12、返されたガラスの指輪――完璧な王太子妃は崩れ始める
王宮の広間に響き渡る円舞曲は、本来ならカール——私にとって、義務を果たすためのBGMのはずだった。
前には国王夫妻である私の父上と母上、隣には可愛らしき妻カミユがいる。カミユのステップは完璧で、私たちが踊れば夫婦の仲睦まじさを周囲に誇示でき、妻は悦びに満ちる。
王室は安泰だと、貴族たちの羨望を浴びながら、私は妻の、何も感じない手を握りながら、王子という役を演じ続けていた。
だが、広間の入り口に、白い夜会服を纏った人影が現れた。
ローズ。
彼女はドレスではなく男物の白い夜会服を着込んでいて、性別が不思議なほど曖昧に思えた。長く鋭い睫毛を縁取る漆黒のマスカラは、彼女の瞳に騎士のような冷徹さと、鋭い色香を与え、私の視界を暴力的に奪い去る。
「あ……」
喉の奥で、無様な音が漏れた。
心臓が警鐘を鳴らす。胸の奥に何かが押し寄せて苦しい。これ以上見つめてはいけない。あれは、私が忘れようとしても忘れられない美しく恐ろしい過去。
ローズが踊り始めた。
学生時代「ダンスの名手」と謳われた彼女。だというのに、今の彼女のステップはひどく覚束なく、乱れている。
──違う。これは彼女の踊りじゃない。
この、ぎこちなくも懸命な足取り。既視感に殴られたような衝撃が走る。
彼女は、「彼」の……リュートの踊りを、わざと不器用に再現しているのだ。
ローズの視線が、射抜くように私を捉えた。
音楽の調べを突き抜け、彼女の唇が音もなく言葉を紡ぐ。
──殿下。あの日の坊ちゃんの踊りは本当に下手でしたね?
その瞬間、思考が白濁した。
耳の奥で、あの日、月の下の歌声とリュートの美しい瞳が蘇る。
隣で私に話しかけていたカミユの存在など、霧の彼方へ消え失せた。
「カール殿下?」
不安そうに声を震わせるカミユの事など、どうでもよく、私は吸い寄せられるように椅子から立ち上がった。
周囲の視線も、父上の叱責を含んだ視線も、届かない。
ただ、駆け寄って夢中でローズの手を取る。
彼女が纏う「リュート」の影に、触れたくてたまらなかったから。
ローズが笑う。いや、これはリュートだ。
もう、逃げられない。
彼女の差し出した掌の中へ、私は自ら堕ちていく。
曲が終わった瞬間、ローズはすっと私の手を離した。
夢から覚めるような、冷たい感触。
「……ローズ」
縋るように名を呼ぶ私を、彼女はまっすぐ見上げた。その瞳には、かつて私が知っていた温かい眼差しはどこにもない。
「殿下」
彼女は懐から、何かを取り出した。
小さな、安物のガラスの指輪。屋台で売るような、子どもの玩具。
「……これは」
「覚えていらっしゃいますか。十五の夏、三人でお忍びで祭りへ参りました時に、殿下が坊ちゃんにお買い求めになりました」
声が、遠くなる。
あの日の喧騒が蘇る。人混みの中、リュートが露店の前で立ち止まり、眺めていたので私が気づいて買ってやると、彼は
『子ども扱いしないで』
と言いながら、耳まで赤くした。
「……坊ちゃんは、最期の日まで大切にされていらっしゃいましたわ」
その言葉が、胸の奥に鈍く刺さった。
ローズは指輪を私の手のひらへ静かに置いた。まるで、返却するように。
「坊ちゃんは殿下に持っていて欲しいと思いますので」
「そんな事……」
「不要なら捨てて」
そのまま彼女は立ち去った。
私は手の中の、軽すぎる指輪を見つめた。これをずっと持っていた。
あの部屋で一人、死を選ぶその日まで。
「……リュート」
名前を呼んでも、もう誰も答えない。
周囲の喧騒が、遠い波音のように聞こえた。父上が私を呼んでいる。だが何も、届かない。
指輪を握りしめたまま、私はいつまでも広間に立っていた。
音楽が次の曲へ変わるが、それでも足が動かなかった。掌の中のガラスはひどく冷たく、小さく、軽かった。
◇
……遡ること九年前。
カールとカミユが盛大な結婚式を挙げて間もない頃のことだった。外国からの使節との歓迎の宴。カミユは微笑みを絶やさず、完璧な王太子妃を演じている。だが、相手の言葉が、どうしても聞き取れない。
必死でわかる単語を拾うが、数秒の沈黙が流れる。大臣が慌てて間に入ったが、貴族たちの視線は冷たくカミユに刺さった。屈辱の中、カミユは美しく微笑み、その場をやり過ごす。
宴が終わると、周囲からは囁き声のような蔑みが漏れた。
「王太子妃なのに、語学ができないなんて……」
反論できない罵倒にカミユは服の裾を握りしめ、逃げるように廊下に出た。
悔しさに唇を噛み締めていると、
「お疲れ様でした、妃殿下」
ローズが恭しく声をかけてくる。
「今後、アーデア国使節には通訳をご用意してもらうよう、殿下にお願いしてはいかがでしょう」
「必要ない。僕が勉強すればいいんだから」
「……そうですね。努力は大切ですから。」
ローズは冷たく笑い、思い出したように続けた。
「前婚約者であったリュート様は、殿下のご負担を減らすために、六カ国語を操られました。王太子妃なら、当然の嗜みですものね。幸いわたくしもアーデア語は習得済みですので、困ったことがあればいつでもお呼びくださいませ」
「……ありがとう」
そう言って逃げるように立ち去るカミユをローズは仄暗い瞳で見送った。
◇
――そして、現在。
王城の一室。過不足なく整えられた執務室で、王子は振り返り、誰もいないはずの空間に微笑んだ。
「……来たのか」
返事はない。だが彼は、確かに“そこにいる”ものを見ている。
それは白い影。あの日と同じ顔で、同じ静けさで、こちらを見つめる幻。
「今日も、静かだな。ほら、百合の香水を用意したんだ。この瓶、綺麗だろう?」
誰も答えない。
王子は小さく頷くと、香水の栓を抜き、それをテーブルの上にぶちまけた。
むせ返るような百合の芳香が部屋を満たし、滴り落ちる。
王子は満足げに、穏やかに笑った。
その瞳は、もうどこにも焦点が合っていない。
百合の香りが、すべてを優しく塗り潰していく。




