11、夜に香る百合は誰がため
七年後――。
ローズが王宮医師の「恋人」となったのは、主を亡くした半年後のことだった。
初老の王宮医師は優秀で紳士ではあったが、妻を亡くした喪失感に、その命を磨り減らしていた。そんな医師の心に寄り添って、ローズは容易く取り入った。
そもそもローズは医師に「夫」になって欲しいわけではなかった。彼女が欲しかったのは、王宮という舞台に潜み続けるための、「居場所」だけだったから。
今では献身的な助手として、薬の調合から王宮の裏事情までを把握する存在となった。そんな彼女を、王子は何も言わずに黙認している。
「ローズさん。今日も、王子殿下の様子を見てきてくれるかい?」
「はい。先生」
医師に命じられ、ローズは静かに薬箱を手にする。先生から教わった薬の調合は絶対に間違わない。
王子の不調は年々深刻さを増している。
◇
学園卒業と同時に、カミユは王太子妃の座を射止めた。元男爵令息が掴み取ったその栄誉は、平民や下級貴族たちから見れば、まさに「愛の勝利」と呼ぶにふさわしい奇跡だった。
しかし、絢爛豪華な王宮の暮らしの中でカミユは、時折、自嘲の響きを帯びた笑みを浮かべる。
彼は今でも、あの婚礼の夜を反芻せずにはいられない。
あの日、王太子カールは確かに、優しく、慈しむようにカミユを抱きしめた。
カミユは確信していた。自分は誰よりも愛され、至上の幸福を享受するのだと。そして今もなお、自分は愛されていると必死に己を鼓舞し続けている。
だが、自分達の寝室には、カミユの心を苛む「呪い」が佇んでいる。
部屋を満たすのは、かつての婚約者・リュートが愛した、甘やかで濃厚な百合の香り。
カミユがどれほど別の花へ差し替えようと、翌日には真っ白な百合が元の場所へと戻っている。あの忌まわしい女、ローズの嫌がらせに違いない。そう確信して王太子に訴えたカミユを待っていたのは、予想だにしない答えだった。
『私の好きな花だ』
空虚な、血の通わない返答。
その瞬間、カミユは悟ってしまった。王太子が今も見つめているのは、隣にいる自分ではなく、とうの昔に消え去ったはずの「過去」なのだと。
夜、隣に横たわる王太子の瞳に、眠りは訪れない。彼はただ、虚ろな眼差しで、天井を見つめ続けている。
「眠れないのですか」
カミユの問いかけも、乾いた「ああ」という一言で切り捨てられる。
せめて慰めを、と絡めようとした指先は避けるように強い力で振り払われた。
新婚初夜を境に、王太子がカミユに触れることは二度となかった。
世継ぎの兆しなど望むべくもない。
王太子の冷たい背中を見つめながら、カミユは暗闇の中でただ独り、目を閉じる。
「大丈夫。選ばれたのは、僕なんだから……」
自分に言い聞かせるその呪文は、虚ろな夜の闇に吸い込まれ、誰にも届かない。
◇
ローズは左手に抱えた百合の香りに包まれながら、王子の部屋に入る。
「お薬の時間です」
「……ローズか」
彼女は、萎びた花を抜いて新鮮な百合を花瓶に突き刺すと、王子が薬を飲み下すのを静かに見届けた。
「今日も……彼は、そこにいるのか?」
いつもの問い。ローズは一拍おき、慈しむような微笑を浮かべて答える。
「ええ。今日は一段と、百合の香りが強いですから」
「……そうか。そこにいるのだな」
カール王子は、救いを得たように満足げに頷く。
そんな彼に、ローズは淡々と言葉を添えた。
「殿下、ご存知ですか? 最近、城の者たちの間では、夜な夜な中庭に現れる『目元の黒い、白い亡霊』の噂でもちきりですわ」
「……白い亡霊? 中庭に行けば、その姿を見られるのか?」
「さあ? 姿を見せてくれるかどうかは、亡霊の機嫌……次第ですわね」
「そうか……機嫌か……」
王子は、再び窓の外、空虚な庭へと視線を戻した。
その背後で、ローズは薬箱を閉じ、冷ややかに目を細めた。
廊下へ出ると、笑顔を貼り付けた王子妃――カミユに呼び止められた。
「殿下の具合は」
「安定しております、妃殿下」
二人の間に、七年分の沈黙が堆積する。
「……『幸せになれると思うなよ』って言ったよね、昔」
ポツリと漏らしたカミユに、ローズは鮮やかに微笑んだ。
「言いましたね」
「呪いが、よく効いているみたいだよ」
歪んだ笑みを浮かべるカミユを背にして、ローズは足音を響かせて歩き出す。
後ろで、誰にともなく縋るような声が聞こえた。
「……大丈夫。僕は、大丈夫」




