3、婚約解消前日
不遜極まりない問いかけに、王子は目を見開き、やがて静かに答えた。
「……その通りだ。明日、正式に発表する」
あまりに重い肯定に、私は肩をすくめた。
「坊ちゃん、毎日部屋で泣き叫んでいますよ。涙と、趣味の悪いマスカラが混ざって、汚いんですよね」
「言葉を選べ。彼が何を纏おうと、それは咎められる理由にはならない」
「まあ、そうなんですけど、でも、似合っていないんですよね。あのド下手な塗り方の黒いマスカラ。誰があんなものを教えたのかしら」
王子がわずかに眉を寄せる。
「……流行を売り込む連中だろう。リュートは、周囲の視線を気にしすぎている」
私は鼻で笑った。
「昨日、全部落としてやりましたわ。熱いタオルで力任せに。そうしたら、まあ、可愛らしい顔が出てきまして」
「……乱暴なメイドだな。だが、素の魅力を損ねていたのは事実だろう」
沈黙が流れる。私はさらに声を軽くした。
「継母に詰られ、異母弟には馬鹿にされ、父は無関心。その上、婚約者にまで裏切られたら、最後に彼が縋るのは『小刀』くらいかもしれませんわね」
冗談めかして笑う私を、王子の鋭い視線が射抜く。
「おい……それは笑い事ではない。刃物など持たせるな」
「そんなに驚かなくてもいいですわ。坊ちゃんたらずっと小刀を机に隠しているんですもの。『これがあれば、いつでも逃げられる』ですって」
王子の表情が、はっきりと曇った。
「……今すぐ彼のそばに戻れ。彼を落ち着かせ、刃物を遠ざけるんだ」
「あら、お優しいことね。今更ですわ」
私は腕を組み、じっと王子を見つめた。あの小刀なら、すでに見つからないよう回収して私の懐に隠してある。
「明日の卒業式、坊ちゃんとの婚約を破棄して、例の男爵令息――カミユと婚約発表をするのでしょう? あの噂の『可愛い恋人』と」
王子は否定しなかった。
「……解消だ、破棄ではない。私は、リュートを見捨てるつもりはない」
――ほら見なさい。
この人には坊ちゃんを切り捨てる勇気なんてない。それが坊ちゃんにもわかってしまうから、思い切ることもできないのだ。
「気に入らないわ。その、善人の振り」
「彼を壊したいわけじゃないんだ」
私は小さく舌打ちをした。
「頭お花畑! あんたは坊ちゃんにどうしてほしいのよ!」
「……幸せになってほしい」
その言葉に、虚しさが広がる。愛されて育ったこの男に、坊ちゃんの孤独など分かるはずもない。それでも、私は最後の期待を込めて問う。
「坊ちゃんを助けたいという気持ち、嘘ではないのですよね?」
「もちろんだ」
ならば。私は目を伏せた。
「……だったら、カミユを選ぶのは止めて下さい」
「ローズ……それは、出来ない」
あら、殿下、私の名前覚えていたんですね。最近は目も合わせてくれないから、貴方の頭の中から、昔遊んだ他家のメイドの事など消滅したのだと思っていましたわ。この大嘘つきの裏切り者。
「どうして? あんな男、一晩味見しただけで十分でしょう。――ああ、坊ちゃんの味も知りたいと? 今からでも試してみます?」
王子は私の最大の侮辱に息を詰めた。
「ローズ……私はカミユに責任がある。だがリュートには――もう、同じ意味での責任は持てない」
――本当に卑怯な男。
私は喉の奥で笑った。
「そうですか。では交渉決裂ですね。それなら私、坊ちゃんに好きなようにさせます」
「それは忠義ではない! 彼を守ることにはならないだろう!」
「じゃあどうしろって言うのよ」
「……延期する」
王子が低く、絞り出すように言った。
「明日は婚約解消のみを発表する。新たな婚約は、当面伏せるつもりだ」
馬鹿馬鹿しくて、目が眩みそうだった。
「何の解決にもなりません。だいたい
カミユが現れるまでは、坊ちゃんをいとしく思っていたくせに」
王子は拳を握りしめた。私はそれ以上何も言わず、一歩引いて頭を下げる。
「では、ご機嫌よう」
「待て!」
王子の声には、確かな焦燥が混じっている。
「彼を守るための措置は取る!だから……!」
その言葉が、空虚に響く。
「……裏切ったあんたも、人の婚約者を誘惑したカミユも、絶対に許さない」
窓から差し込む陽光は、やけに白かった。
「……カミユは、私に安らぎをくれたんだ」
立ち去りかけた足を止め、私は最後にもう一度だけ振り返った。
「そう。その代わりに、坊ちゃんを地獄に送るのね。――虫唾が走る」
それだけを言い残し、今度こそ駆け出した。立ち尽くす王子を置き去りにして。
婚約解消は、覆らなかった。
早く帰らなければ。
私は黒馬に飛び乗り、風を切って走り出す。
一刻も早く、あの屋敷へ。
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