第89話:裂け目を抜ける道
自分の咳に咽せて、目が覚めた。
視界がひどくぼやけ、二重にブレている。
「お、気がついたか」
カエレンの声が、まるで水中から響くように遠く聞こえた。
右腕に力を込めて、身体を起こそうとする。
だが『センチュリオン』は、不快な金属音を軋ませるだけだった。
肘のあたりでキチン質の装甲板が1枚割れてしまっている。
剥き出しになった山蜥蜴の腱が、航空用ジュラルミンのエッジと擦れ合って嫌な感触を伝えてきた。
「……いま、何時だ?」
俺は掠れた声で訊ねた。
「きっちり3時間さ。約束通りね。君は眠っている時まで几帳面だな」
カエレンは向かいに座り、小さな鍋の中身をかき混ぜていた。
彼の頭上には琥珀色の球体が浮かび、その顔に不規則な影を落としている。
システムをテストするつもりで、試しに『生きる意志』を発動しようとしてみる。
――何も起きない。
「行くぞ」
俺は無理やり身体を起こす。
猛烈な目眩が襲い、喉の奥から吐き気が込み上げてきた。
「なぁ、アイアン」
カエレンは手を止め、真剣な眼差しをこちらに向けた。
「もう2、3時間、ここで様子を見ないか?」
「駄目だ。このセクターの境界は不安定だ。魔力の潮流が押し寄せれば、俺たちは跡形もなく吹き飛ぶ。……手を貸せ、立たせてくれ」
カエレンはため息をつき、近づいて肩を貸してくれた。
それから2時間後。
俺たちはリフトの最深部――出口のエリアへと到達した。
ここの空間は、完全にズタズタに引き裂かれていた。
遥か彼方の街から毟り取られたであろう建造物の破片、巨岩、そして大木が、魔力の嵐が作り出す巨大な渦の中で狂ったように回転している。
静電気の密度が凄まじく、俺の指先からは青い火花がパチパチと弾け、髪の毛が逆立っていた。
「よし……」
俺は意識を集中させようと試みる。
「右だ……30メートル先……振動周波数が低い。角度を15度に取れば……本流と重力ポケットの隙間をすり抜けられる……」
だが、声が続かない。
激しく咳き込み、唇にピンク色の細かい泡が浮かんだ。
「北へ……7度……」
頭の中で必死に数式を維持しようとしたが、数字は乾いた砂のようにサラサラと崩れ落ちていく。
カエレンが足を止めた。
前方で猛り狂う渦を見つめ、それから俺に視線を落とする。
「もういいよ、アイアン」
彼は静かに言った。
「まだやれる……インパルスの遅延を計算させてくれ……」
カエレンは俺の腕を自分の首に回し、よりしっかりと身体を支え直した。
「黙って、大人しく私に預けるんだ」
彼は球体の光を消した。
琥珀色の輝きが失われ、辺りは完全な闇に包まれる。
カエレンは静かに目を閉じた。
「何を……する気だ?」
俺はかろうじて息を吐き出す。
「道を聞こうとしているのさ。リフトにはリズムがある。それを感じ取るんだ」
彼は渦の真芯に向かって、最初の一歩を踏み出した。
直後、大理石の柱の破片が正面から猛スピードで飛来する。
俺たちを岩壁に叩き潰さんとする一撃。
だが、激突のわずか1秒前、カエレンはふっと身を屈め、身体を半身に開いた。
大理石の質量が、俺の頭を掠めるような至近距離を通り過ぎていった。
「左だ」
彼は小さく呟いた。
「次は、突進――」
俺たちの進行方向に、魔力の炎が渦巻く巨大な漏斗が立ち昇った。
「右に回避しろ」と叫ぼうとしたが、カエレンはその逆をいった。
歩調を速め、あえてその最も光が濃い中心部へと踏み込んでいく。
「狂ったか!」
俺は叫んだ。
閃光の中心へと突入する。
ほんの一瞬、身体が塵も残さず蒸発するかと思った。
しかし、激痛の代わりに俺たちを包み込んだのは、奇妙なほど耳を聾する「静寂」だった。
背中に、柔らかな感触を覚えた。
目を開け、すぐに眩しさに細める。
光の質が違っていた。
それは、燦々と降り注ぐ本物の太陽光だった。
俺たちはなだらかな丘の上に倒れ込んでいた。
眼下には、鬱蒼とした松の森に覆われた平原が広がり、その間を縫うように川が銀色のリボンのようにきらめきながら流れている。
「俺たちは……抜けたのか?」
自分の声とは思えないほど、掠れた声が出た。
カエレンは隣で大の字に寝転び、貪るように空気を吸い込んでいた。
上質な上着はボロ布のようになり、顔には長い引っかき傷が走っている。
それでも、彼は笑っていた。
「エリダンだよ、相棒」
彼は息を吐き出しながら言った。
「ようこそ、エリダン王国へ。……正確には、その首都『ヴァイスブルク』の近郊だけどね。あの空を見てごらんよ。君を殺そうとはしてこないだろう?」
それから数分間、俺たちはただ生きている実感を噛み締めながら、静寂の中に身を横たえていた。
やがて、俺は無理に言葉を絞り出した。
「カエレン……」
俺は言葉を詰まらせた。
「なぜだ?」
「何ぜ、って何がだい?」
彼は肘で上体を起こした。
「リフトだ。南の峠を迂回すれば、3、4ヶ月はかかっただろうが安全に行けたはずだ。お前の資産とアーティファクトがあれば、快適な旅ができたはずだろう」
カエレンは小さく笑うと、足元の草の葉を1本引き抜き、指先で物憂げにいじり始めた。
「3ヶ月だよ、アイアン。人間が3ヶ月の間にどれだけのワインを飲めるか、想像がつくかい? どれほど面白い人々に出会えるか。ただの迂回に費やすには、人生は短すぎるのさ」
「真っ直ぐ突き進む。早くて、刺激的で、心が最高に跳ね踊るような興奮をくれるだろう?」
彼は言葉を切り、俺の方へと顔を向けた。
「今度は君の番だ。自分がどんなボロボロの様態だったか分かっていただろう? なぜそんな身体で、私と一緒にこの世界の裂け目を突っ切ろうなんて思ったんだい?」
「強くなるためだ」
俺は正直に答えた。
「リフトすら超えられないようじゃ、ドーンハイムになんて到底辿り着けない」
(……それに届かなければ、俺はあいつを失望させてしまう)
と、心の中で付け加えた。
カエレンは鼻で笑い、首を振った。
「呆れたな。アイアン、君はかなり頭が良い部類だと思っていたけれど、時々とんでもない大馬鹿野郎になるね」
「何のことだ」
「『賢者は山に登らず、山を迂回する』っていう諺を知っているかい? どうやら、君には逆立ちしても当てはまらない言葉のようだ」
彼はニヤリと笑った。
「お前にだけは言われたくない」
俺は静かに返した。
カエレンはしばらくそこに座っていたが、やがて立ち上がり、手を差し出してきた。
その手を掴むと、彼は力強い一引きで俺を立たせてくれた。
「さて、お偉き『最強さん』」
彼は灰色の霞の向こう、うっすらと見え隠れする都市の塔の影を顎でしゃくった。
「エリダンは広い、迷う心配はないさ。行こう、今の私たちには極上の酒が必要だ」




