10、噂で殺した僕と、復讐するメイド
駆け出した廊下の先には、リュートの影のようにいつも寄り添っている伯爵家のメイド、ローズが立っていた。彼女の瞳は空洞のようで、そのくせ射抜くような視線が僕の肌をチリつかせる。その不気味な様子に、僕の足は思わずすくんだ。
「……何ですか」
先に沈黙を破ったのは僕だった。苛立ちを隠すように、甘ったるい声音に不快感を混ぜる。
「そんな顔で僕を見ないで」
ローズはゆっくりと首を傾げた。人形の関節が軋むような動作は気味が悪い。その口角が、嘲笑を象って歪に吊り上がる。
「そんな顔ってどんな顔よ」
彼女が一歩、距離を詰める。
「ねえ? 人のものを盗むのって、どんな気持ち」
その言葉は、僕の胸の奥にある「何か」に嫌な音を立てて引っかかった。
「盗み? そんなこと僕にわかるわけが……」
言いかける僕を遮り、彼女は言葉を被せた。
「リュート坊ちゃんが子供を馬で轢き殺したとか、教会のお金を着服したとか。あの噂、誰が流したのか、アンタ知らない?」
それを聞いて、僕は思わず吹き出しそうになった。
――ああ、懐かしい。あれは傑作だった。
本当はみんな、リュートに興味があったのだ。あの目も眩むような白い美貌、隙のない立ち居振る舞い。けれどいつも殿下が傍にいて、誰も近づけなかった。だからこそ、やりやすかった。
僕はリュートの噂の種を丁寧に撒いて、被害者を演じ、震える声であいつの醜悪さを零し続けた。大衆というのは実に便利だ。材料さえ与えれば、あとは勝手に憎んでくれる。そう、誰も、自分が踊らされているとは夢にも思わずに。
証拠だってあるはずがない。僕はただ、囁いただけなのだから。
「ああ、嫌な噂でしたよね。リュート様、お可哀想に」
そう言って慈愛を込めて返したが、ローズは応えない。ただ、凍りついたような沈黙が廊下に満ちていく。
そのあまりに濃密な「喪失」の気配に、僕は直感した。
「あの、リュート様のこと……本当なの?」
その瞬間、彼女の瞳の奥に地獄の業火が宿るのを見て、僕はすべてを理解した。
本当に死んだんだ。あの邪魔な男が、呆気なく消えてくれた。
理解した途端、喉の奥から笑い声がこみ上げてきた。
ああ、なんだ。僕はこれほどまでにあいつが嫌いだったのか。
殿下があいつの名前を呼ぶたびに、胃の底が焼けるように熱くなった。けれど今は、世界が作り変えられたように明るい。こんなに清々しい気分はいつ以来だろう。
最高の「負け役」を失ったのは確かに惜しい。だが、次の生贄は目の前にいる。
僕は改めてローズを観察した。整った顔立ちに長い睫毛。後ろ盾のないメイドだが、見目は悪くない。メイドの癖に入学を許されて、色々訳ありらしいけど、殿下が目をかけているので心配だった……だからこそ、次は彼女に僕を引き立ててもらおう。リュートと同じで孤立させるのは、簡単なはずだ。
さあ、お前はどこまで知っている? どんな風に僕を輝かせてくれる?
頭の中で描かれる完璧な算段。だが、その思考を見透かしたように、彼女が冷水を浴びせかけた。
「幸せになれると思うなよ。私、坊ちゃんみたいに優しくないから……」
地を這うような低い呪詛を残し、彼女は去っていった。その声があまりに深く、足元から「黒い何か」が這い上がってくるような錯覚に囚われる。残された僕の足は、無様に震えていた。
幸せになれない? あの女は何を言っているんだ。「坊ちゃんみたいに優しくない」?
――リュートが、優しかっただって?
あいつはいつだってヒステリックにお高くとまって、綺麗な顔のくせに男を喜ばせることすらできない惨めな欠陥品だった。僕が丁寧に無価値さを教えてやっているのに、いつも憐れみの目で僕を見下し、劣等感に僕を突き落としてきたあいつが。
ああ、出来ることなら、もっと惨たらしく苦しめてやりたかった。
毒を使って楽に逃げてしまうなんて。確かに、塞ぎがちだった彼に「なんでもよく効く薬屋」を教えてあげたのは僕だけど、こんなに早く逝ってしまうなんて少し計算違いだ。まあ僕の「親切」が、誰にもバレていないことだけは良かったけれど。
「……大丈夫」
自分に言い聞かせるように、僕は虚空へ微笑んでみせた。
完璧な微笑み。誰も見ていない。観客などいない。それでも僕は、この仮面を崩さない。
「誰も何も気づいていない。僕は何も悪くない。大丈夫……、大丈夫なんだ」
必死な叫びが、主を失った廊下に虚しく反響していた。




