第94話:負の重力
峠を下るというのは、登るよりも常に困難を伴う。
重力が背中を押し、ガレ場で足元をすくおうとし、一歩進むごとに膝を震わせる。
すでに6時間、俺は下り続けていた。
空気が次第に濃くなっていく。
だが、俺の思考はまだあの高みにあった。
『竜の歯』。
地質学的な観点から見れば、その名は不条理極まりない。
石灰岩、花崗岩、玄武岩の岩脈――標準的な地層の重なりに過ぎないからだ。
だが、歪に湾曲した犬歯を思わせる不気味な尖峰の影に立ったとき、俺はあの宿の老人の言葉を思い出さずにはいられなかった。
『なぜ、よりにもよって『竜の歯』なんだ?』
背嚢のベルトを締め直しながら、俺はあの時そう尋ねた。
『山がただそこに突っ立ってるわけじゃねえからさ』
老人は牝馬の鼻面を軽く叩きながら答えた。
『山は守ってんだよ。この連峰の奥深くには、大いなる守護者が眠っている。あの尖峰どもは、天に向かって剥き出しにされた奴の歯だ。山が健在である限り、奴は眠り続ける。だが、自らの傲慢な騒音でその安眠を脅かす者には、災いが降りかかるだろうよ』
その時はただの地域の伝承として片付けた。
だが今、霧が灰色の岩肌を舐めるように這うのを見つめながら、俺はふと思った。
もし『竜』というのが生物的な種ではなく、何らかの根源的な力の暗喩だとしたら?
俺の方程式に組み込んでいない、未知の変数。
峠道はようやく平坦になり、俺を麓へと導いた。
周囲の木々はどれも発育が悪く、不自然にねじ曲がっている。
この『ミッドランド』には、鳥のさえずりも、瑞々しい葉の擦れ合う音も存在しなかった。
道の終着点である麓のすぐそこに、古い関所の廃墟が佇んでいた。
崩落した屋根、空洞になった窓の跡。そして、立ち込める焦げ臭い匂い。
「やはり、奴らか」
俺は低く呟いた。
『掃除屋』。
ミッドランドにおいて、通常のハイエナどもよりもさらに落ちぶれた人間のクズに対する呼び名だ。
彼らは自分たちより強い者や運の良い者が、疲弊して山から下りてくる瞬間を狙って待ち伏せし、骨の髄まで身ぐるみを剥ぎ取る。
ただのゴミ屑だ。それ以上のものではない。
革の切れ端や錆びついた鎖帷子を身に纏い、その顔は汚れた包帯で隠されていた。
「どこへ行く気だ、灰色の外套さんよ?」
頭目と思われる男の声は、金属を石で引っ掻いたような不快な音だった。
男は長い鎖の先に付いた重い鉤爪を無造作に振り回しながら、一歩前に出た。
俺は足を止めた。
フードが俺の目を陰らせていたが、奴らの配置ははっきりと見えていた。
左に3人、右に2人、頭目の背後に2人。
「通りたいだけだ」俺は冷静に言った。「お前たちに費やす時間は持ち合わせていない」
「時間だと? 舐めた口を叩きやがって。大人しく背嚢と剣、それから外套の下でガチャガチャ鳴ってるその鉄屑を置いていきな」
頭目は鎖の鉤爪をさらに激しく回転させながら、間合いを詰めてくる。
「どうだ? 喚き散らしながら抗うか、それとも静かに死ぬか?」
俺はため息をつき、外套の下から右腕を引き抜いた。
ミッドランドの薄暗い灰色の光の中で、『センチュリオン』のマットな金属光沢が鈍くきらめく。
掃除屋どもは、その緻密な機構の美しさに目を奪われ、一瞬だけ硬直した。
「ベクトル和という言葉を知っているか?」
俺は訊ねた。
奴らは答えの代わりに、一斉に俺へと襲いかかってきた。
俺は『スキル』を起動した。
フルパワーではない。自身の周囲半径3メートル以内という絶対的な限界まで範囲を絞り込み、重力と慣性のみに集中させる。
ナイフを手に俺へ飛びかかってきた最初の掃除屋は、一瞬にして泥の中へと叩きつけられた。
彼自身の肉体が持つ圧倒的な質量に耐えかね、両足の骨が凄まじい音を立てて砕け散る。
斧を振りかざした2人目の男。その身に、俺の金属の指が触れた。
接触した正確なそのミリ秒、俺は彼の関節における摩擦ベクトルを『ゼロ』にし、同時に回転運動のインパルス(推進力)を印加した。
男は狂ったように高速回転しながら、岩壁に向かって吹き飛んでいった。
頭目が鉤爪を放った。
鎖が俺の首目掛けて一直線に飛んでくる。
俺は手のひらを掲げた。
皮膚からわずか4インチ手前で、鎖は『反転重力』の領域へと突入した。
それは自らの慣性で巻きつくように綺麗な結び目を形成し、俺のブーツの前に虚しく落下した。
残りの連中が、金縛りにあったようにその場に釘付けになる。
俺の周囲の世界が微動を始めた。
空気はゼリーのように濃密になり、足元の塵は宙に浮いたまま、完璧な幾何学模様を描いて静止している。
「物理学だ」
頭目を正面から見据え、俺は言った。
「学んでおくべきだったな」
一歩、踏み出す。
それだけで俺は瞬時に頭目の目の前へと至っていた。
金属の腕が、奴の肩へと置かれる。
そしてほんの一瞬の間、俺は奴の鎖骨の分子密度を極限まで高めた。
――バキィィン!
銃声に似た破裂音が響いた。
効果を解除する。
世界は瞬時に正常へと巻き戻った。
塵は舞い落ち、重力は再び馴染みあるものへと戻る。
反映が襲う。まさにこの瞬間、俺はなぜ自分がこの『魔法』の使用を避けていたのかを思い出した。
顳顬が激しく脈打つ。
内耳が鋭い眩暈の波を起こし、鼻から一本の細い血の筋が伝って、顎へと流れ落ちていくのを感じた。
掃除屋どものうち、まだ立っていられた連中がじりじりと後退する。
その目には純然たる恐怖が張り付いていた。
「失せろ」
生身の手の甲で血を拭いながら、俺は掠れた声で威嚇した。
「さもなければ、全員ここで死ね」
負傷者と頭目を見捨て、奴らはミッドランドの霧の彼方へと掻き消えていった。
俺は石柱の残骸の上に、重々しく腰を下ろした。
「助かった、本当に……。あと1分続いていたら、死んでいたのは俺の方だ」
俺はそう呟いた。
そのまま20分ほど座り込み、息を整えた。
頭目はまだ泥の中で絶叫を上げている。
「いちばん近い集落はどこだ?」
俺は訊ねた。
奴は俺を見上げた。その瞳は苦痛で濁りきっている。
「き、北へ1日歩いたところだ……『錆びついた淵』。だが、お前のような奴は歓迎されねえよ……この、悪魔め……」
俺は体に鞭打って立ち上がった。
虚脱感が少しずつ引いていく。
転がっている奴に向かって、干し肉の一片を放り投げてやった。
太陽が地平線へと傾き始める頃には、俺はすでに廃墟から遠く離れていた。
灰色の外套を整える。
目の前には、広大で、灰色で、そして致命的な『ミッドランド』がどこまでも広がっていた。




