その悪魔の正体は
「ならない!」
男の放ったある言葉に対し、神父は声を荒げた。
「そんな方法を取るのは神への冒涜。然るべき対処を取り、適切に処理すべきだ」
「ほう……なら今すぐその少女の中にいる悪魔を祓ってみなさい。それが出来れば私はいますぐここから立ち去ろう」
「それが出来ないのはあなたも分かっているはず。まずは場所を移し、悪魔祓いの準備をする。そこから流れに沿って行わなければ本人含め非常に危険だ」
「その間にその子供は苦しみ続ける。そもそもの話として、そんな小さな身体が果たして悪魔祓いに耐えられるかどうか」
私の執り行う方法ならそれに対処できると、男は断言した。
神父はすぐに否定はしなかった。
ここはとりあえず話を聞いてみる。
「私は以前から教会のやり方に疑問を抱いていてね。確かに手順は大切だ。悪魔は非常に危険な存在。その扱いも慎重に行うという姿勢も分かる」
「……ならなおさら」
「抜本的な解決にはならないからじゃよ」
杖をついているにも関わらずしっかりと立ちつくす老人は、シルクハットから鋭い眼光を覗かせ、落ち着いた口調で続ける。
「悪魔祓いは例え能力のある司祭でも教会の許可が必要。これは個人そのものに力があるのではなくカトリックという宗派そのものに力があるという考えからくるもの。まあ、君にはそんな事は説明するまでもあるまい……問題はその教会側にある。近年になって色々と取り沙汰されたのは記憶にも新しい。今の上層部に敬虔な人間がどれだけいるか分かったものではない。不安定な社会に感化されるように堕落し、今日まさにその経典が蔑ろにされているといっても過言ではない……いや、やめておこうか。私ももう年だ。理想だけで語れるほど若くない」
年甲斐もなく熱くなった事に気づいたのか、男はまたシルクハットを目深く被った。
「時にお前さんはどうするつもりじゃ」
静かに男の話を聞いていた神父はハッとする。
「どうするとは?」
「目の前に悪魔に取り憑かれている少女がいる。教会の方針に則るとするとその子の中にいる悪魔を知るという流れになるじゃが」
「ああ、そのつもりだ。そこで悪魔の確認が取れれば管轄の司教に報告。明日の夜には執り行えるはずだ」
「……やはり遅い」
「しかし段取りというものは必ず必要なものだ。あなたのやり方には粗があり過ぎる。どちらが安全かなど比べるまでもない」
「それで救えたかもしれない命を救えなかった件数がどれほどあるか分かったものではない」
「あなたは我々を侮辱しているのか」
「別に侮辱はしておらんさ。ただ私は私のやり方で通させてもらうという話だ」
以前として引く姿勢を見せない男。話をしている最中も微動だにしないそれは一種の不気味さすら覚える。
そんな彼を凝視する神父とアテナ達。
彼の目的は何なのか。それが全く分からない。
と、その時だった。
「……ん?」
ミレーナの介護をしていた龍樹が何かに気づく。
視線を落として見る。
手の中で震えるミレーナ。その身体から出ていた煙が黒く濁り始めていた。
「お、おいアテナ」
慌ててすぐに状況を説明した。気づいたアテナはまたしゃがみ込み、ミレーナの様子を考察し始める。
本人もすぐに専門職の人間に声を掛けた。黒い煙を見た神父は驚いたようだった。
「馬鹿な。力も使用していないのに」
戸惑う神父。場数を踏んできたであろう人間がこの有様なら相当まずいということなのだろうか。
「じゃから言っておるじゃろ」
男は相変わらず冷静だった。
「時間がない、と」
ミレーナから吹き出る黒い煙を見ても微動だにしていない。それはその現象の根幹を理解しているからだろう。
「……何をした」
直感的に男が何かしたと感じた神父。これまでと違う攻撃的な視線でその者を問いただす。
かくして、男は隠すこともなくこう述べた。
「その子の中に巣くっていた悪魔を突付いた。刺激したと言った方が伝わりやすいかな。隠れている状態の悪魔を強制的に表に出す。君達で言う『問診』の段階か。ただしこちらはそれほど苦労する必要がないがね」
先の流れからも分かるように、悪魔祓いを行う上で大事なのはその正体を知る事だ。そして身体から出て行くことを誓わせる事で、完遂する。
しかしその男いわく、悪魔を直接攻撃することでそれらのいわゆる面倒な手順が省けるという。
神父にだって原理は理解できる。
もちろんそれに付随するリスクも。
「なんと非人道的な」
繋がりを持つ悪魔を無理やり引き剥がす。それすなわち憑かれた人間の身体にも相当な負荷が掛かる。
「こんな小さな子の身体にそんな強引な方法……何が私なら救えるだ。端から助ける気などないのか。例え耐えられたとしても後遺症が残らないとは言い切れない。それを理解した上でこんな手段を取ったのなら、あなたは悪魔そのものだ」
「ふむ。否定はせんよ」
男は間髪入れずにそう返した。
悪びれる様子もなければ誇る様子もない。
「何も生かす事だけが救いでもあるまい。悪魔に憑かれた人間は期間が長ければ長いほど苦しみ、やがては死にながらに生きてしまう。じゃが、君達と私の考えは違う。君がそれを救済と捉えないのであれば、私のやり方に不満を覚えれのも当然じゃろう……そもそも私の目的はその子供の救済ではなくもっと別にある」
ついに本性を現し始めた男。
いや、そもそもの前提として、男には偽善すら存在しない。
己が行っている行動に何の間違いもないとすら思っているように、その立ち振る舞いは屹然だ。
「とはいえ私だって正真正銘の悪魔ではない。その子供の中にいる悪魔はついでに祓ってやるつもりじゃよ」
「他の目的……だと?」
呆気にとられた神父。
元聖職者の発言とは思えなかった。悪魔を祓うのは迷える子羊の為ではなく自分の為。
救済など、そのついででしかないと言い放ったのだ。
「その目的とはなんだ」
最早怒りすら覚える神父。これまで自分が信じていたものが否定された気持ちだった。
そして一応は先輩に当たるその男に聞きたいという興味もあった。。
厳格であるはずのそれらを捨ててまで目指すものとは一体何なのかを。
「今は教えられんな」
しかし、これまで半ば開放的だった男はそこだけはそう言った。
「いずれ分かる事なのかもしれんが、むやみやたらにそれを露見する事もなかろう」
シルクハットを更に深く被りなおす。その動作は喋り過ぎたと自分に釘を刺しているようにも見えた。
「……そろそろか」
ぽつりと男は呟いた。
それはその原因を理解している事を意味している。
龍樹の手の中で眠るミレーナの身体から噴き出る煙はよく見ればある場所に集まっていた。
いや場所というかは動物。
薄黒い煙はニーナの元へと向かい、体内へと入っていく。それを吸い込むたびにあの大人しいニーナが苦しそうに呻く。
当然龍樹達は戸惑いの声を上げる。
思わず皆がニーナに視線を当てていた所で、
「トラジェメリレガーナ」
男の声が割って入った。
一同そちらを見直す。男はここも落ち着いた様子で補足する。
「悲劇の絆という意味がある。中級悪魔じゃが、ずる賢いやつで中々侮れない。絆が強ければ強いほどその楔は強くなり、また力が強くなる」
「絆が強ければ強いほど……」
その単語を口にするアテナ。
専門外である彼女にもそれが意味するものはあまり分からないのだろう。
今しがた男が言ったのはミレーナに取り憑いている悪魔の名とその特性。
全てを理解しているであろう男は続ける。
「そうじゃな。簡単に言えば、やめてほしい、こうなってほしいという欲。トラジェメリレガーナはそのもどかしさを好む。今回の場合はその犬じゃな。少女の生きていてほしいという強い欲。それを媒介に力を増幅させ、様々な現象を引き起こしているのじゃろう」
ニーナに集まっていた黒い煙はまその体内に収まらなかったかのように溢れ出る。
気づけば首には鎖のようなものが繋がれていた。構成物質はエクトプラズムだろう。飼い主であるミレーナの胸へと繋がるそれは彼女自身の未練が具現化しているらしい。
本来は認めなければいけない現実を彼女が受け入れていないと男は言う。
「悪魔は人間の『負』のエネルギーを受けることで成長する。このまま放って置けばいずれ上級悪魔に成り上がり、更にはその先に昇進してしまうだろう」
だから今潰す。
男の解釈はそうだった。
しかし神父も黙ってはいない。
「やらせんぞ。私の目の前でそのような行為」
もちろん喧嘩が強い訳でもない。何がどうなろうと食い止める。その確固たる信念による熱い言葉だった。
「……分からんやつじゃな」
対照的に冷めた口調で、男はため息すら吐いた。
「その間にこの子が取り殺されたらどう責任を取るつもりじゃ。それで迷える者を救う等、最早虚言者以外の何者でもない。今一度考えてみるといい。何が正しくて何が間違いかを」
「考えるまでもない。然るべき手順を踏んで祓うというその考えが変わる事はない。それがこの子にとって一番最善であり、なおかつ正しい道なのだ」
「まるで自らが神であるかのような言い様……この子の為? 自分のための間違いじゃろ」
「そう解釈してもらっても構わない。とにかくこの子は我々に任せてもらおう。はみ出しもののあなたの出る幕はない」
「……一つ教えといてやろう」
食い下がる神父に嫌気を感じながらも、男は告げる。
「確かに私はその子の身体の中にいる悪魔に刺激を与え、その現象を促進した。じゃがわしが突かんでもエクトプラズムは濁ったはずじゃ。何せ犬が動き続けている限り微量ながらも力が行使され続けているのだからな」
嘘ではないと、神父は思う。
でなければ動いているニーナに説明がつかない。
彼にだってニーナに纏わりつく異様な半物質は見えている。
なので、見えない人間よりも一層その可能性には説得力があった。
だからといって、神父に譲歩する気配はやはりなかったが。
男の言い分を理解した上で。
自分の主張を貫く。
「もうよろしいかな。こうしている間にも事態は進行してしまっている。一刻も早く準備を整えたい」
「それはいいが。この場はどうするつもりじゃ? 具現化はすでに始まってしまっている」
「まずは悪魔を沈め正常な状態に戻す。それからは今しがた述べた正統な手順で」
今後の方針を説明していた神父。
その時、近くにいたアテナは何かに気づいた。
「危ない!」
声を荒げ咄嗟の判断で神父の前に立ちはだかる。
直後だった。
壁となった彼女に突っ込むような形で、黒い何かが衝突した。
一瞬の出来事だった。
近場からの攻撃に反応すら出来なかった神父に代わり、アテナは牙を剥き出したそれの喉を腕で押し上げ軌道を逸らすと同時、蹴りを放った。
腹に炸裂した蹴りにより退けられた何かは、宙返りする形で少し離れた場所に着地し、再びこちらに牙を剥き出す。
驚き尻餅をついた神父はそれの正体を確認する。
ニーナだった。
ただし、先ほどまでの柔和で大人しそうな影などまるでない。瞳は赤に染まり鋭い牙は剥き出し、全体に影のようなものが纏わりついている。
「言わんこっちゃない」
淡々とした言葉が聞こえてくる。
今の出来事を見てさえ表情一つ変えない男。つまり、こうなる事さえも予想していたのだろう。
「悪魔たちも黙ってやられる訳がなかろう。下準備が出来る悪魔祓いと違い今の奴等を静めるのは中々難しいぞ」
わしに任せてはどうだ、と男は付け加えた。
それを誇示するためか隣にいた鳥が黒くなっていた。
眼が赤い。一瞬カラスかと思ったが、あの鶏冠はさっきまでいた鶏だろう。
黒い毛並みに赤い眼。そこにはニーナと同じ特徴が見受けられた。
「……あの鳥は悪魔か」
今見るとはっきり分かるが、最初は気づかなかった。
恐らく霊力を隠していたのだろう。
しかし霊力とはオーラのようなもの。
人間とは種類が違うが、それを見る事の出来る悪魔といえどそうそう隠し通せるものではない。
となると、ニーナ同様外部からその恩恵を受けているのだろう。
つまりはその男。
元神父であるその男なら、あるいはそういった霊的なものに関して精通していてもなんらおかしくはない。
そんな事を考え、ぼんやりとしていると、
「神父」
名を呼ばれた。
我に返る神父。彼の目の前にいるアテナはすでに現実を見据えている。
「とりあえずどうすればいい。あの悪魔を追い払う方法は」
「……どうだろうか」
立ち上がり、神父もその問題に向き合ってみる。
「恥ずかしい話、動物に憑いた悪魔を祓った事はない。あの男の話だと言葉が通じるようだが……」
「聖水を掛ける程度じゃ駄目なの?」
「あれはそこまで強力なものではない。確かに動きを鈍らせることはできるだろうが、何分貴重なもの。今も小瓶にあるだけだ」
「無いよりかはマシという訳ね」
ポジティブに考えるアテナ。いや彼女の場合はただ単にあるがままの状態を確認しているだけなのだろう。
専門でない以上、信憑性はいまいちだが。
「それで、聖水を扱うにしてもニーナとミレーナ。どちらに掛ければいいのかしら?」
「すまない。それも分からない。そもそもあの悪魔さえ初めて見たもの。むしろなぜ彼がそれを知っているのかが疑問に思える」
悪魔の数は人類よりも多いとも少ないとも言われその数は曖昧だ。
ただ、決して少なくないのは事実。
世の中で出回っている悪魔の名は有名所が知られているだけで、そこは人間同様姿や性格も違う連中が存在する。
つまりそれら全てを知るのは実質的に不可能であり、また特性は分かれど名前まで割り出せるのは何らかの関係を築いた経緯があるという事だろうか。
となってくると益々怪しい。
今回の件はあの元神父が撒いた種だと疑わざるを得ない。
それを問い詰めた所、
「いや、わしは何もしておらんよ」
と男は否定した。
嘘をつく可能性だってあったのだが、なぜかその男が嘘を吐いてるようには思わなかった。
それほどまでに落ち着いている。
最早自分が犯人なら犯人と名乗り出そうな余裕すら漂わせていた。
「霊痕を辿って来ただけじゃ。家畜殺しの件に関してもこちらに来て初めて知った。まあ気の毒としか言いようがないかの双方ともに。とはいえ悪魔と契約したのはその子自身、同情はせんが」
男が話している最中も、ニーナの攻撃はやまなかった。
機敏な動きと鋭い牙はまさに獣。自分よりも大きい家畜たちを噛み殺したのも納得できる。
元々瞬発力は人間よりもはるかにいい。そこに加わる悪魔の力。
あのアテナといえど、攻撃をかわすので精一杯だ。
それを見て決断したのだろう。
「……やむを得ない」
言いにくそうに、神父は口を開く。
「取り押さえられない以上、彼女ごと消滅させるしかない」
その考えはアテナの中にもあったのだろう。だからこそ懸念もあった。
飛び掛ってきたニーナを蹴り飛ばし距離を開けると、それについて話し合う。
「消滅って言うのは、もちろん肉体的な事を言っている訳じゃないのよね」
「ああ。魂の話さ。今ニーナの魂は悪魔と融合している状態だ。それも肉体と完全に分離しているが為に、その結合はより強固なものになっている」
「消滅、って事が具体的にどういうものなのか分からない。普通に死ぬのとは何か違うの?」
「違うな。肉体を離れた魂はある一定の場所に留まり次の段階を迎えるのを待つ。しかし消滅はその名の通り完全に消えてなくなる。この世からもあの世からもな」
本当は諸説あるのだが、彼が信仰する教えではそう解釈されている。
ようは世界の法則から外れ、その魂は未来永劫存在することは無い。
それが救いかどうかなど考えるのも空しい話。
「このままではいずれ人間も殺すだろう。恐らく昼間に動かなかったのは周りに悟られない為。ばれた以上どんな手段を取るか分からない」
むしろニーナとミレーナはエクトプラズムで繋がっている状態。順応した悪魔はその気になれば幼い命すら道連れにするかもしれない。
「幸いにも今悪魔の力はほとんど犬の方へと振り分けられている。今消滅させれば、あの少女の身体に残るエクトプラズムは少量だろう。それこそ聖水で掃えるほどのな」
「……そう」
どこか納得のいかなさそうに呟くアテナ。
本当に道はそれしかないのだろうか。
お人よしな彼女の事。
そんな甘ったるい事をまた考えているのだろう。
だが再三言うようにそこは専門外。
思いつくまで待ってくれるほど世界は優しくない。
「で、どうすれば消滅させられるの?」
手順を伺うアテナ。神父はわずかに目を細め、
「方法は簡単さ。ただあの身体を傷つければいい」
「傷つける……それは肢体に損傷を与える程度のものよね」
「ああ。さらに言えば命を奪うほどだな。酸素などと同じで、容れ物をいきなり無くせば悪魔はその形を維持できなくなる」
「……妙ね。その話だと悪魔が死ぬだけじゃないの?」
「それがまた違うのだよ。言っただろ、悪魔と完全に結合してしまっていると。だから今は悪魔の一部となってしまっている。悪魔祓いに手順が必要なのはそれを引き剥がす必要性があるからだ。だからあの男が言ったように無理やり引き剥がすのは危険なんだ」
「……そう」
これまた納得がいかなさそうな反応。
彼女自身これまで悪魔憑きとは闘って来たことがある。できる限り殺さないようにはしてきたが、なにせ人外な力を扱うので、中には殺さざるを得ない状況というものもあった。
下手をすれば、それらは全て消滅してしまったのかと考えたのかもしれない。
だからといって、彼女がやる事は変わらないが。
「風達は寄り添い蜜となる(riunione bil vento)」
」
風を集める。霧をも巻き込みながら掌に集約されていく冷気たち。
「凝縮(Condehsazione)」
形を整え、準備を整える。
犬一匹の身体をズタズタにするのは彼女にしてみれば簡単な話だ。
空気が完全に変わった。
周囲のではない。
アテナ自身のだ。目が鋭くなり、これまでの億劫そうな雰囲気が一変する。
プロの目、といえば陳腐に聞こえるが、そこには本格的な威圧感があった。
例え本意でない殺しであっても手を抜かない。
それはまさに場数を踏まなければ達しない境地。
碧眼はすでに標的であるニーナを捉えていた。こちらの様子を伺っているのか、動く気配はない。
彼女の場合、そちらの方が好都合。
スッと、手を前に翳すアテナ。
圧縮した風の塊をニーナに向ける。後は引き金になる呪文を紡げば風の塊は射出され、それにより動くであろうニーナに対応すればいいだけだ。
「……駄目」
その時。
どこからか聞こえた弱々しい声。
反応を示してしまうアテナ。
見れば、龍樹の腕で横たわるミレーナが必死に訴えかけていた。
「お願いだから殺さないで。ニーナは大人しくて良い子なの」
汗だくで目を瞑り放たれるそれはうわ言のようだった。
嫌な夢でも見ているのだろうか。瞑った目からは一筋の涙のようなものが頬を伝う。
「……」
アテナの心情が揺らいでしまったのは明白だった。
風の下準備はすでに整っている。放たない理由はないはずなのに、ついつい攻撃を躊躇ってしまう。
それでもと、彼女は非情に振舞おうとしたに違いない。
同情をすぐに拭い去り、ニーナへと意識を向け直した直後だった。
意識が研ぎ澄まされすぎているがゆえにと言うべきか。
ある小さな変化を、彼女は見逃さなかった。
一瞬だが、あのニーナが小さく鳴いた。まるで犬が主人に甘えるような撫で声。
またしても躊躇いが生じたのか、アテナの表情が険しくなる。
そして。
まるで何かに反応したような鳴き声を合図に、ニーナは動き出した。
アテナへと猪突猛進していく。
一方のアテナもそれに対応する。攻撃の手段を変え、掌の風をそのままに真正面から立ち向かう。
牙を剥き出したニーナをかわすとその腹に風の塊を押し当てる。
それだけでニーナは弾かれたように横合いへと飛んでいった。
そこは犬のような声できゃいんと悲鳴を上げ、ニーナは約七メートルほど飛ばされる。
そしてアテナはそれを追走――ではなく、
彼女はジャンプ一つ龍樹の元へとやってきた。正確にはその腕で眠るミレーナの元へと。
何事だろうかと呆気にとられる龍樹。
それは神父も同じようで。
半ば戸惑いつつ、彼女の事を注視していた。
「起きなさいミレーナ」
険しい口調。
アテナがそう言い放った所で、神父も口を挟む。
「あまり無理をさせないほうがいい。わずかとはいえ今は魂が繋がっている状態。刺激を与えるとどんな事が起こるか分からない」
「ええ。ただ少し試したいことがあってね」
「試したいこと……」
忠告しつつも、それが気になる神父。
とそこで、先ほどのアテナの声にミレーナが反応を示した。
目を薄く開け、呼びかけた者を見据える。
「……お姉ちゃん?」
現状確認しようとしているのは、意識が朦朧としている証拠。やはりあまり無理をさせないほうがいいのだろう。
なら手っ取り早く済まそうと思ったのか、アテナは早速用件を述べる。
「ミレーナ。よく聞きなさい。認めたくないのは分かる。ずっと一緒にいた大切な友達だものね。私にもいなくなってほしくない人はたくさんいた。でも、ちゃんと受け入れないと先には進めないの」
幼い少女には、彼女が何を言いたいのかは分からなかった。ただなんとなくだが、これは悲しいお話なんだろうなあと、ぼんやりとした意識の中で、ミレーナは感じ取っていた。
「ちゃんとお別れをいいなさい」
決定的な言葉をアテナは突きつけた。
「ニーナはもう死んだの。この世にいちゃ駄目な存在。あなたも頭の中では分かってるはずよ。こんな茶番はもうやめて、いい加減現実と向き合いなさい」
「……嫌だ」
やっとはっきりした返事をしたかと思えば、そんな言葉。
大人が子供を叱り、それに反発する子供。そんな典型的な光景がそこにはあった。
何がどうなるとかは関係ない。
最早問いかけられる見解に、意地だけでミレーナは言葉を返す。
「ニーナがいなくなっちゃったら私ひとりぼっちになっちゃう。パパもママも仕事ばっかりでミレーナの事はどうでもよさそうだし、一緒に遊ぶ友達は誰もいないし……そんなの嫌だよ」
極めて幼稚な理由だった。
しかし、年相応といえばそれまでだ。
夫婦共働きが当たり前なイタリアでも、やはりそれに対して耐性があるかといえばそうでもない。
何よりも消極的な性格のミレーナ。唯一の友達をおいそれと諦めれる訳がなかった。
「大丈夫よ。あなたはいい子。これから先気のあう友達がきっと出来る。だからもうニーナは開放してあげて」
「出来ないよ……ミレーナは面白くないし暗くて何にも出来ない。それに、やっぱりニーナには傍にいてほしい」
「……あれを見ても同じことが言えるかしら」
言いにくそうにそう言うと、アテナは振り返った。釣られるように、ミレーナもその視線を追う。するとそこには黒い影に覆われた犬のような動物がいた。
それを見たミレーナは内心ぎょっとし、身を縮こまらせる。
「何あれ……おばけ?」
「いいえ。ニーナよ」
現実を突きつけるべく、単刀直入に言い放ったアテナ。それを聞くとミレーナはより一層驚いた。
「嘘だ……」
「嘘じゃない。あれは紛れもなくニーナ。今は悪魔に身体を乗っ取られているの」
「そんな……じゃあやっぱり動物を殺したのはニーナなの」
「それは分からないわ。でもきっとそう。ニーナはね。この世にい続けるためには動物たちを殺し続けなければいけないの。そんなの彼女が望んでいると思う?」
「……思わない」
子供にも分かるように一つ一つ、手順を踏んでいく。ミレーナの心情に同調してか、ニーナは大人しくこちらを見つめている。
まるで次の命令を待っているかのように。
現にそうなのだろう。
トラジェメリレガーナはその絆を逆手に取る。
つまりミレーナのこうあってほしいと思う気持ちに答えようとするニーナの忠誠心を逆手に取り、これまで支配してきたのだろう。
違ってほしいと思えば、例えそれが違っていてもそうなろうとしてしまう。
世の中の法則に逆らう代償としての力。
だから彼女の意識を奪って現状から目を逸らさせ、その間に自分の力を強めていく。
「分かった? 本当にニーナの事が好きなら、ちゃんとそれを受け止めるの。そうすればニーナは天国へと行ける。このままだとニーナは悪魔に取り付かれたまま苦しみ続けなければならない」
諭し続けるアテナ。それでもミレーナの意思はイマイチ固まらない。余程離れたくないのだろう。いけない事と分かっていても、その決断に踏み出せない。
唇をかみ締めながら堪える姿は見ている方がいたたまれない。
それでもアテナは容赦しなかったが。
「……もういいわ」
怒りすら見て取れた。
何がいいのだろうと、疑問に思うミレーナ。
「風達は寄り添い蜜となる(riunione bil vento)」
するとアテナはまた風を集め始めた。広げた掌に渦を巻きながら集約する風達は少女にとって興味の対象になる。
しかしそんな楽しいものでないのはすぐに分かった。
「凝縮(Condehsazione)」
圧縮され、風が丸い球体に形付けられた。
それで何をするつもりなのか。
アテナは敢えてそれを告げる。
「あなたがニーナの死を受け入れないのなら。私がニーナを殺してあげる」
「!? 駄目!!」
がばっと、勢いよく龍樹の手から起き上がったミレーナ
しかし食って掛かったはいいものの、次にどうすればいいかが分からない。
元からそこまで悪知恵は働かない。
分かりやすくおろおろし始めるミレーナ。
とどのつまり、最後は子供らしく駄々をこねはじめた。
アテナを睨んでいた顔に段々締りがなくなっていって、
「うわあああああ――――ん!」
と、ついには声を上げ泣き出した。
止め処ない感情があふれ出す。
「だって、どうすればいいか分からないよ。いままでずっと一緒にいたのにもう会えなくなるなんてそんなの絶対嫌だ。どうしてミレーナばっかりこんな目に遭わなきゃだめなの? おじいちゃんの時だってそうだし、ママだって最近身体が悪そうだし……きっと皆死んじゃうんだ。皆死んで最後はミレーナがひとりぼっちになっちゃうんだ!」
恥ずかしがり屋なのを忘れ、人目を憚らず泣き喚くミレーナ。
こんな時にも表情を崩さないアテナも流石だが、一思いにニーナに攻撃しないのはやはり戸惑いを感じているからだろうか。
神父はあたふたしている。彼もこれくらいの子供がいてもおかしくない年頃。こういう機会に遭遇していればいくらか免疫は持てたのだろうか、恐らくは職業柄結婚はしていないのだろう。
一方全く状況が飲みこめないのが龍樹。
言葉も通じないし、いきなり腕の中にいた少女は泣き出すし。
目まぐるしく移り変わる展開に頭がパニックに陥りそうだった。
アテナに話を聞いてみたいところだが、そのタイミングすら掴めない状況。
蚊帳の外もいい所だ。
「お願いだよニーナ!」
声を一層張り上げ、黒い影に覆われたその体に走っていき、飛びつくミレーナ。
「どんな姿でもいい。どんなに世話が掛かってもいい。だからこれからも一緒にいてよ……もう一人ぼっちはやだよ」
離れないように、強く抱きしめる。
本当に姿がどうあれ、世話がどうあれ、関係ないのだろう。
ただ純粋に一緒にいたい。
それが何を意味するかすら曖昧にしか分かっていないはずだ。
死ぬのがしょうがない事だなんて理解すら出来ない年頃。
不条理な世の中に憤りすら覚えているかもしれない。
誰も何も言えず、大切な友達を抱きしめる少女を見ていた。
小さな身体で異形なそれを抱きしめる姿は同情的でとても心が痛む。
ニーナの体に纏わりつく黒い煙は完全に色濃くなり、最早原型を窺わせない。
紅い瞳に鋭い牙は、さながら空想の魔獣そのものだ。
抱きしめられている間、二ーナは特に動きを見せなかった。
規則的な何かがあるのか。はたまたわずかに残っている自我はどうすればいいのか迷っているのか。
結局どう動けばいいのか分からず、数十秒が経過した。
そこで神父がある事に気づく。
「まずい!」
咄嗟に声を張り上げる。
「早くその子に他の事を考えさせるんだ! でなければ悪魔に身体を乗っ取られてしまうぞ」
言うのが遅かった。というより、例え早くても打つ手はなかっただろう。
なぜなら少女にとって大切な友達を上回る存在などそうそう無かったのだから。
直後だった。
ニーナから伸びたエクトプラズムはミレーナと繋がる鎖に一気に流れ込み始め、その体内に逆流する。
「か、あ――はっ、!?」
苦しそうに胸を押さえるミレーナ。
やはり小さな身体には負担が大きすぎるのだろう。
不道徳な願いだろうと、悪魔は叶える。
もちろんそこには多大なリスクが伴うが。
息の軌道を確保しようとしているのか、声にならない声を漏らし、必死に抗うミレーナ。
「おいおい、一体何が起こってんだよ」
狼狽する龍樹。
ニーナから放出されるエクトプラズムがミレーナに纏わりついているのがよくない事は分かる。
あれは悪魔の何かしらの形。
言い換えれば悪魔そのもので、それが今ミレーナに作用している。
「神父!」
龍樹に構わず、アテナはそう叫んだ。狼狽する彼には悪いがまずは自分が状況を理解せねばならないのだろう。
やはり芳しくないのか。
「恐れていた事が起きてしまった」
神父は険しい表情で歯噛みする。
果たしてこの展開すら予想していたのだろうか。
遠いところからこちらを窺う男。
その表情は、やはり微動だに動かなかった。




