ、非道で残酷。極度の潔癖症で、今もしきりにハンカチで手を拭いている。実質カッサロー二に次ぐナンバー2の地位を築いている男だ。その信頼は厚く、カッサロー二が大まかな指示を出せば後は全て一任されるという話だ。
しかしミゲルは不安だった。
カッサロー二本人がいない。
彼としては一刻も早くカッサロー二と話をして、今後の幇助を取り付けたい。なのにわざわざこれだけの人数で出迎えるだなんて、何かがおかしい。
最も気になるのはこの空間だ。
ピリピリと張り詰めた空気。皆一言も発さず、法廷速度を守る車は着々と目的地へと向かっていく。
それがより一層ミゲルの不安に拍車を掛ける。
ついに耐え切れなくなり、
「カッサローニは一体どこにいるんだ?」
カッティスへと思い切って訊いてみる。いつも取引の際はカッサロー二の傍で立ち尽くしていただけの男。実はこれが初会話だったのだが、
「うるさい黙れ」
帰ってきたのは最悪の返事だった。
一体全体どういう事だ。これが客人に対しての言葉かと、ミゲルは不満すら覚える。
そして今の発言が不安を一気に押し上げる。
もしかすれば保護をするという話は嘘でないかと、内心焦り始める。
「おい、話が違うぞ。本当に俺を守る気が――」
「黙れと言っているだろ! ぶっ殺されたいのか!」
怒鳴り声を上げた、次の瞬間。
ミゲルのこめかみに冷たい感触があった。
「お前が逃げた精でこっちは迷惑しているんだよ。大人しく殺されてればいいものを手間取らせやがって。本当は今ここで脳みそ撒き散らしてやりたい所だが車が汚れちまう。ちゃんとした死に場所を用意してあるから精々思い残しがないよう拝んでおくんだな」
反射的に手を上げるミゲル。刺激しては駄目だと直接ブツは見えないが、きっと今自分のこめかみには拳銃が突きつけられている事だろう。
半ば興奮状態のカッティス。
どうやら本心を表したようだ。
ミゲルはすぐに状況を理解した。
彼らは助けに来たのではなく、むしろ逆。
実に原始的で分かりやすい。
飛び火対策と口封じのために。
カッティス達はミゲルを抹殺しにきたのだろう。
「――」
顔を青ざめるミゲル。言いたい事は山ほどある。しかし拳銃を突きつけられているとあってはどうしようもない。どうにかして逃げ出せないものかと考えるが、左右が塞がれていてはそれも出来ない。
完全に追い込まれた状態だ。
そうこうしているうちにも、車は段々人気の無い道へと進んでいく。恐らくすぐに撃たないのは人目を避けたいという理由もあるのだろう。
という事は、人目の無い場所にまで連れて行かれてはもうおしまい。
非道なその男に命乞いなんてものは通用しないし、人っ子一人殺すのに躊躇いも生じないだろう。
考えれば考えるほどまずい。
しかし銃を突きつけられているプレッシャーからか、思考がうまく回らない。
人間とは面白いもので、変わりに浮かぶのは今はおよそどうでもいいことばかりだった。
ここで俺の人生が終わってしまうのかだとか、ろくでもない最低な人生だっただとか、結婚して子供の一人や二人作ってせめて平凡な家庭でもささいな幸せを築きたかったという青い理想すら抱いてしまう。
それもまた随分と虫が良すぎる理想だと、ミゲルは投げやりにさえなった。きっとこれは天罰なのだ。これまで自分がしてきた事に対してのツケがこういう形で返ってきた。ただそれだけの話なのかもしれない。
ネガティブな事ばかりが頭を過ぎる。
こんな事になるのならまともに生きれば良かったと、最早遅すぎる後悔。心のどこかではいつかこうなるのではと分かってはいた。だからこそ足を洗おうとしていたのだが、どうやら手遅れのようだ。
自責の念が、堰を切ったように次から次へと溢れ出す。
彼の反省も空しく、車はどんどんと南の方へと下っていき、気づけば左右に雑木林が広がり、人気が全く無くなってしまっていた。
いよいよ窮地に立たされたミゲル。死を予感する彼の身体からは大量の汗が噴出す。
本当にもう手段は無いのだろうか。死という恐怖に思考を蝕まれながらも、今一度それだけを考える。
だが思い付く訳もない。銃を突きつけられているどうのこうのよりも、前提としてその権限は親元であるカッサロー二にある。その本人がいないのだから、交渉のしようも無いのだ。
どうにかしてカッティスを取り込めないかと模索はしてみたものの、この男のボスに対しての忠誠は固いと聞いている。そもそも苛立ちを覚えるほぼ初対面の人間に持ちかける案件などそうそうあるまい。
となるとやはり、積みだ。
考えれば考えるほど道は塞がってしまう。
前かがみになり、息を吐くミゲル。
その様子は恐怖を通り越し、最早落ち着いてさえいた。
もう駄目だ。どう転んでも自分は殺されてしまう。このまま山奥に連れて行かれて、銃で殺され土にでも埋められてしまうのだろうと、やけにリアルな情景を思い浮かべる。
そして頭を抱え、目を瞑り諦め掛けていた、その時だった。
「もしもし。俺だ」
カッティスが、誰かと連絡を取り始めた。これに反応を示すミゲル。拳銃は相変わらず突きつけられたままだったが、この時ばかりは意識が逸れている。
「目標を連れてそちらへ向かっている。今はもう雑木林の辺りで後十分もすれば着くと思う。お前達は準備を進めておいてくれ」
チャンスはここしかないと思った。
カッティスの腕から拳銃を奪おうと意を決するミゲル。銃口を向けられている現状を考えるとリスクはそれなりにあるが、何もしないよりかはマシなはずだ。
そう思い至り、ミゲルはカッティスの腕から拳銃を奪いとろうとする。
そして未だに耳に当てた携帯に意識を持っていっているカッティスの左手に、ここぞと自分の中で踏ん切りをつけたミゲルが、まさに手を伸ばそうとしたその時。
突如、車体全体が揺れた。
「うお!?」
車内が驚きで包まれる。運転手も必死にハンドルを戻そうとするが、制御の利かなくなった車は最早止まらない。
車道を飛び出すと、雑木林の中へと盛大に突っ込む。
バキバキと木々を薙ぎ倒しながらも前進する車は、一際大きな樹にぶつかり、ようやくその運動を止める。
「が、くそ……一体どうなってるんだ」
訳の分からない状況に、怒りすら覚えるカッティス。いまだ繋がっている携帯の向こう側からは現場にいる人間よりも切迫した声が聞こえてくる。
その声をひとまずは無視し、どうにか状況確認を行う。
車が制御を失う前に、タイヤが破裂したような音を確かに聞いた。
となるとパンクでもしたのだろうかとカッティスは考える。
車通りが少ないので道が悪くないとも言い切れない。落ちていた釘でも踏み、タイヤに穴が空いてしまったのだろうか。
それを確認するためだろう。後部座席にいた仲間の一人が、へこんで開きにくくなったドアを蹴破り、外へと出ていた。衝撃はかなりのものだったので無傷ではない。彼の場合は頭を打ちつけてしまったらしく、首を傾げたままだ。
そして彼がタイヤにナイフらしきものが刺さっているのを見つけると手を伸ばそうとした。
「何だこれは」
次の瞬間。
ドス、という鈍い音がした。
鋭利な何かが肉に突き刺さる音。手を伸ばそうとした体制のまま、男は前のめりで倒れていく。
何の抵抗もせず、地面に突っ伏す男。その露になった背中にはナイフが刺さっていた。そんじょそこらにあるただのナイフではない。用途としては武器として位置づけられているダガー。そんな禍々しい代物が、仲間の男の背中に突き刺さり、自然が生み出す緑を赤に染めていく。
「二コル!」
仲間の名前を呼ぶが、返事はない。運転手は運転手で相当な痛手を負ったらしく、作動したエアバッグに身体を預けたままぴくりとも動かない。死んではいないだろうが、意識を失うほどの重症か。
「くそ!」
なぜタイヤがパンクしたか、なぜダガーが飛んできたのか、不可解な現象の正体は相変わらず分からない。
しかしこれで確信した。自分達は今狙われているのだ。
カッティスはすぐさま辺りに人がいないかを探す。
だが見当たらない。鬱蒼と茂った雑木林の中では、例え居たとしても見つけるのは困難だ。
一瞬、車の中に居たほうが安全かどうかを考えたカッティス。弾き出された答えはNOだ。
こんな狭い空間で万が一にも詰め寄られてしまえば、それこそ逃げ場などどこにもない。
咄嗟にそう判断すると、カッティスは勢いよくドアを蹴破った。出た所を狙われないよう素早く外に身を投じると、一際大きな声で叫ぶ。
「誰だ! 目的は何だ!」
不安はそのまま声に変換された。
姿が見えない以上、あまり相手を刺激するような行動は避けなくてはならない。その一環としての呼びか掛け。
これに答えるか答えないかで、相手の素性はあらかた探れる。
「まいった。降参だ。話合いが望みなら素直に応じよう。何だったらそちらの用件も聞いてやる。だからとりあえず姿だけでも見せてくれないか」
交戦の意思はないと、手を上げる。その上げた手にある銃を離すほど彼も誠意を見せる気はないようだが。
その後も聞いただけで嘘と分かるような言葉を叫び、見えない誰かに訴えかけるカッティス。
しかし返事は一向に無い。遠い所で鳴く鳥や風で揺らぐ草木達が、やけに浮世離れした印象を与えてくる。
「……」
辺りを見渡し、何か変化がないかを探るカッティス。
些細なものでも何でもいい。
敵からは見えているのにこちらからは見えないだなんて、こちらが圧倒的に振りすぎる。
神経を尖らせるカッティス。今の彼は、ネズミ一匹の行動も見逃さない。
その甲斐あってか、
右から迫ってくるナイフの存在に、彼は即座に反応出来た。
「!?」
咄嗟に気づき、後退したカッティス。先ほどのナイフとはまた違う形をしたそれは足元を目掛け飛んできて、地面に突き刺さった。
パン、パン、という乾いた音。飛んできた方角に向かい、銃を発砲する。
当てずっぽうで撃った弾は空振りに終わったが、森の中で動いた影を彼は見逃さなかった。
やはり誰かが自分を狙っているようだ。
理由は分からずとも、それだけ分かれば十分だ。
返り討ちにしてやる。少なくとも命を狙うほど恨まれている人物。顔を見れば正体ぐらいは分かるかもしれない。
ちらっとだが姿を目撃できたのも大きい。意味の分からない現象では手の出しようが無いが、誰かが投げていると分かれば心境にも余裕が生まれる。
銃を構えながら、次の一手を待つ。
実は車が雑木林に突っ込んだ際の衝撃で足に痛みがあるのだが、軽い打ち身のようなものなので動きに支障が出るほどのものではない。
「……」
再び静まり返る空間。たまに吹く隙間風が木々を揺らし、そこらから聞こえる鳥の声が耳障りだ。
それでも集中力を途切れさせないカッティス。いつ何時仕掛けてきても対応できるよう、全身全霊を持って相手の動きを待つ。
そして。
動きがあった。
実はそこから来るのではないかと踏んでいた。
人間最大の死角、後方。意識していれば、避ける事も不可能ではない。
とはいえ、音も無く迫る物体を避けるのはそれなりに運動神経が無ければ出来るものではない。
ましてや速度も結構なものだ。
それをかわすのだから、カッティスというこの男の反射神経も相当なものがある。
今度は身を横に逸らし、迫ったナイフをやり過ごす。
飛んできた方角に銃を構えると、何かが接近してきていた。それはナイフなどではない。低い態勢で近づく気配は人間。恐らくは当事者だろう。
まさかの展開に驚くカッティス。しかしわざわざ出向いてくれたのなら好都合。迷うことなく、手に持つ銃の引き金を引いた。
立て続きに三発の銃声が静かな森に鳴り響く。
弾は迫らんとした標的に命中こそしなかったが、その進行を食い止めることは出来た。
恐れをなしたのか、また雑木林に隠れた人間。
「ちょこまかと」
守ってばかりでは駄目だ。手投げナイフと銃。性能ではこちらの方が上だろう。それにわざわざ出向いたのも、もしかすれば手持ちの武器が無くなったのかもしれない。
そう判断しての突撃だった。
敵がすぐそこにいるのは確実。今度こそ照準を合わせ息の根を止める。
そう意気込むカッティスだったが、
ドス、という鈍い音が、足元から聞こえた。
同時に襲ってくる強烈な痛み。
「がッ!?」
堪らず膝をつくカッティス。
見れば、自分の太ももに先ほど避けたはずのナイフが突き刺さっていた。夥しく流れる血。何とか手で押さえ止血を試みるが、止まる気配が全くない。
「くそ、一体どこから」
痛みに悶える苦悶の表情。そんな彼の手にする銃に、ナイフのようなものが突き刺さった。反動により思わず手離してしまった銃は、生い茂った雑草の中へと潜ってしまう。
しまったとカッティスは思った。痛みに気を取られすぎ、やすやすと銃を手放してしまった。
すぐに拾わなければと必死になるが、ナイフの突き刺さった足が思うように動かない。
「諦めなよ、お兄さん」
足を引きずる男の耳に入った、幼い声。
カッティスは振り向く。
そこでようやく正体を確認することが出来た。バタフライナイフという物騒なものを手の中で回しながら近づいてくるのは、年端もいっていないであろう子供だった。
思わず固まってしまうカッティス。
顔を知らない所ではない。先ほど姿を少し見た時まさかとは思っていたが、襲撃者がこんなに幼かったとは。
ポンチョを羽織り、半ズボン。まるで溺愛され親に全てコーディネートされたような印象を与えてくるその様は、さながら人形のようで愛くるしい。
これは何かの間違いかとカッティスは考える。
しかし残念ながら、姿身なりがどうあれ、バタフライナイフを振り回すその様はそんじょそこらにいる子供の手付きではなかった。髪はボサボサで左目が隠れるほどに長く、だからなのかもしれないが凍てついて見える瞳は、地を這い蹲っている哀れな男を見下している。
何とも思ってなさそうな漆黒の瞳。これもまた、そんじょそこらにいる子供が出来る様な表情ではない。
「……何だお前は」
当然の疑問。いきなり襲撃され、その当事者として現れたのがこんな小さな子供。
飲み込めない状況に頭を混乱させながら放たれたそれに、子供は男を見下したままこう返す。
「それは教えられないよ」
近づいた子供はカッティスの目前にまでやってきた。華奢な身体だ。それこそ痛手を負っているこの身体でも襲い掛かれば組み伏せるのではないかと思い込ませるほどの体格だ。
だがそんなにうまくいかないであろう事はカッティスにだって分かっている。
大前提として、相手の手にしている代物は例え子供だろうと凶器に匹敵する。
「目的は何だ?」
断られた以上、言い方を変えるカッティス。先程から幾度となくぶつけたはずの疑問。功を奏した、とでも言うべきか。この場において、子供はこれに答えてくれた。
「情報収集。えっと……写真と違うな。ねえねえこのお兄さんが誰か分かる?」
甘えるような無邪気な声で、かしずくような体勢のカッティスにその写真を見せる。少年が提示してきた写真に、カッティスは見覚えがあった。
そこに写っていたのは、今後部座席で身動きが取れなくなっているであろうミゲルのある日の姿だ。
「……その男に何の用だ」
用件は知らねど、とりあえずはこの場にいる事は伏せておくカッティス。少年は少し機嫌が悪そうな口調で、
「だから、情報収集だって。確かあの車に乗っていたと思うんだけど……」
言って、後方でひっくり返っている高級車に目をやる少年。車はこのぐらいの年なら憧れを覚えてもおかしくなさそうな代物だが、少年にはそういった感慨のようなものが全く無いようだった。
目前で膝をつくカッティスからすでに目を離し、ミゲルがいるであろう車へと歩いていく。
そんな彼の姿を見て、まずいとカッティスは思った。
情報収集、と少年は言った。それは自ずと組織を危険に晒す事に直結してしまう。
「ま、待て」
カッティスの静止を促す声に、しかし少年は止まる気配が無い。
「僕が用のあるのはあっちにいるお兄ちゃんなんだから大人しくしててよ。じゃないとさっきのお兄ちゃんみたいになっちゃうよ」
背中越しに飛ぶ冷たい声。
舌足らずな言葉で、中々凶悪な事を口にする子供。もちろん、それも嘘ではないだろう。現にこの子供は仲間の一人を絶命させている。
それでいてこの落ち着きよう。人を殺したのも一度や二度ではないだろう。
「そうか……分かった」
静かにそう言い、脚に刺さったナイフを抜くカッティス。抜いた際に痛みから一瞬表情を歪めたが、それもすぐに消えうせる。
痛む足でどうにか立ち上がろうとする。その様は諦めにも見えた。こんな子供に不本意ではあるが、武器を失った以上仕方がない。下手にあがいて殺されるのも惨めな話だ。ここはとりあえず相手に従い、機会を窺うのが先決。
とは、思いもしていなかったが。
カッティスは立ち上がる動作の最中、懐から小型拳銃を取り出す。滑らかな動作で引き出された銃の照準を標的に確かに合わせると、迷うことなくその引き金を引いた。
再び木霊する発砲音。小型とはいえ人に損傷を与えるのには十分な威力を秘めた弾丸は、最早人間の反射神経では捕らえられない速度で標的に向かっていく――
はずだったのだが、
おかしな事に、弾丸が標的に着弾する事はなかった。
「!?」
驚きを隠せないカッティス。弾丸が着弾しなかった事にではない。確かに定めたはずの照準がぶれた。
より正確には、自分の腕が何かしらの力で動かされたのだ。
あらぬ方向に飛んでいったであろう弾丸の行方を眼で追うカッティス。いまだ放心状態だ。
敵がすぐそこにまで迫っているというのに。
いつの間にか振り返り手の届く範囲にまで距離を詰めた子供は、二つの石を中空に従えていた。近場で掬い上げたであろうその大きさは拳ほどで、ゴツゴツとして見るからに堅い。
そこでようやく身体を動かすカッティス。
しかし遅い。どうにか一つの間には腕を挟めたものの、もう一つの方はほんの少し間に合わなかった。
人が軽く投げた様な速度で、石がカッティスの顔面を捉える。もう一つの石も防げたとは言ったものの腕へとめり込み、その重さは地面に落ちた際のぼとりという音で計り知れる。
顔面と腕。二重の痛みに歯を食いしばるカッティス。より大きなダメージを負った顔面を右手で押さえ、負傷した左腕をだらんと垂らす。
石の当たった頬は赤く腫れているが、幸いにも大事には至らなかった。
痺れていた左腕の感覚も徐々に戻っていくと、カッティスはすぐに体勢を立て直す。なぜ銃の照準を合わせられなかったのかは分からないが、分からない以上使うのは危険だと、銃を懐に仕舞い直す。
肉弾戦に打って出ると考えを改めたカッティスは構えると、ボクシング経験で培った鋭いパンチを繰り出す。
当たらなかった。幾度となく拳を繰り出してはいくが、その子供はよほど反射神経がいいのか、プロでも避けるのが難しいパンチを、意図も容易くかわしていく。
(いや違う)
カッティスはふと気づく。
子供はかわしているというより、距離を取るように後退しているだけだ。その動きは見るからに素人。間合いを詰めればノックアウトさせるにもそこまで手間取らないはず。
ではなぜそうならないのか。
理由は簡単だ。自分がその間合いを詰め切れていないのだ。
原因は負傷した脚。立つのもやっとなこんな状態で、踏み込める訳もない。
ついには脚の痛みでよろけてしまい、転倒してしまう始末。それでも早く起き上がらねばと必死に抗う彼の姿は、見ている方が居た堪れないほどだ。
「諦めた方がいいと思うんだけどなあ」
手の中でバタフライナイフを弄びながら、悠然とそう提案する子供。
カッティスはいちいち反応も示さない。どうすればこの絶望的な状況を回避できるか。ひたすらにそれだけを考える。
まず、相手の動機を知りたい。カッティスは敵のこれまでの言動を思い返す。
『写真のお兄さんに聞きたいことがあるんだ』
あの子供は確かにそう言った。ミゲルという単体形。この場合は奴が取り行っていた取引を指すのか、そのバックにある組織全体を指すのか。
いずれにせよその辺りの駆け引きには弱そうだとカッティスは踏んでいた。
ならどこかに綻びがあるはず。思い出せ思い出せと、自分のひらめきに追い込みを掛ける。
やがて、ある事に気づいた。
それはナイフの軌道。
ナイフに限らず、物理の法則としては投擲した物の軌道は弧を描くはずだ。それを踏まえると、速度があるのならまだしも、所詮は視認できるほどのあれでは明らかな矛盾が生じている。
つまり、何かがあるのだ。
物理の法則を無視してナイフを飛ばす方法が。子供から目を離さずにいたのに脚にナイフを突き刺せる謎が。確かに向けたはずの銃の照準を逸らさせる原理が。
まずはそれを知らねば話にならない。
今出せる全力の力を振り絞ると、カッティスは今一度小型拳銃の照準を子供に合わせる。
するとどうだろう。
ぐぐ、と腕に明らかな別の力が加わり、また銃の照準が子供からぶれる。
(な、また!)
改めて経験してみても、やはり分からない。まるで磁石同士が反発する時のような力が加わり、どう足掻いても思うように照準が合わせられない。
だが今は熟考している時間は無い。動きながら考えなければと、カッティスは引き金は引かずに後退を試みる。
その姿を不満げに眺める子供。
「……無駄な事しちゃって」
ポンチョを広げると、腰や腕に装着していたホルダーが露になる。可愛らしい外側とは違い、下はタートルネックという動きやすい服装。
大小様々な形をしたホルダーにはそれぞれの形にあったナイフが仕舞い込んである。
その中のひとつを素早く取り出す。
ボウイナイフ。今となってはもっぱら工芸品として有名になったナイフだ。しかしその切れ味は健在。ハンティング用として使用されることもあるそれが人間に突き刺されば只ではすまないだろう。
分かった上で、子供は手にしたナイフを投げつけた。
ナイフは標的である男に向かって一直線で飛んでいった。小型で軽量だからという理由だけでは説明のつかない現象は健在だ。
逃げるカッティスに迫るナイフの速度は、やはり衰える気配がない。
それどころか、
(な!?)
ナイフの進行方向から身を逸らした所で、付いてくるではないか。
最早原理がどうのこうのという話ではない。ナイフは直角に曲がったかと思うと、相変わらずの速度でカッティスへと切っ先を向ける。
予測など出来るはずもない。そもそも避けるのが精一杯だった。イレギュラー過ぎる軌道に対応できず、横っ跳び真っただ中の男の太ももにナイフは突き刺さってしまう。
「ぐ、っ!」
短い呻き声を上げ、その場に膝をつくカッティス。
(どうなっているんだ一体!?)
痛みに意識を削がれる中、必死に原因を考える。
しかしそもそもの前提として、考えること自体が無駄なのかもしれない。
直進していた物質が何の力も加えられず直角に曲がるだなんて、物理学の域を超えてしまっている。
「もういいでしょ」
至近距離で響いた幼い声。
己の太ももに向けていた視線を上げるカッティス。
そこには手にしたバタフライナイフを突きつけてくる少年の姿があった。
「みっともないよ、お兄さん。いい大人なんだから無駄な抵抗はやめて大人しくしててよ。じゃないと本当に死んじゃうよ」
「そういう訳にはいかないな。あの男の頭の中にはうちの知られたくない情報も入っている。どこぞの訳の分からない野郎に引き渡す訳にはいかない」
苦痛に顔を歪めながらも放たれたカッティスの言葉に対し少年は、あ、そ、と心底つまらなさそうに答えた。
「とりあえず何を聞くのかは知らないけどさ。僕はただ言われた事をやってのけるだけ。その為に邪魔をするというのなら――殺すだけだよ」
ぞく、と、背筋に冷たいものが走る。こんなガキに情けないと思いつつも、その声音に慄いてしまうカッティス。間に合わせの言葉を発しようとするが、出てこない。
そんな煮えきれない態度を取っていると、少年はついに痺れを切らしたようだ。
めんどくさいなー、とため息ひとつ、手に持つバタフライナイフ立てると、その切っ先をカッティスへと向けた。ギラつく先端はその切れ味を如実に語っており、腕力の無い者でも人を絶命させるには事足りるだろう。
少年の眼は相変わらず本気だ。堂々とした物腰からは脅しや虚勢は一切感じられず、ただ黙々とどうすれば効率がいいのかを考えて行動している印象を受けた。
スッと、瞳に刃の先端が迫る。
そのあまりに滑らかな動きは考える事を忘れさせ、カッティスは呆ける事しかできなかった。
抵抗という抵抗も出来ず、刃は着実に瞳を傷つけんと迫る。少年はゆったりとした動作で手首を捻り、刃を立てる。どうやら人体で一番やわらかい場所というものを知っているようだ。
そして着手せんと、今まさに眼球に触れようとした時だった。
これまで無だった少年の表情が、何かを感じ取ったように反応した。
程なく鳴り響いた銃声。
乾いた音は小型銃である事を示し、音量からして距離は近い。
「――く」
小さな呻き声に、滴る血。咄嗟の判断で身を退いた少年だったが、どうやら被弾してしまったようだ。
左腕からは服の下からでもポタポタと鮮血が滲み出ている。それを止血するような動作も見せず、少年は弾が飛んできたであろう方角に眼をやった。
「動くな」
見ればスーツ姿の男が三人、少年に向けて銃を構えていた。そのうちの一人の拳銃からは薄っすらと煙が上がっている。きっと今しがたの発砲は彼が引き金を引いたのだろう。
その男が言う。
「大人しくしろ。じゃねーとお前の頭が吹き飛ぶぜ」
忠告をする男とは別の二人が、少年に詰め寄る。銃は構えたままだ。子供相手とはいえ、仲間達の状態を見れば決して大袈裟ではないだろう。
対する少年は動かない。銃を突きつけられているというのは一応意識はしているようだが、眼球を動かし周囲を見回す様はこのまま捕まる気がないのは明らかだ。
しかし、見た通りのこの現状。いくら異能の力を扱えようと、やはり状況は芳しくはないようだ。
「……あーあ。退かなきゃ駄目か」
血まみれになった左手を見ながら、心底残念そうにそう零す少年。
もちろん怖いお兄さんたちはそれを許そうとはしない。
少年に近づいた二人のうちの一人は、プレッシャーに耐え切れずこんな言葉を言い放った。
「動くな。手を頭に上げろ」
怪我を負った子供に語気を荒げ無茶をさせようとする大人。傍から見ればひどい光景だろう。
しかしそう思わせない拮抗性が少年にはあった。
それもまた、現状を知っているからこその印象でしかないが。
かくして、少年は言われたとおりに両手を挙げた。
降伏したからではない。
両の手を高く上げると、広がったポンチョの隙間から何かが落下した。缶のような形状のそれは地面に到達すると、またしても何かしらの力が加わったのか、ピンが外れる。
正体は発煙手榴弾。
紫色の煙が勢いよく噴出すと、たちまち落下地点を覆っていく。
すぐそばにまで来ていた男は驚いた。展開された煙幕はすぐ目前まで迫っており、彼は焦りのあまり、闇雲に銃を発砲してしまう。
「よせ! 仲間に当っちまう!」
冷静な判断といえよう。先の男がそう告げた。少年の近くにはカッティスがいるのだ。視界が奪われ目標に照準が合わせられない以上、発砲は避けるべきだ。
それに煙幕の中にいるのは危険だった。敵が煙に乗じて攻撃を仕掛けてくる可能性もある。
やむを得ず後退する二人。煙幕の範囲に巻き込まれる寸前の位置で、煙が治まるのを待つ。
煙の奥から聞こえるシュウシュウという音が小さくなっていく。それは発煙弾の効力が薄れていくサイン。
やがて音が全くしなくなると、それと同時に煙も晴れていった。
頃合を見計らい、突入する一同。
「大丈夫か?」
煙の中で咳き込み、尻餅をつくカッティスの元へと歩み寄る。それに対し大丈夫だと返し、カッティスはぎこちない動きながらも何とか立ち上がった。
そして辺りを見渡す。当然のように少年の姿は無かった。負傷を負ったからなのか増援が来たからなのかは知らないが、どうやら本当に退いたらしい。
未だ余韻の残る薄煙をぼんやりと眺め呆けるカッティス。
助かったのか、取り逃がしたのか。
何とも複雑な気持ちが彼を襲っていた。
「何だったんだあいつは?」
「……俺が聞きたいさ」
仲間の言葉に本音が漏れるカッティス。言葉を受けた男は不審そうに眉を曲げるが、まあいいかと一旦その話題を脇に置く。
「ところでミゲルはどこにいる?」
男の放った一言に、カッティスは目を開けた。
そうだミゲルだと、最も優先すべき事柄にやっと気づく。カッティスは辺りを見回しながら
「車だ。車の中にいたろ」
「……車?」
何やら慌て始めた彼の視線を目で追う。その先には雑木林に突っ込み、あちこちがへこんでいる車両の姿があった。
あそこにミゲルがいる。その言葉を受け、脚をまともに動かせないカッティスに肩を貸し、一同は件の車の下へと歩み寄った。
するとどうだろう・
そこにミゲルの姿は無かった。
いたのは運転席で気絶している男と、地面に無様に転がっている男だけだ。
「くそ!」
苛立ちのあまり、車体をグーで殴るカッティス。
逃がしてしまった。あれほど己に失敗してはいけないと言い聞かしたにも拘わらず、まんまとミゲルから目を離してしまった。
息を荒げ動揺するカッティス。その様は仲間の目から見ても威圧的で、おいそれと声は掛づらい。
「……どうする?」
恐れながらも、声を掛けた男。
「ボスに連絡を入れるか?」
「いや駄目だ!」
馬鹿なことを言うなとカッティスは思った。その迫力にまた圧される仲間達。取り逃がしましただなんて連絡を入れれば、確実にカッサロー二の怒りを買ってしまう。
「ボスにバレれば俺達が殺されちまう。だから連絡を入れるのは絶対駄目だ」
言われてようやく状況を飲み込む一同。
確かにそうだ。直接の非が無いとはいえ、カッサロー二の気性の荒さは折り紙つき。それこそ連帯責任として殺されてしまってもおかしくは無い。
「な、ならどうする。だからといってこのまま隠し通せるとは限らない。いつボスの耳にこの件がはいるか」
「もう一度探すんだ」
最悪の展開を思い描き声をどもらせる男に対し、カッティスの心は決まっていた。今一度銃の手入れをして不良が無いかを調べる。それが終わると、ぎこちない動きで歩き始めた。
眼に映る焦燥感。痛いなどとは言っていられない。
今まさに人生の窮地に立たされていると本気で思っている男は、語気強く言うのであった。
「まだそう遠くには行っていないはず。この失態がボスの耳に入る前に終わらせる。今度は見つけ次第殺すんだ。多少強引な手を使ってでも、絶対にな」




