光の絆
目の前で起こった光景に、神父は険しい表情で歯噛みする。
「悪魔め。やはり齷齪な行動を取りおったか」
恐れていた事態が起こってしまった。
苦しそうに咳き込むミレーナ。その動きはいまだ収まりを見せず、だからこそ無闇には近づけない。
「悪魔が彼女に侵食しているの?」
アテナは神父に自分の見解を述べた。
神父はいまだミレーナから目を離さずに、
「そうだ。どんな事があっても一緒にいたいと願ったのが引き金になったのだろう。……非常にまずい。今の流れを見るに相当な想い入れがあるようだ」
「祓える可能性は?」
「分からない。そこまで強力な悪魔ではないと言っていたのでまだ大丈夫だとは思うのだがやはり状況が厄介だ。まだ幼い体がその力に耐えられるとは思えない」
だからこそ犬に憑依したのだろうと、神父は言う。
神父自身はトラジェメリレガーナという悪魔は知らない。ただ、男の言葉から推測するに、その悪魔は絆を糧に成長するらしい。
「恐らくまだその身体は使えないと判断したのか。だから一番身近にいる犬に憑依して機会を待つつもりだったのだろう。それこそ何年、何十年という長い年月を掛けて侵食をするつもりだったのかもしれ」
「『違うbatuよ』」
突如割って入ってきた、不気味な声。
音源を探す一同。
すぐに分かった。というよりそこには彼女以外誰もいない。
神父の見解はあろうことか本人に否定された。
本来の声音にかさ張るしゃがれ声。
それは間違いなくミレーナの口から漏れていた。
顔を上げると、本来の彼女からは想像もつかない不気味な笑顔が張り付いている。
自信に溢れ、迷いのない表情はまさに別人。
現に別人であろう意思は、さらに言葉を重ねていく。
「『一番ea身近で機会を待ったってのは正解j>だけど、何年何十年も待てないよ。いくら私達に寿命が無いといってpljもさ』」
「……トラジェメリレガーナか」
分かっていても、確認を取る神父。
それに対し悪魔は鼻で笑いこう返した。
「『それはghdis君達がかってに付けた名前だから何とも言いがたいけど――いいよ。便宜上こgdhskpcこはトラジェメリレガーナで』」
何気なく交わされた会話だが、聞く者が聞けばそれなりに動揺する。
悪魔祓いを行なう上で重要なのは名前だと前述した通り。
場所も重要で、その二つがあれば後は細かい下準備だけで執り行える。
しかし、今しがたの悪魔の発言を聞くに、どうやらトラジェメリレガーナは本当の名前ではないらしい。
追い詰められない以上悪魔は本来の名前を吐かないといわれているので当然といえば当然だが、やはり状況が悪い。
こうも悪魔の意識がはっきりしているという事は、ミレーナの魂は完全に乗っ取られてしまっているのだろう。
トラジェメリレガーナは身体の調子を確かめるように動かしながら、
「『うん……wthokノイズはやっぱり完全には無くならないけど、始めに比べれば随分と使いやすくなった。この分だと完全opyhisにモノに出来るのにそう掛からないかも』」
それはどういう意味を孕んでいるのか。
悪魔は人間の体を乗っ取るとまず自分の使いやすいように計る。『慣らし(aging)』という一種の運動を施すことで身体能力を底上げし、自分好みに筋組織やら遺伝子やらを構築していく。
「『少しずつminiだけど夜に運動して身体能力jhc;@は上げてきたから。初めの方はうまくいかなかったけど、段々hvzk身体が動くようになってきて今じゃ簡単に殺せるよ』」
「それじゃあの動物たちを殺したのはやはり……」
「『どうだhjoろうね。確かに危害は加えたけど、やっぱり致命傷になったのはニーナじゃないかな。流石は猟犬。悪魔の力が付与されtaresaたあの咬みは痺れるものがあったよ』」
私もいつかはああなりたいな。神父の問いに、少女は笑って答えた。無邪気な、しかし邪悪な笑み。それはまるで罪悪感を感じていない異常な思考。
それに笑い方。
元神父であるあの男が言うようにその悪魔は中級。
どうやら魂は乗っ取れても、根幹の表現力はミレーナのものが少し残っているようだ。
「『我ながらついてると思うよ。死にそうにjfdghなってるニーナを必死に励ましてるミレーナを見たhgsli時は絶対にうまくいくと思った。案の定、彼女は二つ返事でamozuc契約することを承諾した。一応それ相応の代償についてSH$は話したんだよ。でもまだ子供だったから分からなかったのかな? それともこれが俗に言う人間の傲慢って奴? いずれにせよ愚かだよね。まあだけどそこは%"()しょうがないよ。私はただただ存在意義に従ったまでだし』」
自己弁護とも言えぬ発言。そもそも奴らにそんな罪悪感などない。
契約内容は本人と悪魔にしか分からない。それでも悪魔は自分仕立てに説明しているのは間違いないだろう。
「どうかしら」
ふと、アテナはそんな事を言った。
これだけは言いたかったといったような神妙な面持ちで。
人間の身体を楽に手にいれいい気になっている悪魔にこう告げる。
「まだ生まれたてで人間をよく理解していないらしいわね。その子はきっと自分の身体が無くなろうと契約は結んだはず。合理的にしか判断できないあなた達には理解できない考えでしょ。絆を糧に成長するようだけれど、気をつけることね。理解できないものを扱うということは、それ相応のイレギュラーがあるという事を」
「『……? 言ってる意味がよく分からないけど』」
悪魔にも個人差はあるのだろうが、それが人間のものと比例するかは分からない。
しかしその悪魔は幼稚な反応を取った。
「『何でもいいよ。この身体はもう私のものなkuwaikuwaiんだから』」
せっかく示された言葉の意味も深く考えず、ただただ己の目的が果たされたと喜んでいる。
「『本当はもっと時間を掛けたかったんだけどtubu[:、まあいっか。それなりに肉体も改造できたし。後はこのままopsu運動すれpuriば理想にnngu近づけるは――』」
青筋の立った腕を満足げに見ながら語っていたトラジェメリレガーナ。
するとその背後から迫った影。
年甲斐もなく全力で少女の身体に飛び掛った神父。
地面に抑え込み動きを封じる。
そしてすぐさま悪魔祓いに必要な言葉を叫ぶ。
それを聞くと少女の顔はわずかに歪んだ。しかし、それは棘が刺さった時のような極めて薄い反応。
やはり下準備が不足している。
いくら中級の悪魔とはいえ、これでは祓えない。
「『乱暴だなあ』」
にやりと、不適に笑うトラジェメリレガーナ。
「『そんな事するとニーナが黙っていないよ』」
そこで神父はハッとする。
前を見れば、黒い煙に包まれたニーナが牙を向き、神父に襲い掛からんとしていた。
目を見開き、動く事さえ出来ない。
ドン、という鈍い音。
ニーナの牙が神父に達した音ではない。
アテナがニーナに蹴りを放ち、それを退けた音。
きゃいん、という声を漏らしつつ、ニーナは体勢を立て直しながら飛んでいく。
アテナがニーナを追走することはない。そもそも敵ではないのでいまだどうすればいいか分からない訳だが、それを差し置いて別に気にするべき事があった。
腰の引けた神父が離れた事により、トラジェメリレガーナはその小さな体躯を使い素早く転回する。
起き上がると、すぐさまアテナに鋭い爪を突っ立てた。
容赦のない一撃。
それを流石の反射神経でかわすと、アテナも反撃に転ずる。
外見はミレーナだが、やはり子供とは思えない動きだった。
おまけに目標が小さいので力の伝達が難しい。
それでもこの辺りは経験の差が出る。
攻撃の際に生じるわずかな隙を見つけ、攻撃を加えようとするアテナ。
しかし、姑息な悪魔はただでは終わらない。
「『殴るの、お姉ちゃん』」
不安そうな感情を顔いっぱいに湛え、そう言ったトラジェメリレガーナ。 もちろん、彼女の良心に働き掛けたのだろう。
見えすぎるが故により効果があった。
出そうとした拳を引っ込めるアテナ。
それを良いことに、トラジェメリレガーナは容赦なく攻撃を展開する。
こちらから攻撃できないのに向こうからは攻撃が出来る。
堪らなくなったのか、アテナは距離を取った。
遠いところから全体をもう一度俯瞰する。
悪魔は乗っ取った少女の身体で高笑いしていた。
「『あっはははははは! 本当に殴れko23ないんだ! 私が偽者だって分かっているのに? まあミレーナの身体である事には変わらないから@:p7間違ってはいないよ。ただ、不便だね』」
アテナ達を見据え、不適に笑うトラジェメリレガーナ。その傍にはニーナがいた。もちろん、黒い影は纏わりついたままだ。
「『あまり大胆な行動は取れないよね。だって私はミレーナでugatiなくてミレーナだもん。二人の絆が深いお陰か、魂の結合はもう随分進んでるよ。もし無理やり引き剥がそうものならriそれこそミレーナのも一緒に消滅しちゃうかも』」
嘘ではないだろう。その証拠に言葉のノイズが減ってきた。
半ば急進的な呑み込まれ方とは違う安定した運び。
こうして悪魔は人格を支配し世の中に紛れ込み、人の目を欺いていく。
しかしそこは種族の相違。
日常に現れる不可解な行動により、人は始めて異変に気づく。
それでも、すでに異変に気付かれているというのに、トラジェメリレガーナは強気だ。
理由は今しがた述べた通り。
意思がトラジェメリレガーナという点から窺えるように、すでにミレーナは悪魔に支配されてしまっている。
つまり無理やり祓おうとすると、その魂ごと祓われてしまうのだ。
そんな事は出来る訳がなかった。
少女はただ純粋に友達を助けたかっただけ。
契約をしてしまっただけで殺す事など到底出来やしない。
「わしには関係ないがな」
本当にそう思っているであろう抑揚のない声に、半ば安心しきっていたトラジェメリレガーナは敏感に反応する。
元々知り合いでもない彼にとっては全くと言っていいほど逡巡はない。
振り向けば、男がすぐ傍まで迫っていた。
手には銀色の槍が携えられている。形状は違えど遊環のようなものが掛かっており、それは西欧版錫杖と言ったところか。
杖の先端をトラジェメリレガーナに向け、飛び掛る。
動作が追い付かないミレーナに変わり、ここもニーナが前に出た。牙をむき出し、主人を襲う敵に容赦なく攻撃を加える。激しい攻防に被っていたシルクハットは飛んでいく。
襲い掛かる牙。男は杖の矛先を変えそれを防いだ。頑丈な素材なのか、鋭い牙に掛かろうと杖が折れる事はない。
そこで、捻る。
杖に食い付いたままのニーナは意図も簡単に翻り、地面へと押さえ込まれてしまう。
更に男はニーナの身体に黒い羽を差し込んだ。それは連れ添っていた黒い鶏の羽だろう。
「少し大人しくしておれ」
次の瞬間、電気ショックでも浴びたように身体が跳ね上がったかと思うと、ニーナの動きが止まった。纏った煙はなぜか勢いを増していた。だがニーナは気を失ったようにピクリとも動かない。
「さて、次は本命じゃ」
ぽつりと呟くと、男はすぐさま行動に移ろる。
前方で何が起こったのか理解に追いついていない悪魔へと手を伸ばす。
トラジェメリレガーナは焦っていた。
借り物の顔を強張らせ、動こうという意志はあれどそこに具体性は無い。
地面を転がる無様な形で避けると、距離を置こうとこれまた無様に逃げようとする。
しかし神父は急いで追うような真似はしない。
必要が無いからだ。
神父は逃げるトラジェメリレガーナではなく、そこから伸びている鎖へと手を伸ばした。
するとどうだろう。
本来なら触れられるはずの無い半物資であるはずのエクトプラズムが手に取られ、それを引っ張られた。
短い呻き声を上げ、手繰り寄せられるトラジェメリレガーナ。
軽い身体は意図も簡単に飛び、神父の前で尻餅を付く。
顔を引きつらせ、見上げる。
男の眼は冷徹だった。小さな子供に情けや罪悪感など全くないであろう侮蔑気味の視線は、悪魔であろうと恐怖心を芽生えさせる。
「自分で忘れたか。お前は絆を糧に具現化できる。その在り方は表裏一体。片割れが傍にいればどこに行こうと逃げられん」
呆れたように語る男。数多くの悪魔を見てきた彼にとってその悪魔は本当に赤子のようなもので、言うなれば我がままを言うそれを叱るようなもの。
圧倒的ともいえる差に悪魔も気づいている。
あれほど威勢の良かった態度が今は完全に静まり返っていた。
どう動けばいいのか分からない悪魔は、とりあえず疑問を口にする。
「『な、何でエクトプラズムを掴める』」
そもそもエクトプラズムはこの世の物質ではない。視覚できる者はいれども、触れることは出来ないはず。
にも拘らず、男は触るどころか手繰り寄せ、まさにそこに鎖が存在するかのように振舞った。
それは何かしらの形であの世、つまりは別次元に干渉できるということ。
これまでの歴史を見てもそんな事が出来るのは限られた者だけだろう。
人を救う神の使いか。極みに達し摂理を凌駕した天才か。
あるいは――
「『……まさかお前』」
どうやらトラジェメリレガーナはその正体に気づいたようだ。
驚き、動揺。
そして悟る。
このままでは喰われてしまうと。
そんな風に意気消沈している悪魔に気づいたのか。
ぬぅ、と男の手がトラジェメリレガーナへと伸びていく。
直接手を下そうとしているのだろう。
男のやせ細った手が、ゆったりと借り物の少女の頭へと伸ばされる。
「待て!」
と、割って入る声。神父がトラジェメリレガーナと男との間に立ち塞がった。
これには男も驚いた表情で、
「なんじゃ。まだ邪魔をする気か」
呆れたように、溜息を吐く。
神父は男を睨み付ける。今しがたしようとした事に異議を唱える。
「今彼女と悪魔の魂は完全に結合してしまっている状態だろう。やはり強引に引き剥がすのは危険だ。せめて正規の悪魔祓いである程度抗力を弱めさせてからでなければ少女の魂ごと浄化されてしまう」
「自業自得じゃよ。それはその娘が望んだものの代償じゃ。世の中は成るようにしかならん」
「だがまだ子供だ。そんな理を知る由もない」
「なら知らない方が悪い。ちゃんと教えるべきじゃったな」
「……あなたには慈悲というものがないのか。司祭だった者の言葉とはとても思えない」
「じゃから今はこうしていよう。わしにとって人間は人間。子供だろうがおなごだろうが関係ない。そもそも司祭などという面倒な役柄に就いたのも悪魔を狩るのが目的じゃしな」
「何だと……」
「そうすればわざわざ自分から探す手間が省けるかと思ったが……まあ無駄じゃった訳じゃ」
愚痴のようにそう言うと、男は本題へと戻る。
「そこを退いてもらおうか。何もその子を見捨てると言っている訳ではない。出来る事なら救ってやる。可能性が低いというのは、言わずとも分かるだろうが」
「それは出来ない。目の前にある命をみすみす落とさせるくらいなら、今すぐ私はここで自害しよう。神に仕えると決めた日からそれは心に誓った事だ」
「……心構えだけは立派じゃな」
互いの考えがぶつかり合う。
男と神父はどちらも引かなかった。神父は男を睨み付けている。その眼は力強く、今しがた述べた決意は本物だろう。
男も男で神父に気圧される事は無い。むしろ冷静に向き合い、どう丸め込むかを考えているようだ。
そんな中渦中であるトラジェメリレガーナはというと。
神父の背に守られる格好で二人の話に耳を傾ける。
どうすればこの場を切り抜けられるのか。
間に合わせながらも、その機会を窺っていた。
そして神父が男へと食って掛かる最中、ドス、という鈍い音が聞こえる。
「――な!?」
驚いた様子の神父。
見ればトラジェメリレガーナは神父の腰辺りに鋭い爪を突っ立てていた。貫通はしなかったものの、食い込んでいるのだろう。
神父の表情が、苦痛に歪んでいく。
「むぅ」
予想だにしていなかったのか、目の前で起きた光景に男もやや驚いたようだった。
だがすぐさま自分へと迫っていた脅威には気づく。
上体を反転させ、牙を剥き出しにし突進してきたニーナをかわす。
不意打ちに対し体全体を使ったにも拘わらず、手から鎖は離さなかった。
バツの悪そうな顔をするトラジェメリレガーナ。しかし許容の範囲内ではあるようだ。
避けられ、地に足を付けたニーナ。するとまた動き始める。今度は男に向かったのではない。男の周りをぐるぐると高速で駆け始めた。
これまでよりもずっと力強く、早い。身体能力が上がっているのは勢いが増した煙を見れば明らかだろう。
しばらくすると、ニーナがなぜ男の周りを走り回ったのかが判明する。
にやりと笑うトラジェメリレガーナ。
鋭い視線の先には、エクトプラズムで形成された鎖に巻きつかれ身動きが封じられている男がいた。
「『そっちが触れられるって事はこっちも触れられるって事だもんね』」
したり顔。腰に手を当て踏ん反り返る様は一見して可愛らしい姿に見合うしぐさだが、腐っても悪魔。おまけに侵食率が上がっている事にご満悦のようだ。
「『さ、殺そ♪』」
弾む声音でそんなおぞましい事を口にした。
自ら手を下すような事はしない。
殺傷能力という点においてはやはり少女よりも猟犬の方があるだろう。位置的にもそっちの方が近い。
以心伝心でそれをニーナへと命ずる。
ぴくりと、黒い影を纏った身体が少しずつ歩を進め始めた。
確実に距離は縮まっていく。赤い眼は男を見据え、殺傷能力抜群の牙は閉じてなお剥き出しになっている。
黒い影を従え、そしてがんじがらめになっている男の前にまで至ると――ニーナは腰を落とした。
後ろ足を畳み、前足をぴんと張る。
いわゆるお座りだ。
これには動揺を隠せなかったようだ。
「『!? 何をしている!!』」
思わず声を荒げるトラジェメリガーナ。
その行動には他の連中も驚きだ。
誰もが何が起こったのかを理解できず、反応を示す事ができていなかった。
奇妙な行動は更に続く。
しばらくするとニーナは身体を横振りさせ始め、さらには首を上下して何かを強請る。
「……やれやれ」
いち早くその意味を理解したのは男だった。どことなくやさぐれた態度を取ると、次の瞬間。
彼を縛っていたはずの鎖が雲散霧消し、跡形もなく消え去った。
何をした訳でもない。
がんじがらめと表していいであろう束縛が、一瞬にして虚空へと消えていた。
ただ、男の冷静な態度を見るに、彼にはそうなる事が分かっていたようだ。
身なりを正し、ニーナへと歩み寄ると、
「本当はもっと侵食率が上がった所を捕らえるつもりじゃったんじゃが……お前さんの想いとやらには負けたわい」
感心したようにそう言った男。赤く染まった眼を見つめ、その想いに敬意を表しているようだ。
標的である男が近くにいる。
にも拘らず、ニーナは彼を襲おうとはしない。それどころか大人しく座り込んだまま、まるで服従しているようだ。
もちろん。
命を下した者としては気が気ではない。
謎の行動に戸惑い、動揺するトラジェメリレガーナ。
遠巻きながら、その光景を眺める。今すぐ傍まで行って状況を確認したいが、あの男が居ては近づけない。
悪魔といえど、借り物の身体はやはりうろたえている。
「『どうしたの二ーナ。まさかミレーナを裏切る気じゃ……』」
「逆じゃよ」
訳が分からず歯噛みしながら放たれたそれに、男はこう返す。
「お前は他人の絆を糧に強くなるんじゃろ。なら気づかんか。今何が起こっているか」
「『……何?』」
言葉を受け、悪魔はその答えを探す。
すぐに分かった。
それは自身の胸元から伸びているエクトプラズム。先ほどまで強固な鎖の形状だったそれが、今は糸のようなものに変化していた。
色はどんよりとした黒ではなく、淡く優しい光そのもの。
「『そんな。なんでこんなものが……』」
その光は悪魔にとっては眩し過ぎるだろう。形成物資はエクトプラズムに違いはない。ただ種類が違う。いわゆる『正』のエネルギーを帯びたそれが、悪魔の中へと侵食していく。
「『な、なんだ、これは!』」
喚く悪魔。ようやく自分の中に入ってくる何かを実感してきたようだ。
しかし対処法が分からないらしく、どうする事もできない。
悪魔は堪らず逃げ出そうとする。
とにかくこのままではまずいと感じたのだろう。きっとあの男が何かをしたに違いないと思い至り、一刻も早く距離を置こうと振り返る。
しかし目前に新たな障害が立ち塞がった。
金髪碧眼のあの女だ。
何の逡巡も抱かずに、悪魔は鋭く尖った爪をその者に突っ立てた。
女は意図もたやすくそれをかわす。
そして動作の後に生まれるわずかな隙をつき、小さな体に間接技を決め込んだ。
「『!?』」
地面に突っ伏した所でようやく驚く。腕を取られ、足も四の地固めのようなもので固められている。必死に抜け出そうとするが、全く持って動けない。
「『くそ……離せ! じゃないと舌を噛み切ってミレーナを殺すぞ!』」
「それは困るわね。手は打たせてもらうわ」
冷静に言いつつ、アテナは手にしていたマフラーをトラジェメリレガーナの口に掛けた。猿轡のような状態になり、これで舌は噛み切れない。
ふがふがとこの期に及んで抵抗するトラジェメリレガーナ。
そんな悪魔の元にいつのまにか男が歩み寄っていた。
明らかに表情が強張る。
何をされるのかは分からないが、それが悪魔にとって良好な訳がない。
「頃合じゃな」
そう告げると、黒い鶏がニーナを突いた。
霊力を増幅する意味を持つその行為により、目下進行中の現象に拍車が掛かる。
もだえ始める悪魔。起こっている現象は分からないが只事ではないと感じたのだろう。
もう必要ないと思ったのか。
アテナは拘束を解いた。それにより信号はより顕著になる。
トラジェメリレガーナは地面を這いずりながら、
「『う、ぐ、く……やめろ、入ってくるな!!』」
しこりは痛みになり、悪魔を内側から締め付けた。
身体をよじり、胸元を押さえ込む。胸焼けでも起こしているかのように身体が熱い。鼓動は高まりを見せ、息遣いが荒くなってきた。
尋常ではない発汗を引き起こし、悪魔は身を縮こまらせる。
苦悶に晒されながらも眉を曲げる表情を窺うに、何が起こっているのか理解していない様子だ。
それを見越した上で男は告げる。
「勝ったんじゃよ。その娘が犬と一緒にいたいという気持ちを、犬がその娘を助けたいという気持ちが」
「『なん……だと?』」
この期に及んでも敵意むき出しの悪魔。男を殺意のある眼で睨み付ける。隙あれば襲い掛かる。そんな信念のようなものすら感じさせた。
もちろん、それで男が畏怖するような事はないが。
「愛情や思いやり。美徳と呼ばれるそれらはお前さんには分からん類のものじゃろう。自身の防衛の為。子孫繁栄の為。しかし同時に悲劇すら巻き起こしかねないそれが合理的なものなのか必要のないものなのかは、わしもよく分かってはおらん身なのであまり言える口ではないがの。ただ、侮ってはならぬと言う事じゃ。この世に生を授かったものは神すら予想だにしない結果を招く力すらあるかもしれん。人間はその最たるもの。この種族は本当に興味深い。己の中に様々な思想を持つものが共存を生み、また争いも生む。それでも確実に何かしらの結末を引きこす彼らはいずれ神の心理とやらに辿り着くかもしれん。じゃから、いくら愚かといえど、接し方には気をつける事じゃな。まあ今更遅い助言かもしれんが」
淡々と述べられた、男の見解
彼の発言に耳を傾けていた様子のトラジェメリレガーナ。しかしそれに対して言葉を返せないほどに追い詰められていた。
息は上がり、半開きの口からは泡のようなものを吹いている。充血したような赤い眼はそれでも男を睨み付けていたのだから驚きだ。
「『……くそ野郎が』」
そしてありったけの力を振り絞り言葉を発する。
命乞いや悔いを述べるような真似はしない。
その内容はやはり悪魔と思わせるようなものだった。
「『今回は退いてやるが、次は絶対に殺す。俺達は不滅だ。いずれ他の人間を乗っ取り、今度こそ自分のものにする』」
抱負というより宣言。
それは半ば負け惜しみからくるものなのだろうが、己が消滅するかどうかの瀬戸際でも相手を罵る執念深さ。
先のレギオンからも窺えるように、結局悪魔はどこまでいっても悪魔で、改心する事など万が一にもないのだろう。
「それもまた存在する意義がある」
だが男には通じない。今しがたの発言すら本能として、あるいは合理的として解釈してしまうあたりは、彼もまた悪魔の端くれとしての捉え方なのだろう。
「あくまでも持論ではあるが、悪魔は人を試すために作られた、いわば抑制、あるいは進化をもたらす為の存在。じゃからお前さんはまた人を貶めるために生まれ、いつかは滅ぶじゃろう。人間の世界ではそれを人生と呼ぶらしい。そして『神の腹積もり』の一部として存在は消滅と構築を繰り返し、いずれは本当の終わりを迎える」
男はここも淡々とそう述べると、続けざまにこう言った。
「さて、仕上げじゃ」
近くに寄ってきた黒い鶏の羽根を抜くと、それをニーナにもう一刺し。只でさえ強かった流れがより加速し、悪魔の中に雪崩れ込む。
「『ぐあ、ああああああああああああああああああああaaaaaaaaaaあああああああああああaaaaaあああああああvsdb%"!%'(0ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ@:/4990[\\\\\\:lj――ッッッ!!』」
白目を剥き断末魔の悲鳴を上げる悪魔。
頭を抱え、上体を仰け反らせる。
声を発する口から、耳から、黒い煙が排出され、何とも異様な光景だ。
見慣れているのか、他の者たちは動じないながらも、龍樹だけは違った。
彼自身少し前にこうなった訳だが、当然そんなものは覚えていない。
突如空に咆哮し始めた少女に戸惑いを隠せない彼をよそに、状況は進んでいく。
黒い煙が排出し終えたと同時。
辺りに光の雪が降り注ぐ。
『負』と共に排出されたわずかな『正』エネルギーが、炸裂し終えた花火のように余韻として残る。
咆哮が収まると、少女の身体は膝からがくっと折れ、地面へとへたり込んだ。
悪魔は完全に出て行ったのだろうか。仮にそうだとして、彼女は無事なのだろうか。その場にいた皆がそんな事を言いたげに少女を静かに眺めていた。
「う……う、」
やがて見せた反応。すすり泣くような、か細い声。
少女は顔を上げる。やはり泣いていた。可愛らしい表情をくしゃくしゃにし、口元はそれを堪えようとへの字に曲がっている。
そんな彼女の視線の先にはニーナがいた。
彼女の家族であり、そして唯一の友達。
姿は元に戻っていた。お座りし、いつも通りの大人しい姿に戻ったニーナはしかし、神々しい光のようなものを纏っている。
少女は涙を流しながらもしっかりと言葉を紡ぐ。
「ごめんねニーナ。私の精で辛い想いさせちゃって……」
ニーナは、それを黙って聞いていた。大きい身体に不釣合いなつぶらな眼はしっかりと主人を捉える。
当然ながら傍から見て分かるような明確な返事はない。それでも繋がっていた名残か、二人の間では何かしらの言葉が交わされているようだ。
「本当? ……ありがとう。でも不安でいっぱいだよ。私暗いから皆と仲良くやっていく自信がない」
悲観し、俯く少女。
だがまた何かしらのやり取りがあったのだろう。言葉を聞くような間を空けた後、ニーナを見て眼をぱちぱちさせると、ミレーナは一転して笑みを浮かべた。
「ニーナは本当に優しいね。……うん、がんばってみる」
力強い眼差しだった。
きっと何かしらのエールを受け取った少女。
安心させるためか涙を拭い、不器用ながらも自信をその顔に覗かせた。
「見ててねニーナ。その……すぐには変われないかもしれないけどさ。でも絶対に変わってみせるから。ニーナみたいな良い友達を作って、賢くなってママやパパにも迷惑かけない良い子になるから……だから」
内容という点に関してはやや具体性に欠ける。
だが彼女達は繋がっているので、熱意は十分に伝わっただろう。
何よりも次の一言がそれを裏付けていた。
言いにくそうに。
また泣き出しそうになりながらも、ミレーナは力を振り絞りこう言った。
「ばいばいニーナ」
直後。
目の前にいたニーナは弾けて光の粒子になった。
それは辺り一帯を明るく照らし、一瞬ではあるものの世界を黄金へと変えていく。
天へと昇っていくそれは昇天を意味するのだろう。光は空に紛れ消えていった。徐々にニーナという存在を示していた軌跡が薄れ、やがて完全に無くなってしまい。
オレンジ色に染められる元の風景。冷えた気温は以下にこの世が厳しいものかを如実に示しているようだった。
見上げる少女の表情にどことなく未練が残るのは仕方のないことだろう。
しかし彼女は決別した。世の中の不条理を受け入れ、一回り成長したはずだ。
「……」
いやどうなのだろうかと、捻くれ者の龍樹は妙な事を考える。
きっとこれで正解なのだろうとは思う。だが、もし、仮にだがニーナが生き続ける術が他にあるのだとしたら彼女はそれを受け入れるだろうか。
今回の件は周りに諭され、悪い言い方をすれば追い詰められてしまった結果でしかないと思う。
龍樹はすでにいなくなった悪魔の言葉を思い出す。
『不能ヲ救ウノハ厳シイ正義デハナク、優シイ悪ダ』
一理あるその言葉。
考えても見れば割かし悪い話ではない。むしろ不条理な現実に否定され続けてきた人間であるならばそちらに逃げるのも常という感じすらしてしまう。
今なお空を見上げるミレーナの顔はすっきりしている。今回のケースはあくまでも単純な動機の元なので差ほど頭を抱えるほどのものではないだろう。
だがしかし、例えばもっと複雑で、もっと重大な事柄で、かくなるうえは存在そのものを揺るがすような事態に直面した時、人間でい続ける事の出来る者はどれほどいるだろうか。
もしかしたら悪魔と手を組み成功したものもいるのかもしれない。人生に行き詰ったその時、目前に闇の道しかないのだとすれば、あるいは……
(……いやいやいや)
駄目に決まってるじゃないか。
何が駄目と問われれば教養のない手前言葉に詰まるかもしれないが、とにかく、駄目という漠然とした答えは弾け出せるほどには彼も常識人だ。
常識は神が作ったものではないのでそれもどうかとは思うが、人間として存在する以上、それは守らなくてはいけないルールなのだろう。
とそこで、ある異変が起こる。
未だに空を見上げるミレーナ。彼女が――突如膝から落ち、その場に倒れこんだ。
「!?」
慌てて歩み寄る龍樹達。
アテナが状態を確認する。
「大丈夫……疲れて気を失っているだけみたい」
「大丈夫なのかそれ?」
気を失うほど疲れるだなんて大丈夫だとは思えないが……まあ彼女が言うからには大丈夫なのだろうと龍樹も解釈をつける。
よく見れば息はしているみたいだし、眠っているように見えなくもない。
いずれにせよ。
悪魔という存在について複雑な心境を抱くようになった龍樹。
大切な友人を無くしたミレーナに同情しつつ、収束した事態にとりあえず胸を撫で下ろした。




