最終話、三人の庭 ――百合はいつまでも優しく香る――
あの舞踏会の日から、歳月だけが積み重なった。
寝台の周囲には、最低限の者しかいなかった。窓の外では朝日が昇り、白い光が静かに室内を侵食し始めた頃。
医師、数人の侍従と侍女、そして――私と、数年前に王妃となったカミユ。
カール陛下の呼吸は浅く、途切れがちで、もはや長くないことは誰の目にも明らかだった。命の蝋燭が燃え尽きるにはまだ早すぎる年齢だ。けれど、陛下の精神はあの日から疾うに壊れており、肉体の寿命さえも今、尽きようとしていた。
彼は、かつての婚約者の幻影だけを追い続け、今日まで生きながらえてきたのだ。
「……陛下」
カミユが、そっと呼びかける。その声は年齢に似合わず、枯れ果てた木のように掠れていた。
陛下の唇がわずかに動く。誰かの名を、形作ろうとしている。
カミユは、すがるように身を乗り出した。
「ここにおります。……あなたの妻です」
声は震えていた。法的にも、立場としても、何一つ間違っていないカミユの切実な訴え。
陛下の目が、ゆっくりと開く。焦点は合っていないが、確かに何かを“見て”いた。
その視線は、目の前の伴侶を無慈悲に通り越し、もっと遠く、ここではない場所へ向けられている。
「……ゅ……」
空気が震える。カミユも嗚咽を堪えながら、返事を絞り出した。
「……はい、ここに」
さらなる言葉を継ごうとした、その時。
陛下の口から、はっきりと重い音が落ちた。
「……リュート」
当然のように、その名を呼んだ。
次の瞬間、部屋に百合の香りが爆ぜるように立ち込めた。そして、陛下の呼吸はそこで永遠に途切れた。
医師が脈を取り、静かに首を横に振る。
あまりにも、あっけない幕切れ。長く続いた狂気は、凪のような静寂の中に閉じた。
カミユは呆然と立ち尽くしていた。
最後にカール陛下が誰を呼んだのか、それを理解しているのか、あるいは理解を拒んでいるのか。魂が抜けたような顔で、ただそこに固まっている。
私はそっと、彼に近づいた。
長い、長い年月をかけて、この瞬間だけを待っていたのだ。
「……なぜ」
カミユの唇が、かすかに動く。
その問いは誰に向けられたものでもなかった。だから、誰も答えない。
私は、彼の耳元に顔を寄せた。逃げ場のない距離。
そして、冷徹な静けさで囁いた。
「なぜ、私が今日まで生き長らえたと思います?」
彼の肩が、びくりと跳ねる。
「この瞬間に、あんたの耳元でこれを囁くためですよ」
ゆっくりと、言葉を落とす。一つずつ、確実に、その心臓へ突き刺さるように。
「カール陛下が最期まで見つめていたのは、カミユ、あんたじゃないわ」
間を置く。彼がその絶望を咀嚼する時間を、たっぷりと与えるために。
そして、とどめを刺した。
「リュート坊ちゃんよ」
その名が私の唇からこぼれ落ちた瞬間、カミユの瞳から光が消え失せた。
心臓を打ち抜かれたかのように、彼は激しく身を震わせ、そのまま凍りつく。
「あ……、あ、……っ」
カミユは喉を震わせたが、言葉にならない。やけに大きく響く呼吸音を聞きながら、私は微笑んだ。
ずっと練習してきた、この上なく柔らかい笑みで。
「ねえ、どんな気持ち? どんな気持ち? どんな気持ち? ぜひお聞きしたいわ」
視線も、言葉も、逃がさない。
カミユの顔が、ゆっくりと内側から崩れていくのが手に取るようにわかった。声は出ず、涙すら流れない。
その脳裏に、この数年間の空虚な光景がよぎっているのが透けて見えるようだった。隣で眠るカールの背中、飾られ続ける百合の花。それらすべてに、今、残酷な正解が与えられたのだ。
「ああああああああああ!!」
ついに、獣のような咆哮がカミユの喉から溢れた。
私は冷ややかに笑いながら、彼を突き放すように言葉を重ねる。
「坊ちゃんは……あなたのことを、最期まで哀れに思っていましたわ」
カミユは狂ったように自分の顔を掻きむしり始めた。
爪が頬を裂き、美しく整えられた肌に赤い線が走る。
愛されるために作り上げた「可愛い自分」を、彼は自らの手で壊していく。
「嘘だ……嘘だ! 僕が選ばれたんだ! 僕は王妃だ! あいつは死んで、僕が勝ったんだ!」
「本当にそうかしら」
私の瞳には、憐れみすら微塵もない。
「やめろ……やめてくれ……!」
カミユは耳を塞ぎ、床をのたうち回った。
だが、耳を塞いでも、部屋を満たす百合の芳香からは逃れられない。
ふと、カミユがカールの亡骸を見上げた。
死して、その口元は微かに、幸福そうに緩んでいる。
その微笑みこそが、彼に与えられた最大の拷問となるだろう。
「……はは、……はははは!」
絶望の極致で、カミユの口からひび割れた笑い声が漏れた。
瞳からは光が消え、ただ泥のように濁った色が広がっている。
そばにいた侍従達が困惑したように手を伸べるが、彼は体を丸めるようにして、ただ震えるだけとなった。
私はそっと、距離を取る。もう言うことは何もない。
寝台の上には、ようやく安らぎを得た亡骸。
その傍らには、一生をかけて何も得られなかった哀れな伴侶。
私はようやく、深く息を吐いた。
長い役目が終わった。復讐は果たされた。
誰一人救われない結末。それが、私には何よりも心地よかった。
◇
私は、今も主を待つように放置されている坊ちゃんの実家、伯爵家の西棟の部屋へ忍び込み、窓から庭園を眺めた。
手入れをする者がいないため、温室の百合は無惨に枯れ果てていたが、屋外の百合は何故か残酷なほど白く、美しく咲き誇っている。
幼い頃、ここを三人で駆け回った。
坊ちゃんと、殿下と、私。
あの頃の私たちは、よく笑っていた。誰も、何も持っていなかったけれど。
私は静かに目を閉じた。
「坊ちゃん」
小さく呼べば、風が百合の香りを運んでくる。
「お望みの方は、そちらへお送りしましたわ」
私の口元が、自然と緩む。
「私はもう少し、こちらに残ります。……カミユが壊れていく様を、最期まで見届けたいので」
目を開ける。
庭は、あの日と同じように美しい。
「三人で会うのは、もう少し先ですね」
それだけを風に残して、私は視線を外した。
終わり
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