6、百合の香りに誓う
14歳の夏だった。
王宮の夜会は、息が詰まるほど眩しい。
燭台の光、笑う声、ゆっくりと流れる音楽。
私はその喧騒の中、勿忘草色のドレスの裾をさばきながらこっそりと抜け出して、中庭へと続く回廊に滑り込んだ。目指すのは、私より一足先にこの「戦場」を放棄した、困った"あるじ"の姿だ。
もっとも彼はすぐに見つかったが。
『坊ちゃん、こんなところで何してるんです』
『隠れん坊』
『はあ?』
『終わるまで隠れてる』
端的な答えに、思わず苦笑する。
『……このドレス、カール殿下がわざわざ用意してくださったんですよ。無駄にさせないでください』
その時、足音がもう一つ。
『やっぱりここか』
聞き覚えのある声とともに現れたのは、カール王子だった。今宵の主役であるはずの彼は、堅苦しい正装を少しだけ着崩し、悪戯っぽく目を細めている。
『二人とも、私の誕生パーティーなのに主役を置いてけぼりにするなんて、酷いじゃないか』
そう言って笑う王子の表情は、先ほどまで大広間で貴族たちに向けていた完璧な仮面よりも、ずっと幼い。
『十四歳の誕生日、おめでとうございます、殿下。でも主役が抜け出したらダメですよ』
『僕は、逃げた獲物を追いかけてきただけだよ』
冗談めかした言い方だったが、その視線は真っ直ぐに坊ちゃんへ向いている。
『リュート、顔色が悪い。大丈夫かい?』
殿下は迷いのない足取りで距離を詰めると、自然な手つきで坊ちゃんの頬に触れた。
普段なら他人の接触を嫌う坊ちゃんなのに、今は動かない。
その白い指先を受け入れるように、ほんの少しだけ睫毛を伏せた。
『……寝不足なだけだよ』
いつもの素っ気ない返事。けれど、その声は夜風にのって僅かに震えている。
『本当かな。今日は一回も踊ってないだろ』
『苦手なんだ』
『ふーん。じゃあ、上手く踊れるように僕が教えてあげる。――今、ここで』
そう言って王子が坊ちゃんの肩を引き寄せた。坊ちゃんの視線は泳ぎ、困ったようにそっぽを向く。
『……音楽がないだろ』
『あ、じゃあ、私が歌います』
即座に返した提案に、坊ちゃんがぎろりと私を睨みつけた。
『おい!ローズ!』
抗議の声を上げる坊ちゃんの腕を、殿下は逃がさない。強引に、けれど優しくその手を取り、鮮やかに一回転させる。
驚きに目を見開く坊ちゃん。けれど王子は止まらない。
月明かりが照らす石畳の上に、二人の影が重なり、離れ、また近づく。
二人を見やりながら、私は静かに街の流行歌を口ずさんだ。
私は忘れない。
坊ちゃんが王子に向ける瞳が、月光を反射して、どこまでも美しく揺れていた事を。
そしてこの夜の、肌に触れる温度も、庭の隅に咲く数本の百合の香りも、私の歌声も、二人は、きっと忘れない。
◇
結局、叫んでも、誰も来なかった。
家族に疎まれ、召使いたちからも遠巻きにされていた坊ちゃん。もっとも、今更誰が来たところで、もう手遅れなのだけれど。
私は彼の胸に顔を押し当てた。
何の鼓動もない。わずかに残る体温が、残酷なまでに愛おしい。
涙はとまらない。
「ベッドで寝てろって言ったでしょう……」
その時、廊下の向こうから乱暴な足音が聞こえ、扉が跳ねるように開いた。
息を切らしたカール王子がそこに立っていた。あの後、追いかけてきたのだろう。
彼は一瞬で状況を理解し、その顔から一切の血の気が引いた。
「……そんな……」
その一言が、あまりにも無責任に聞こえて、私の中の何かに火がついた。
私はゆっくりと顔を上げ、王子を射抜くように睨みつける。
「全部、あんたのせいよ」
「違う……私はそんなつもりじゃ——」
王子はそこから一歩も動けなかった。近づく資格がないと、己が一番理解しているのだ。
「もう、坊ちゃんは帰ってこないのよ」
「……」
「悲しい?」
「……ああ」
私は笑った。ひどく歪んだ、壊れた笑いだったと思う。
「ねえ、殿下」
「……何だ」
「二人で、坊ちゃんを追いかけませんか?」
王子は、ゆっくりと首を横に振った。
「無理だ」
「そうでしょうね」
私は懐の小刀を握りしめた。王子は怯えるように私を見る。
「……やめろ、ローズ」
「どうして? 坊ちゃんを、一人で逝かせてしまったのよ」
後悔が、憎悪が、胸の内で黒く渦巻く。私は王子の前に立ち、逆手に持った小刀の柄を、あえて彼の方へと差し出した。
「私をこれで殺して」
「……やめてくれ」
「私を生かしておくと、この先、あなたの歩くすべての道の泥になりますよ? いいんですか?」
王子の顔が苦痛に歪み、王族としての矜持が崩れていく。
「君に……たかが一介の侍女である君に、何ができるというんだ……」
「呪ってやる」
言葉が呪詛となって口から溢れる。全ての憎悪を瞳に宿し、飢えた魔獣のように彼を見据えた。
「あんたがのうのうと生き延びて、あのカミユと結ばれるというなら——私はあんた達の望む未来を、叩き潰してやる。それが嫌なら、今ここで私の息の根を止めて!」
泣き叫び、床に突っ伏した私に、王子の震える声が降ってきた。
「……無理だ……私には、君を殺すことなど……」
私は顔を上げた。涙と鼻水、よだれさえ混ざり合った、獣のような形相で。
無様に歪んだ視界のまま、小刀をゆっくりと懐へ収める。そして、眠るように静かなリュート坊ちゃんの死に顔を、狂おしいほどに見つめた。
「……坊ちゃん。誓いますわ。カールも、カミユも、必ず地獄へ送ります」
亡き主君の足元に跪き、私は誓いを立てる。
王子が呆然と息を呑む音が聞こえた。
「王子殿下。今日、私を殺さなかったこと。……死ぬまで後悔させてあげますわ」
袖で顔を拭い、私は一度も振り返らずに部屋を後にした。
廊下を歩くほどに、涙が再び頬を伝う。
あの日、私たちは確かに三人だった。
けれど今は、二人でいることさえ許されない。
温室から這い出した百合の香りが、逃れられぬ呪いのように私を追いかけてきた。




