第92話:通行料
ただ「牝馬」とだけ名付けた馬が、淡々と泥をかき分けて進む。
道具に名前をつけるなど、無駄な感傷の現れだ。
蹄が一定のリズムを刻み、俺の脳は本能的に、そのペースに合わせて食料消費のスケジュールを修正し始めていた。
この速度が維持できれば、4日後には山脈の麓に到達する。
不測の事態を考慮して、前後6時間の誤差といったところか。
その不測の事態は、2時間後に具現化した。
アールン川に架かる、古い石造りの橋。
山からの春の融雪水が、川を泥と鋭い氷の濁流へと変えていた。
徒歩での渡河など、論外だ。
迂回すれば、3日間のロスを意味する。
50メートル手前で手綱を引き、馬を止める。
橋の入り口付近に、2台の商人たちの馬車が停まっていた。
その周囲で人々が右往左往しているが、機構の故障ではない。
ちぐはぐな装備を身にまとった5人の男たち。
脱走兵か、さもなくば森の野盗の類だろう。
彼らは積荷の包みを漁っていた。
うち2人は、怯える御者たちにクロスボウを向けている。
「おい、もう1人来やがったぞ!」
俺の灰色のシルエットに気づいた1人が叫んだ。
俺は馬の腹を蹴り、ゆっくりと前進する。
フードは深く下ろされ、顔を隠していた。
「止まれ、旅人!」
頭目らしき、錆びた胸当てを着た肩幅の広い大男が、道を塞ぐように前に出てきた。
腰には重い大刀を下げ、手には折れた槍の柄を握っている。
「ここは通行料をいただく場所だ」
5歩手前で、俺は馬を止めた。
フードの隙間からは、男の汚れたブーツと、あばたのある顔の下半分しか見えない。
「いくらだ?」
俺の声は抑揚を欠いていた。
「馬と、剣と、金貨の入った袋だ」
大男はニヤついた。
背後の下っ端たちがくすくすと笑う。
クロスボウの射手たちが、狙いを俺へと切り替えた。
「それと、その外套も置いていきな。綺麗そうじゃねえか。使い道はある」
「標準的な銀貨1枚を提案する」
俺は左手でポケットから硬貨を取り出し、淡々と言った。
「孤独な旅人の通行料としては、妥当な額だ」
頭目は、俺の馬の蹄元に唾を吐き捨てた。
「話が分かってねえな、兄ちゃん。装備を捨てるか、それとも冷たくなった肉体から剥ぎ取られるかだ」
奴は距離を詰め、俺のフードをひったくろうと手を伸ばしてきた。
「何を隠してやがるか見せてみ――」
非論理的だ。
だが……人間が論理的に動くことなど稀だ。
奴の指先が外套の生地に触れたそのミリ秒、俺の感覚の中で世界が減速した。
ウールの下に隠された右腕が、短いスナップとともに突き出される。
奴の手首を掴んだ。
――バキィッ。
骨の砕ける音が、奴の最初の悲鳴を遮った。
指に力を込め、その橈骨を砂利のように粉砕しながら、手前に引き寄せる。
頭目はバランスを崩し、前方にのめり込んだ。
その刹那、左手が剣を抜いていた。
下からの短い突き。
鋼の刃が、最も近くにいた野盗の革製ブリガンダインを容易く貫通する。
「殺せ! やっちまえ!」
クロスボウの射手の1人が叫んだ。
俺は鞍から飛び降り、頭目の肉体を盾にした。
弦が弾ける音が響き、俺がまだ折れた手首を掴んだままの頭目の背中に、太矢が重々しく突き刺さる。
わずか2歩の跳躍。
もう1人の射手との間合いを詰める。
奴は必死に武器を装填しようとしていた。指が震えている。
剣を使う時間は無駄だ。
義手による、胸部への直接的な運動打撃。
標的の肋骨が内側へ歪む感触。
男は3メートル吹き飛び、泥の中に転がった。
残された2人が硬直した。
1人は槍を落とした。
もう1人、最初に矢を放った射手が、震える手で再び武器を俺に向けている。
「下がれ! 来るな、この悪魔め!」
男が絶叫する。
俺は焦ることなく、足を進めた。
「クロスボウの矢の初速は毎秒50メートルだ」
俺は平坦で、落ち着いた声で告げた。
「その距離なら、お前は外す。だが、俺は外さない」
奴が引き金を引いた。
俺は即座に体幹をひねり、外套の下にある鉄の肩当てで矢を弾かせる。
火花が散り、鋭い金属音が響いた瞬間には、俺はすでに奴の間合いの内側に侵入していた。
剣の柄頭を顎へと叩き込む。
短い破砕音。
射手は意識を失い、崩れ落ちた。
最後の1人、槍を落とした野盗は、ただその場で踵を返し、脱兎のごとく森へと逃げ出していった。
追跡は……カロリーの無駄だ。
おそらく奴は、数分もしないうちに魔物の爪にかかって死ぬだろう。
頭目のもとへ歩み寄る。
奴は泥まみれになり、破壊された右腕を抱えて呻いていた。
恐怖に染まった目で、俺のフードの奥を必死に見定めようとしている。
「この先に、まだ検問はあるか?」
奴自身のシャツの裾で刃を拭いながら、俺は訊ねた。
「な、ない……頼む、見逃してくれ、俺たちはただ……」
奴は涙と鼻水に噎せ返った。
見下ろす。
脅威は排除された。
身を翻し、馬のところへと戻る。
牝馬は神経質に蹄を動かしていたが、その場に留まっていた。
「いい馬だ」
静かに声をかける。
「あ、あの……」
馬車の方から、怯えた声が掛けられた。
商人の1人、髭を震わせた老人が、俺を凝視している。
「ありがとうございます…… あなたは、もしや、騎士様で?」
手綱を握りかけたまま、俺はわずかに動きを止めた。
騎士?
……滑稽な。
「違う」
振り返ることなく、俺は答えた。
「ただの旅人だ」
フードを直すと、馬を速歩で進めさせた。
道はまだ、続いている。




