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第91話:長すぎる時間

オークは、最小限のエネルギー消費で処理されるべき方程式の、一変数に過ぎなかった。


森は濡れた針葉樹と腐木の臭いがした。


細かな小雨が二日も降り続き、地面をぐずぐずの泥濘ぬかるみに変えている。


俺は完全に気配を消し、にれの巨木の幹に背を預けて立っていた。


身に纏っているのは、粗末なウールで作られた地味な灰色の外套マントだ。


深いフードが顔を隠している。


長い裾は、その下に隠された「モノ」を確実に覆い隠していた。


20メートルほど先の小さな開けた場所で、オークが唸り声を上げていた。


大柄な個体だ。


身長は2メートル半近くあり、岩のように灰色の肌をしている。


手には、錆びついた車の板バネのような、歪に曲がった大刀テサックを握りしめていた。


商人ギルドが奴の首に懸けた賞金は、銀貨30枚。


ちょうど、関節用の新しい潤滑油を買い足すのに足りなかった分の金額だ。


オークが俺の臭いを嗅ぎつけた。


奴が、咆哮する。


俺は影から足を踏み出した。


ブーツが柔らかく泥に沈む。


オークは黄色い牙を剥き出しにして、不敵な笑みを浮かべた。


さらなる野生の咆哮とともに奴は突進し、大刀を真っ直ぐ振りかぶる。


俺は観察し、分析した。


この慣性イナーシャでは、奴は軌道修正できない。


刃が振り下ろされた瞬間、俺は左へ短く一歩かわした。


同時に、右腕を突き出す。


――ガキィン!


重い刃が、俺の前腕に叩きつけられた。


オークは一瞬だけ凝固し、その目を大きく見開く。


奴の武器は、ただ弾き返された。


刹那、完全に回復した左手が外套の下から滑り出た。


握られているのは、ハンド・アンド・ア・ハーフ・ソード(一ツ半の手半剣)。


飾り気のない、質の良い鋼だ。


俺は踏み込んだ。


切っ先が、奴のいちばん下の肋骨の下へと完璧に突き刺さる。


肺を貫き、心臓を捉えた。


オークは喘ぎ、大刀を落として膝から崩れ落ちた。


俺は刃を引き抜き、返り血で外套を汚さないよう後ろへ一歩退いた。


「3秒か」


俺は虚空に向かって静かに呟いた。


「遅すぎる。フットワークを鍛え直す必要があるな」


オークの毛皮で刀身を拭い、外套の下の鞘へと収める。


それから、討伐の証拠トロフィーを持ち帰るためにナイフを取り出した。


11ヶ月に及ぶ訓練が、ようやく実を結びつつある。


あれほどの月日を経て。


ヴァイスブルクは、いつもと変わらぬ日常を営んでいた。


市場へ野菜を運ぶ農民たちの群れに紛れ、俺は城門をくぐる。


衛兵たちは俺に視線すらろくに向けなかった。


ギルドで獲物を引き渡し、硬貨の詰まった革袋を受け取ると、俺は街の外れへと向かった。


時計職人の工房の2階にある、借りている部屋だ。


戸締りのかんぬきを閉め、俺はようやく濡れた外套を脱ぎ捨てた。


この数ヶ月の間に、俺は義手を完全に組み直していた。


エリダン鋼と、依頼(契約)で稼いだ金をつぎ込み、外装の装甲を陽光を反射しないマットブラックのプレートへと換装した。


ケーブルの配線を見直し、脆弱な結節点は駆動殻のより深い内部へと隠す。


義手はもう、軋むことも唸りを上げることもない。


金属の指を握り、そして開く。


握力はより強固になり、応答速度レスポンスは一瞬だ。


机に向かい、硬貨をぶちまけた。


「2週間分の食料。潤滑油――よし。予備のボルト――よし。馬の代金も支払い済みだ」


視線が机の隅へと落ちる。


そこには、小さく擦り切れたアミュレット(魔除け)が置かれていた。


中央に穴の開いた、1枚の銅貨。


カエレンの、別れ際の贈り物だ。


『ゴーレム(木偶)になるなよ、アイアン』


去り際に、彼はそう言っていた。


アミュレットを拾い上げ、指先で弄んでから、胸のポケットへと仕舞い込む。


「……あいつの言う通りだな」


俺は静かに呟いた。


翌朝の夜明け前、俺はすでに動き出していた。


部屋には、私物らしきものは何一つ残されていない。


道具類はコンパクトなロールにまとめられ、剣は左の腰に、水筒は右の腰にある。


慣れた動作で外套を羽織り、フードを目深に被った。


下の厩舎きゅうしゃでは、鹿毛かげの牝馬が俺を待っていた。


頑丈で、辛抱強い獣だ。


腹帯の締まり具合を確かめ、首のあたりを軽く叩く。


「よし」


俺は囁いた。


「時間だ」


馬を通りへと連れ出す。


街はまだ眠りの中だった。ただパン職人たちだけが、窯に火を入れ始めている。


誰もいないヴァイスブルクの通りを、俺は進んだ。


ここは良い場所だった。


静かで。


安全で。


北の城門を通り抜ける頃、昇り始めた太陽が木々の梢を金色に染め始めていた。


道が遥か彼方へと伸びている。


冷涼な空気を、深く胸に吸い込んだ。


胸の内に、恐れも迷いもない。


真に、素晴らしい感覚だった。


手綱を軽く振る。


「目的地、北」


自分に言い聞かせるように呟いた。


「次の目的地は、山脈だ」

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