第95話:腐敗した渦
『腐敗沼』は、その凄惨な醜悪さを剥き出しにしていた。
集落は、深紅の泥沼のまさに淵にへばりつくように存在していた。
ここにあるのは「家」ではない。泥底から引き揚げられたあらゆる廃材を、ただ繋ぎ合わせただけの歪な建造物だった。
黒ずんだ樫の古木。黒灰色の厚い苔に埋もれた石柱の残骸。そして、なめしも不十分な粗末な獣皮の切れ端。
曲がりくねった杭の上に建てられた建物の間には、通りの代わりに、不安定な木製の足場が網の目のように張り巡らされている。
その下では、粘り気のある泥がぶつぶつと泡を立て、鈍い音を立てていた。
俺は深いフードの陰に顔を隠し、足早にならず、ただ静かに歩を進めた。
灰色の外套は道中の泥にまみれていたが、どう足掻こうとも、俺の歩調そのものが「異邦人」であることを雄弁に物語っていた。
住人どもは――泥色の肌をした、眼窩の落ち窪んだ痩せこけた連中だ――まるで常に背後から刺されるのを恐れるかのように、小刻みで、びくびくとした足取りで移動している。
奴らの粘つくような視線が、ずっと俺の背中にへばりついていた。
集落の中央広場。ひび割れた石畳で覆われた、この地で唯一のまともな地盤を持つその場所は、人々でごった返していた。
いや、人間だけではない。
広場の中央には、荒い息を吐く巨大な雄牛に引かれた、黒い木製の重厚な馬車が3台、鎮座していた。
その周囲に漂う空気は、沼の腐臭というよりも、鼻を突くような硫黄の苦い、強烈な臭気だった。
「黒の錬金術師、か」
俺は小さく息を漏らした。
この呪われた地をあえて踏破せんとする、陰鬱な商人どもだ。
奴らは立ち往生していた。
その理由は、一目で分かった。
『腐敗沼』から北方街道へと抜ける唯一の出口は、切り立った二つの岩壁に挟まれた狭い峡谷だった。
そしてその通路を、規格外の巨体を持つ御影石の石板――原始的だが凄まじい重量を誇る、落とし格子が遮断している。
本来ならば、太い船用ロープと木製の巻揚機を使い、深い石の溝に沿って滑り上がるはずの代物だ。
だが今、ロープは虚しく弛み、石板はまるで永遠に大地と一体化してしまったかのように微動だにしていなかった。
俺は歩み寄った。
春の泥水を含んだせいで、門の右側の地盤が沈下している。
石板の傾きは、わずか数度。
だが、何トンもの質量を持つ花崗岩の塊にとって、それは致命的だった。
溝の中で完全に噛み込んでいる。
静止摩擦力が、人間や雄牛の筋力では到底太刀打ちできない領域に達していた。
門の前には二人の男が立っていた。
一人は、上等だが油染みた服を着た、汗まみれの肥満漢。この集落の長だろう。
もう一人は、幾重にも重なる黒いローブを身に纏った、背の高い痩せた影。
その顔は、薬草や香料を詰め込んだ、長い嘴を持つ不気味な革製のマスクで覆われていた。
「ですから申し上げたでしょう、マギステル・モルティス」
街長が上着の裾を神経質にいじくり回しながら、甲高い声で懇願していた。
「沼が引き留めているのです! 石が岩肌に深く食い込んでいる。うちの若い衆が筋がちぎれんばかりに引いて、ロープを3本も切らした始末です! 地面が乾くのを待つか、別の道を探してください」
「『死の森』を抜ける別ルートなど存在しない」
マスクの奥から、錬金術師の低く籠もった声が響いた。
「我らの荷は一刻を争う。ポーションは腐り、試薬は効力を失うのだ。日没までにこの門を上げねば、道を切り拓くためだけに、この集落を跡形もなく焼き尽くすよう部下に命じるぞ」
街長は青ざめ、その三重顎をわなわなと震わせた。
取り囲む住人どもから脅迫めいた地鳴りのような声が漏れたが、誰一人として一歩を踏み出そうとはしない。
錬金術師たちの悪名は伊達ではない。ガラスのフラスコを一つ投げつけるだけで、人間を沸騰する泥水の塊に変えてしまうという噂がまことしやかに囁かれていた。
好機だった。
俺は群衆から抜け出し、言い争う二人の元へと真っ直ぐに向かった。
「俺がその通路をこじ開けてやろう」
淡々とした口調で、俺は告げた。
「見返りに、お前たちの車列に俺の席を一つ、それとドーンハイムに辿り着くまでの糧食を要求する」
錬金術師が、ゆっくりと俺の方を向いた。
マスクの黒いレンズ越しに、冷徹な視線が俺を射抜く。
一方、街長は神経質で邪悪な嘲笑を漏らした。
「お前が? 流れ者が何をする!」
街長は足元に唾を吐き捨てた。
「屈強な男が12人に、雄牛が4頭がかりでも、あの『物言わぬ石板』を1インチたりとも動かせなかったんだぞ。それを素手で上げようだと? 命が惜しけりゃ、すっこんでろ」
「力の掛け所を知っていれば、重量など無意味だ」
街長には一瞥もくれず、俺は答えた。
視線は、モルティスだけに固定されている。
「――取引は成立か?」
モルティスは俺を値踏みするように見つめた。
「もしそれが大言壮語であるなら、お前を私個人の奴隷にしよう。ちょうど実験体が不足していてな。だが、本当にあの石を動かせるというのなら……いいだろう、同行を許す。始めろ」
群衆が引いていき、半円状の空間が出来上がる。
張り詰めた沈黙が空気を支配した。
俺は御影石の石板へと肉薄した。
岩肌からは、冷気と湿気が放たれている。
左の手のひらを、そのざらついた表面のちょうど中心へと据えた。
右腕は外套の下から出さない。
ただ、布に包まれた前腕を、石板の端――あの溝に無残に噛み込んでいる部分へと押し当てた。
【構造解析】
質量:約18トン。
圧力ベクトル:下方、および右方向。
噛み込み点における静止摩擦係数:臨界値。
解:局所的な摩擦の相殺(ゼロ化)、および重心の左方への3度の人為的偏位。
俺は目を閉じた。
生きる意志。
脳内の光景に、発光するベクトル線のグリッドが描き出される。
摩擦:ゼロ。
重力ベクトル:20%反転。
御影石が震動した。
地鳴りのような、低い軋み音が轟く。
そして次の瞬間、巨大な石板は、まるで重量を失ったかのように溝に沿って滑らかに上昇し始めた。
群衆が息を呑む。
誰かがヒステリックな悲鳴を上げ、頭を抱えて泥の中に膝を突いた。
石は高く、さらに高くへと昇り詰め、ついに最上点へと達した。古代のストッパー機構が噛み合い、それを完全に固定する。
俺は唐突に『スキル』の接続を断った。
フードの影に再び顔が隠れるよう、深く頭を垂れる。
頭蓋の奥底で鋭い激痛が爆発し、直後、強烈な吐き気の波が押し寄せた。
心臓が狂ったように脈打ち、血液を全身に送り出している。だが、足はしっかりと大地を踏みしめていた。
「門は開いた」
錬金術師の方を向き、俺は言った。
声はわずかに掠れていたが、毅然としていた。
モルティスは沈黙していた。
マスク越しであっても、彼が驚愕しているのは明白だった。
錬金術の大家は、短く頷いた。
「何者かは知らぬが、旅人よ、お前は約束を果たした。最後尾の馬車に乗り込め。ただちに出発する」
地響きを立てて、車列が動き出す。
俺は、隣の小屋の軒下に預けておいた僅かな荷物を回収するため、最後尾の荷馬車へと向かった。
朽ちかけた二つの建物の隙間、狭い路地裏。
そこで4人の男たちが俺の前に立ち塞がった。
地元のしがない略奪者崩れの雇われ兵どもだ。
酸っぱいエールの臭いを漂わせた汚らしい連中で、手には錆びついた肉切り包丁を握っている。
賊を率いるのは、噛みちぎられた肉の塊のような顔をした大男だった。鍛造された釘が無数に突き出た、重厚な棍棒を構えている。
奴らは俺が門をどうしたかを見ていた。
そして、古典的かつ、破滅的な勘違いを起こしたのだ。
――「あの魔術師は今、大魔術を使ったばかりで消耗し、弱り切っている」と。
「よぉ、奇跡使いさんよ」
大男が道を塞ぎ、下卑た笑みを浮かべた。
「随分と美味い汁を吸ったようじゃねえか。持ってるものを全部吐き出しな。運が良けりゃ、足を折るだけで勘弁してやる」
俺は足を止めた。
吐き気はまだ完全には引いていない。
「そこをどけ」
俺は静かに言った。
「どかなきゃどうする? 俺をカエルにでも変えるか、クソ呪術師が!」
巨漢が吠えた。
奴は無駄口を叩くのをやめ、咆哮とともに、俺の頭部を粉砕せんとスパイク付きの棍棒を振り下ろした。
俺は、奴自身の運動慣性を『5倍』に増幅した。
――グシャリ!
凄まじい悲鳴とともに、奴の身体がその場で猛烈にスピンした。
右腕は関節窩から完全に外れて無残に垂れ下がり、奴は泥沼の中へと崩れ落ちた。ショック症状による即座の気絶。
手からすっぽ抜けた棍棒は、隣家の腐った壁を易々と貫通していた。
残された3人が、金縛りにあったように硬直する。
その手に握られた肉切り包丁が、ガタガタと震えていた。
俺は速度を変えず、奴らの脇を通り抜けた。
連中は朽ちかけた木壁に必死に身体を押し付け、灰色の外套が角を曲がって消えるまで、息をすることすら忘れていた。
俺が錬金術師の最後尾の馬車に辿り着いた頃には、雄牛たちが開かれた門を抜けて車列をゆっくりと牽引し始めていた。
俺は荷馬車の硬い荷台へと飛び乗り、黒い帆布で覆われた木製のフレームに背を預けた。
御者の隣に座っていたクロップ(後でそう名乗った)が、恐怖に満ちた視線を俺に向け、すぐに首をすくめて顔を背けた。




