第96話:呪われた怨霊
行軍3日目の夜明け、俺たちはその深部へと足を踏み入れた。
境界は、あまりにも唐突だった。
昨日までは雄牛の蹄の下で泥沼が跳ねていたというのに、今日の足元の土は、乾ききって脆かった。
木々は隙間なく立ち並び、壁を成している。
樹皮を剥ぎ取られた剥き出しの幹が、頭上遥か高くで絡み合い、まるで天然の霊廟のような歪な天井を形成していた。
風など吹いていない。
にもかかわらず、枝は絶え間なく微動を繰り返し、不快な軋み音を立てていた。
「マスクをつけろ!」
モルティスが鋭く命じた。死んだ静寂の中で、彼の声が鞭のように弾ける。
「顔に密着させるのだ。灰色の霧を吸い込んだ者は、もはや我らの同胞ではない」
錬金術師たちが一斉に『嘴』を装着する。
護衛の傭兵どもは、酢とタールを染み込ませた布を顔に固く巻きつけた。
俺は顔を晒したままだった。
脳内のアナライザーが、中途半端な布切れは酸素のろ過を阻害するだけだと告げていた。
それに――本当の脅威は、全く別の次元に存在している。
俺には見えていた。
澱んだ空気の中を漂う、灰色の、薄く半透明なリボンのような煙の束が。
それは残留エネルギーの浮遊物――かつて生きた人間だったものの、飢えた『意識の欠片』だ。
おぞましい光景だった。
先頭の馬車が見えない境界を越えたまさにその瞬間、奴らは俺目掛けて殺到した。
皮膚に、生々しい冷気が触れる。
だが、奴らは俺の顔面に近づいた途端、恐怖に駆られたように弾け飛んだ。
鍛錬の結果、俺の『魔力』は高エネルギー圧の強固な繭となって、身体を覆っている。
俺の肺に侵入するためには、悪霊どもは突破不可能な抵抗の壁を壊さねばならない。
端的に言えば、俺の密度は奴らにとって「硬すぎる」のだ。
「あんた……なんで顔を隠さないんだ?」
馬車の隣に座るクロップが囁いた。マスクの奥からの声は、低く、怯えに震えている。
「奴らが侵入できる隙などない」俺は答えた。「前を見てろ」
「あちこちにいるんだ、アイロン」少年は怯えながら路肩を指差した。「俺たちを見てる」
「だからどうした」と、俺は返した。
4時間の行軍の後、車列が完全に停止した。
二つの迫る岩壁に挟まれた狭い小道が、倒木と落石によって完全に封鎖されていた。
巨大な枯れ木が崩落し、大量の巨岩や石の破片を巻き込んで崩れたらしい。
迂回は不可能だった。道の両脇には、刺だらけの原生林がそびえ立つ壁のように行く手を阻んでいる。
モルティスが前に出て、障害物を検分し、毒づいた。
「引き返せば2日はかかる」彼は唾を吐いた。「だが、この土砂崩れは1週間かけても片付きそうにない。ここに留まることも不可能だ。陽が落ちれば悪霊どもが凶暴化する。お前たちのタールフィルターなど、一瞬で食い破られるぞ」
傭兵どもは陰鬱に沈黙した。引き返したい者など誰もいない。
俺は地面に飛び降りた。
足に鈍い痛みが走り、長時間座り放しだった背中が強張っている。
「バールと、頑丈な鎖が2本あるか?」
「雄牛で引っ張るつもりか?」護衛の一人が鼻で笑った。「家畜を無駄に死なせるだけだ。この岩は完全に噛み合ってやがる」
「引っ張るつもりはない」
俺は瓦礫を観察した。
あの枯れ木の幹が、全体の重みを支えるキーストーン(要石)になっている。
岩の隙間からあの幹さえ破壊すれば、残りは自重で崩壊するはずだ。
「あそこの突起に、鎖を固定してくれればいい」
錬金術師たちは不承不承従った。
奴らが鎖を張る間に、俺は力の作用点を算出した。
重量を無視すれば、ありふれた「てこの原理」の計算だ。
『センチュリオン』の手のひらを、冷たく枯れ果てて乾いた大木へと押し当てる。
深く、息を吸い込む。
俺のエネルギーの急激な高まりを察知した悪霊どもが、濃密な群れとなって俺の周囲を旋回し始めた。
『スキル』起動。
「引け!」俺は短く息を吐いた。
――バキィィン!
俺の手が触れたまさにその場所で、大木の幹が真っ二つにへし折れ、無数の鋭い木片となって弾け飛んだ。
支えを失った巨大な岩が、轟音を立てて転がり落ち、道を切り拓いていく。
塵が沈みきる前に、俺は『スキル』を解除した。
世界が唐突に、いつもの日常へと引き戻される。
袖で顔を拭った――血だ。
世界が激しく回転し、左腕が細かく震え出す。
「道は開いた」冷たい岩壁に重く寄りかかりながら、俺は言った。「出発するぞ」
モルティスは隠しきれない猜疑の視線を俺に向けたが、何も言わなかった。
夕暮れ時、俺たちは小さな開けた場所にキャンプを設営した。
周囲の森が、じわじわと俺たちを包み込んでいくように思えた。
悪霊の灰色の尾は今や濃密な層となり、木々の輪郭をほぼ完全に覆い隠している。
傭兵どもは焚き火を起こし、魔物を退けるための、妙な悪臭を放つ錬金術の添加剤を炎の中に投げ入れた。
俺たちは沈黙の中で夕食を摂った。
突如、少し離れた場所に座っていた傭兵の一人が、途切れ途切れの、苦しげな喘ぎ声を漏らした。
「バーグ? どうした?」仲間が声をかける。
バーグは答えなかった。
彼はゆっくりと立ち上がり始めた。
その防護マスクは引きちぎられ、1本のストラップだけで虚しくぶら下がっている。
俺は一瞬で何が起きたかを理解した。
おそらく、土砂を片付けている最中に枝にマスクを引っ掛け、布地を破いてしまったのだろう。
傭兵が首を巡らせた。
その瞳孔は限界まで散大し、目は完全に漆黒に染まっている。肌は病的な、死人のような灰色に変色していた。
「あいつ……霧を吸い込んだんだ!」
クロップが馬車の側面に身を寄せながら、ヒステリックに叫んだ。
バーグがナイフを抜いた。
その動きは、生き物としての自然さを欠いていた。
彼は仲間たちに視線すら向けない。ただ真っ直ぐに、俺だけを見据えていた。
奴の喉の奥で何かが泡立ち、血の凍るような、人間離れした囁きへと歪んでいく。
「光が……多すぎる……。飢え、だ……」
奴が俺へと突進してきた。
他の傭兵どもは躊躇した――結局のところ、バーグは彼らの仲間だったからだ。
俺は『センチュリオン』の腕を前に突き出した。
奴がナイフで俺を切り裂こうとしたまさにそのミリ秒、俺は奴の胸の直前の空気を、局所的に超圧縮した。
圧縮された空気の拳が、取り憑かれた男を5歩後方へと吹き飛ばす。
ナイフが奴の指から弾け飛んだ。
一瞬で間合いを詰め、俺は奴の顎へ向けて、計算され尽くした短い一撃を叩き込み、完全に意識を刈り取った。
奴の内部にいた『存在』が悲鳴を上げた。耳ではなく、骨で感じるような不快な波動だ。
それは俺のオーラとの直接接触に耐えきれず、霧散していった。
「そいつを縛れ」
駆け寄ってきた護衛どもに、俺は鋭く指示した。
「朝になれば正気に戻る。お前たちの小瓶の薬液で、奴の肺を徹底的に洗浄しろ」
モルティスが歩み寄ってきた。
彼は大の字に倒れたバーグを見下ろし、それから俺へと視線を移した。
「お前のような者が近くにいる時、悪霊どもは決して弱い者を狙いはしない、アイロン」
「さあな」
その夜、俺は一睡もしなかった。
ただ、『死の森』の底知れぬ闇を見つめ続けていた。
黒い幹の間を、数千もの微弱で、ぼやけた光の粒が絶え間なく蠢いている。
奴らはキャンプの周囲に円を描きながら、決して近づこうとはしなかった。
『スキル』を使用したことによる虚脱感はほぼ引き、顳顬に僅かな脈動を残すのみとなっていた。




