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59/97

フ

人は、目に見えないものよりも。


匂いのほうを長く覚えている。


古い団地。


誰も住んでいないはずの一室。


毎晩決まった時間になると、腐った臭いだけが廊下を満たすという。


噂など、気にしなければいい。


それでも人は近づく。


確かめたくなる。


腐臭が鼻を刺した、その瞬間。


『ぐちゃ……』


『べちゃ……』


湿った音が、部屋の奥からゆっくりと近づいてくる。


何かを引きずるような音。


姿は見えない。


見えないほうが、人はよく想像する。


郵便受けが、ゆっくりと持ち上がる。


暗闇。


何も見えない。


ただ、臭いだけが濃くなる。


逃げようとした。


そのとき。


足元で、小さな音がした。


『ぽた……ぽた……』


見下ろしても、床は乾いたまま。


何も落ちていない。


何も付いていない。


……はずだった。

挿絵(By みてみん)

それでも、帰る頃には腐臭だけが彼の服に染みついていた。


私は知っている。


音は消える。


姿も消える。


だが、匂いだけは残る。


逃げ帰ったつもりでも、


本当に連れて帰ってしまうものは、


いつだって目には映らないのだから。



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