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フ
人は、目に見えないものよりも。
匂いのほうを長く覚えている。
古い団地。
誰も住んでいないはずの一室。
毎晩決まった時間になると、腐った臭いだけが廊下を満たすという。
噂など、気にしなければいい。
それでも人は近づく。
確かめたくなる。
腐臭が鼻を刺した、その瞬間。
『ぐちゃ……』
『べちゃ……』
湿った音が、部屋の奥からゆっくりと近づいてくる。
何かを引きずるような音。
姿は見えない。
見えないほうが、人はよく想像する。
郵便受けが、ゆっくりと持ち上がる。
暗闇。
何も見えない。
ただ、臭いだけが濃くなる。
逃げようとした。
そのとき。
足元で、小さな音がした。
『ぽた……ぽた……』
見下ろしても、床は乾いたまま。
何も落ちていない。
何も付いていない。
……はずだった。
それでも、帰る頃には腐臭だけが彼の服に染みついていた。
私は知っている。
音は消える。
姿も消える。
だが、匂いだけは残る。
逃げ帰ったつもりでも、
本当に連れて帰ってしまうものは、
いつだって目には映らないのだから。




