第98話:均衡の代償
乾いた破壊音とともに、最初の矢が馬車の側板に突き刺さった。
騎兵たちが猛烈な勢いで迫る。
密集した楔形の陣形。馬腹を蹴り、乾いた大地を蹂躙しながら。
「陣形を維持しろ!」
モルティスが嗄れた声で吠えた。言葉を発するたび、鳥嘴のマスクが不気味に揺れる。
「円陣を突破させるな!」
二人の見習いが重い箱から防水布を剥ぎ取り、襲撃者に向けて『黄色の霧』のフラスコを投げつけ始めた。
ガラスが岩や蹄に当たって砕け、マスタード色の刺激臭を放つガス雲が湧き上がる。
軍馬たちが喘ぎ、いななき、前足を上げて陣形を乱す。
だが、突撃の慣性はあまりにも凄まじかった。
俺は馬車の屋根の上に立っていた。
風が顔を打ち据え、馬の汗と鉄の匂いを運んでくる。
もう一人の護衛、ルート。
傷だらけの顔をした、背の高い、筋骨逞しい男だ。
彼はすでに地面へと跳び降りていた。大剣を大きく振りかざし、最初の騎兵を迎え撃つ。馬の腱を容赦なく切り裂いた。
俺の視線は、雑魚の略奪者どもには向いていなかった。
狙いは、中央。
異彩を放つ男が一人。
汚れたボロ切れを纏い、顔は鳥の頭骨の仮面で隠されている。
その周囲の空気が、不自然に陽炎のように揺らめいていた。
男が両腕を掲げるのが見えた。
手のひらの周りで灰色の渦が巻き起こり、土埃と枯れ草を巻き込んでいく。
それらを凝縮し、強固な弾丸へと成形していく。
攻撃ベクトル:前方。
気流密度:異常。
弾丸形成速度:0.8秒。
俺は馬車から跳び降りた。
ブーツが地面を捉えたまさにその瞬間、――『スキル』を起動。
だが、この時は何かが狂っていた。
前へと突進する。
文字通り、空間を「押し破る」ように。
一歩進むごとに、俺は目の前の空気密度を局所的に改変し、あらゆる空間抵抗を無に帰していった。
魔術師が俺に気づいた。
彼が両腕を突き出すと同時に、超圧縮された空気の奔流が俺目掛けて放たれる。
俺は『センチュリオン』を前に突き出し、前方に楔形の「超高圧領域」を形成した。
魔術師の放った弾丸が、その見えない盾に激突する。
俺が書き換えた物理法則に従い、弾丸は猛烈な角度で跳ね返った。側面の騎兵二人が、衝撃で鞍から叩き落とされる。
一跳びで、魔術師との間合いをゼロにする。
剣が男の胸を貫いた。
文字通り鞍から引き剥がされ、後方へと吹き飛ぶ。
頭目を庇おうとした二人の剣士が、次に犠牲となった。
一人目の鎖骨を一刀両断にする。
二人目に対しては、奴自身の振り下ろしのベクトルをねじ曲げ、そのサーベルを奴自身の軍馬の首へと深く突き立てさせた。
モルティスが『液体火炎』の奔流を放ち、3人の略奪者を生きながらの松明へと変える。
振り返ると、ルートの姿が目に入った。
その護衛は膝をつき、腹の傷を押さえていた。剣は半ばからへし折れている。
足元には5つの死体。
敵の最後の騎兵――重厚なクレイモアを携えた巨漢が、容赦のない止めの一撃を振り下ろした。
ルートは仰向けに倒れ込み、その瞳から光が消えた。
「後退だ! 馬車へ戻れ!」
モルティスが咆哮し、クロップが隠れている荷馬車へとジリジリと退がっていく。
残るは3騎。
奴らは最後の突撃のために馬首を巡らせた。
俺の視界には、どす黒い血の斑点が浮かんでは消えていた。
一挙手一投足に、溶けた鉛の中を進むような凄まじい労力を要する。
自覚はなかったが、限界まで引き絞られた負荷により、俺の瞳は完全に生命感を欠いた灰白色へと変色していた。
『慣性抑制』。
――最大半径。
『センチュリオン』の腹を、地面へと叩きつける。
一瞬にして慣性を奪われた軍馬たちは、泥に足を突っ込み、頭から激しく前転した。
自らの巨体の重みで背骨をへし折り、背上の騎兵たちの脊椎をも巻き込んで粉砕する。
そしてその瞬間、俺の内部の堤防が決壊した。
灰白色に染まった両目から、そして両耳から、血が勢いよく噴き出すのを感じた。
意識が激しく揺らぎ、ぷつりと途切れる。
俺は黄金の草むらへと、顔面から崩れ落ちた。
俺には見えなかった。
あの巨漢の騎兵――重いクレイモアを持つ男が、落馬の衝撃から奇跡的に生き延びていたことを。
顔中を血に染め、よろめき、荒い息を吐きながら、奴は立ち上がった。
その目は、狂気じみた復讐の炎で燃え盛っている。
「殺してやる……」
奴は嗄れた声で呪詛を吐き、巨大な刃を持ち上げた。
身動き一つしない俺へと、歩を進める。
モルティスたち錬金術師は、あまりにも遠すぎた。
巨漢が、俺の頭上へと鋼を振りかざす。
その時だった。
馬車の床下から、何かが猛然と飛び出してきた。
クロップだった。少年はただ、無我夢中で跳んだのだ。
自分の全体重を俺にぶつけ、その衝撃で俺の身体を横へと弾き飛ばす。
刃の軌道から、力任せに。
剣が、振り下ろされた。
鈍く、湿った破壊音が空気を切り裂く。
鋼は俺の代わりに、クロップの肩から胸へと深く突き刺さり、彼を地面に縫い付けた。
クロップの口から漏れたのは、短く、詰まった喘ぎ声だけだった。
巨漢は二の太刀を浴びせるべく剣を引き抜こうとしたが、その僅かな遅れが、錬金術師たちに必要な時間を与えた。
「この、化け物がぁ!」
モルティスが咆哮する。
3本のクロスボウの矢が略奪者の胸に突き刺さる。
間髪入れず、『液体火炎』のフラスコがその身体を直撃した。
静寂が戻った。
風は変わらず、黄金の草を揺らし続けている。
夕焼けが平原を淡いピンク色に染め上げていく。
モルティスが真っ先に俺たちのもとへ駆け寄ってきた。
彼は俺の身体を荒々しく仰向けにし、脈を確かめる。
「生きてる……まだ息があるぞ」
彼の視線が、クロップへと移った。
少年はわずか二歩離れた場所に横たわり、その黒いチュニックを急速に赤く染めていた。
剣はまだ、身体に突き刺さったままだ。
モルティスは膝をつき、少年の頭をそっと抱き起こした。
クロップが、ゆっくりと目を開く。
「ぼく……アイロンは……」彼は囁いた。「無事……なの?」
「ああ、あいつは大丈夫だ、坊主。お前が救ったんだ」
モルティスの声が、微かに震えていた。
クロップは微笑もうとした。だが、唇からは血の泡が溢れ出る。
彼の焦点は定まらなくなり、沈みゆく太陽の残光をただ追っていた。
「きれいだ……」彼は呟いた。「ここ……ステップは……本当に、きれいだね……」
少年の頭が、力なく後ろへと傾いた。
モルティスは立ち上がり、血に染まった手をマントの裾で拭った。
「あいつを馬車に運べ」
彼は俺を指差して命じた。
「それから遺体だ……みんな回収しろ。化け物の餌食にするわけにはいかん」
彼らはアイロンを、干し草の敷かれた荷台へと運び上げた。
血を流すような『黄金の平原』の空の下、車列は再び、歩みを進め始めた。




