第88話:静寂の裂け目
俺たちは、いわゆる『静寂の泡』と呼ばれる場所に身を隠していた。
エントロピーのレベルが十分に低く、息をつくことができる一時的な安定地帯だ。
臀部の下で、灰色の巨石がゆっくりと脈打っている。その上に俺は腰掛けていた。
左腕は膝の上に力なく乗っている。
俺は右手を使い、左腕の肉をもみほぐした。
「そんなに力を入れたら、潰れてしまうよ」
カエレンの低い声が響いた。
数歩離れた場所で、彼は宙に浮かぶ岩の破片に背を預けていた。
手元にある球体がかすかに輝き、彼の顔を照らしている。
「血流が低下している。神経終末の伝達機能を回復させなければならない」
彼を見ようともせず、俺は答えた。
「高濃度の魔力圧下において、生物組織は非効率だ。俺の足を引っ張る」
「『足を引っ張る』じゃないさ。それはただ、生きているってことだよ」
カエレンが近づき、俺の傍らにしゃがみ込んだ。
「君は自分を奴隷のように扱っている。見てごらんよ、紙のように真っ白な顔をして、呼吸もまともにできていない」
俺はついに彼を見上げた。
「俺には目的がある。ドーンハイムだ。今ここで自分の『組織』を甘やかしていたら、俺たちは永遠にここに足止めを食らうことになる」
カエレンは首を振った。
俺の肩に触れようとするかのように手を伸ばしたが、最後の瞬間にそれを引っ込めた。
「途中で君がくたばってしまえば、ドーンハイムもクソもないだろう」
マッサージを終えると、指先にピリピリとした感覚が戻ってくるのを感じた。
「出発する」
俺は『センチュリオン』に重い体重を預けながら立ち上がった。
「ここからが本番だ。空間が歪み始める」
俺たちが足を踏み入れたのは、俺が『運動勾配』と名付けたセクターだ。
一見すると、霧に包まれたごく普通の平原にしか見えない。
だが、一歩踏み出せば、わずか1分で1キロメートルを進むこともあれば、逆にたった1メートル動くために3時間を費やすこともある。
カエレンが球体を使って跳躍の推進力を生み出そうとしたが、俺はその手を押さえた。
「考えるな」
「どうしてだい? 大幅に時間を短縮できるのに!」
俺は小石を拾い上げ、前方へと投げた。
石は数メートルほど飛んだところで唐突に静止し、それからゆっくりと下へと漂い始めた。
「これが見えるか?」
俺は石を指差した。
「ここでのディストーション(歪み)係数は指数関数的に増大している。魔法的な急加速を使えば、力線に沿って身体をすり潰されるだけだ」
カエレンは唾を飲み込み、宙に浮いたままの石を見つめた。
「……どうやってここを渡るんだ?」
「重力と時間が直角に交わる結節点を見つける必要がある」
俺は小さな石を次々と投げ、その落下時間を計測してベクトルを算出した。
ジグザグに動き、奇妙な弧を描き、時には目に見えない『運動真空』の穴を回避するために引き返した。
カエレンは俺の足跡を正確に辿ってきた。
彼の荒い息遣いが聞こえる。
「アイアン、大丈夫か?」
何度目かもわからない問いを、彼が囁いた。
「ルートに集中しろ」
俺は彼の言葉を遮った。
――計算が間に合わなかったエリアへ、俺たちは足を踏み入れてしまった。
空気が急激に、死んだように静まり返る。
すべての音が消失した。
カエレンの球体が放っていた駆動音さえも消え去る。
腕を上げようとしたが、その動作は途中でピタリと止まった。
筋肉は収縮している。だが、運動のインパルス(推進力)が完全にゼロにされているのだ。
隣のカエレンも不自然な姿勢で硬直していた。バッグのストラップを直そうと伸ばした彼の指先が、空間に固定されている。
そして、俺は上を仰いだ。
頭上に浮かんでいた巨大な岩の破片群が、ゆっくりと下降を始めていた。
外部の力による支えを失い、ただ本来の質量を取り戻したのだ。
脱出ポイントは3メートル先。
空気がかすかに細かく震えていることで、そこが境界だと判別できた。
――『生きる意志』。
領域の境界が、微細に振動する薄い膜のように見えた。
だが、ただ前へ一歩踏み出すことはできない。この真空がすべての運動量を食い尽くしてしまう。
俺は『センチュリオン』を駆動させた。
義手の内部油圧を限界まで高め、真空の抵抗を強引にねじ伏せながら右手を前方へと突き出す。
俺の指先が、境界の向こう側――「正常に機能している」現実にある岩の突起をガッチリと掴んだ。
「俺に……掴まれ……」
動かないはずの左手で、カエレンの身体を掴み取る。
渾身の力で引き寄せた。
――ガキィッ!
背後の巨岩が凄まじい轟音とともに地面へ激突し、猛烈な塵煙を巻き上げる。
そのわずかコンマ数秒前、俺たちは真空の罠から飛び出していた。
膝から崩れ落ち、そのまま横ざまに倒れ込む。
激痛のあまり、掠れた激しい咳が止まらない。
鼻から溢れ出た血が、容赦なく襟元を赤く染めていく。
「アイアン! アイアン!」
カエレンが瞬時に駆け寄ってきた。
俺の身体を抱き起こし、座らせようとする。
「私を見るんだ! 息をして、いいかい? ただ息をするんだ! 私の声が聞こえるか!?」
頷こうとしたが、代わりに口から血が飛び散った。
「肩を……入れろ……」
食いしばった歯の隙間から、それだけを絞り出す。
「何だって? 駄目だ、そんな技術は私には……」
「やれ。今すぐだ。でなければ……組織が壊死する……」
俺は『センチュリオン』で彼の腕を強く握りしめた。
カエレンは目をきつく閉じ、謝罪の言葉を呟きながら、俺の左腕を激しく引っ張った。
鈍い、ボキリという音が響く。
衝撃と激痛のあまり、俺の意識は数秒間、完全に暗転した。
意識が戻ったとき、カエレンは俺の頭を支えながら傍らに座っていた。
ゆっくりと右手を上げ、唇の血を拭う。
「計算は……正しかった。生きている」
「生きている……確かにね」
カエレンは苦々しく笑った。
俺はそれを無視し、まっすぐ前を見つめた。
薄れゆくリフトの霧の向こうに、台地の端が見えている。
「境界まで……あと少しだ」
「君が最低でも3時間は眠るまで、一歩も動かないよ」
カエレンが鋭い口調で遮った。
「これはお願いじゃない。条件だ。休むか、さもなくば君を縛り上げて引きずっていくか、どちらかを選べ」
「……わかった、3時間だ」
俺は同意した。
「きっちり、3時間だけだ」




