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ホ
人は、安心できる記憶ほど疑わない。
幼い頃。
眠る前には決まって、母が頭を撫でてくれた。
『おやすみ。』
その一言だけで、不安は消えた。
だから彼も、その夜は疑わなかった。
耳元で聞こえた懐かしい声。
『おやすみ。』
母の声だった。
けれど、電話の向こうでは違う答えが返ってくる。
『今日は旅行で家にはいないよ。』
聞き間違い。
そう思い込むしかなかった。
部屋の灯りを消す。
静寂。
やがて、ゆっくりと髪を撫でる音がした。
幼い頃と同じ、優しい手つき。
目を開けることはできない。
すると、もう一度だけ声が響く。
『ママじゃないよ。』
その瞬間。
頭を撫でる感触が、一つ増えた。
右から。
左から。
二本の手が、まるで子どもをあやすように優しく動く。
彼は震えることも、叫ぶこともなかった。
ただ、不思議なほど安心してしまった。
恐怖とは、必ずしも冷たいものではない。
ときに、人は温もりに誘われる。
私は、その夜を覚えている。
優しい手ほど、人は最後まで拒むことができない。
それが誰の手なのか、知らないままでも。




