69/97
ム
人は、『返事をするな』と言われるほど、返事をしたくなる。
だから忠告は、いつも遅い。
夜中の二時二十二分。
世界が最も静かになる時間。
どこからともなく、小さな声が聞こえる。
『……ねぇ。』
彼は布団をかぶる。
聞こえなかったことにした。
『ねぇ。』
『ねぇ。』
『ねぇ。』
声は一歩ずつ近づいてくる。
逃げ場を失ったように。
やがて耳元で止まり、
『聞こえてるよね?』
囁く。
彼は何も答えなかった。
それが正しいと教えられていたからだ。
長い沈黙。
そして、静寂。
助かった。
そう思った。
その瞬間。
スマートフォンが震える。
着信。
番号はない。
名前だけが表示されている。
『無視してくれて、ありがとう。』
その言葉を見た彼は、ようやく理解した。
返事をしなかったから助かったのではない。
返事をしなかったから、「こちら側」に選ばれなかっただけなのだと。
私は、その着信を知っている。
恐ろしいのは、名前を呼ぶ声ではない。
返事を待っている相手が、
最後には礼まで言ってくることなのだから。




