60/97
へ
人は、噂を恐れる。
私は違う。
本当に恐ろしいのは、帰る場所が変わってしまうことだ。
『変な家。』
近所では、そう呼ばれていた。
誰も住んでいない。
それなのに夜になると、一つ、また一つと窓に明かりが灯る。
彼は噂を笑っていた。
門の前へ立つまでは。
玄関の鍵が開く音。
誰もいない。
それでも扉は、ゆっくりと口を開ける。
『ギィ……』
家が招いていた。
彼ではなく。
もっと前から決まっていた誰かを迎えるように。
逃げようと振り返る。
門は消えていた。
帰り道も。
逃げ道も。
最初から存在しなかったかのように。
窓という窓には、人影が並ぶ。
誰一人動かない。
ただ、こちらを見ている。
静寂だけが流れる。
やがて、一人だけが唇を動かした。
『おかえり。』
その声を聞いた瞬間、彼は理解した。
恐ろしかったのは、この家ではない。
自分が、もう外の人間ではなくなっていたことだ。
その声は、彼自身のものだった。
私は、その瞬間を知っている。
家は人を選ばない。
帰る場所を失った者を、
ただ静かに迎え入れるだけなのだから。




