第87話:取引
リフトの端にある世界は、腐りかけていた。
ほんの一週間前まで羽毛のように軽かった3キロの荷物が、今は信じがたい重量で俺を地面へと引きずり下ろそうとしている。
(クソ、なんであの4人組のハンターどもに関わっちまったんだ)
自分への怒りが、どんな傷口よりも深く、熱く胸を焼く。
大馬鹿野郎だ。
左腕は役に立たないボロ布のように、脇にだらりと垂れ下がっていた。
首のあたりが激しく燃えるように疼き、指先は完全に麻痺している。ピクリとも動かせない。
深く息を吸い込むたび、肋骨の奥のほうで、嫌な乾いた軋み音がパキパキと鳴った。
ブーツの下の草地は、いつしか灰色の奇妙な物質へと変わり、足元で砂のようにジャリジャリと砕ける。
頭上の空は、まるで巨大な青あざのようだった。
澱んだ重苦しい雲に押し潰された、禍々しい暗紫色。
その地平線の向こうに、明かりが見えた。
集落――『ラスト・ガスプ(最後の吐息)』。
傾いた石造りの小屋が密集し、何らかの巨大生物の骨で作られた柵で囲まれている。
そこに住み着いているのは『スカベンジャー(屑拾い)』どもだ。
空間嵐の最中にリフトの深淵から吐き出される魔法のガラクタを拾い集めるため、自らの正気を賭ける狂人たち。
(まともな名前をつけられないのかよ)
そんな思考が脳裏をよぎる。
村に入る。
喧騒と光を放つ唯一の建物――酒場があった。
扉を押し開ける。
俺が敷居をまたいだ瞬間、店内のざわめきがピタリと止まった。
ほとんど暖気を感じられない炉のそば、一番薄暗い隅の席に腰を下ろした。
「エールだ。一番安いやつを」
左肩を動かさないよう細心の注意を払いながら、酒場親父に声を投げかける。
「横になった方がいいんじゃねえか、旅人さんよ」
カウンターの老人はそうぶつぶつ言いながら、欠けたジョッキをこちらに押し出してきた。
ふと目を開ける。
いつの間にか、同じテーブルの向かいに男が座っていた。
汚れにまみれたこの場所で、彼が身にまとっているのは金糸の刺繍が施された濃紺の上質な旅装束。不自然なほど清潔だった。
髪はきれいに整えられている。
テーブルの上には、奇妙なものが置かれていた。
大ぶりのリンゴほどの大きさの、曇った球体。
その内側から、柔らかな琥珀色の光が脈打つように溢れている。
「私はカエレン」
男は自己紹介しながら、干し肉の乗った皿をこちらに寄せた。
「もう5分も君を観察していたよ。エールには手をつけない。呼吸も浅い。そのジョッキを持ち上げるのに、どれだけのカロリーを消費するか計算でもしているのかい?」
俺はこの馬鹿の顔を睨みつけた。
「この1時間で、この区域の魔力密度は4%上昇した。ゴロツキどもの目の前で第5オーダーのアーティファクトを晒しているにしちゃ、随分と弛んでるな」
カエレンはにやりと笑った。
「おや、目が利くようだね。この界隈では珍しい。実は相棒を探していてね。前の連れは、重力渦に飛び込むのが近道だと信じて疑わないタイプでさ。ご覧の通り、今はソロフライト中なんだ」
「俺はドーンハイムに行く。一人でだ」
「ドーンハイム?」
カエレンが眉を上げた。
「リフトを抜けて? その体でかい? 最初のディストーション(異常領域)にさえ辿り着けないよ」
外から、引き裂くような遠吠えが響き渡った。
「始まったか」
カエレンがため息をつくと同時に、その場の空気が一変した。
彼が球体を掴むと、それは一層激しく輝き出す。
酒場の扉が木っ端微塵に弾け飛んだ。
破壊された入り口から、『リフトのアウトキャスト(はぐれ者)』どもが雪崩れ込んでくる。
魔力放射の影響で原型を留めぬほど変異した、かつての狼たちだ。
毛並みは斑に剥がれ落ち、肉の隙間から剥き出しになった骨が、不安定な青い炎を宿して光っている。
口から滴り落ちる発光する涎が、床板をジリジリと焼き焦がした。
店内にパニックが渦巻く。
スカベンジャーたちが一斉にナイフを抜いた。
怪物の1匹が中央のテーブルに飛びかかり、哀れな男の喉笛を噛みちぎる。
立ち上がろうとした。
だが、背中に走った激しい痙攣で、視界が真っ暗になる。
左腕は動かない。
『ガーディアン(守護者)』の反動で破損した右肘のジョイントは、半ば曲がった状態でロックされていた。
カエレンが前に飛び出す。
彼の球体が宙に舞い上がり、頭上に光の軌跡を描いた。
「下がれ!」
叫び声とともに、アーティファクトから高密度の光線が放たれ、迫る怪物を弾き飛ばす。
彼は重力ベクトルを自在に操っていた。
怪物の攻撃をそらし、同士討ちをさせ、あるいは重力を10倍にして床へと叩きつける。
しかし、アウトキャストどもは隙間という隙間から次々と湧き出し、カエレンの球体は次第に赤く点滅し始めた。
(オーバーヒートか……)
俺は呟いた。
脳が痛みを完全に無視し、冷徹に計算を開始する。
――『生きる意志』。
「カエレン!」
戦火の咆哮を切り裂くように、俺は叫んだ。
「暖炉の方向、角度30度! 下降軌道でパルスを撃て!」
カエレンの動きが一瞬、止まった。
振り返りはしなかった。
だが彼は正確に軌道を修正し、群れのボス――巨大な三つ目の獣――が、無防備な腹を晒して跳躍した瞬間にチャージを放った。
光線は、俺が指示したベクトルを完璧になぞる。
怪物の魔力核と見事に共鳴を引き起こした。
ボスは跡形もなく消滅した。
発生した衝撃波が、残りのアウトキャストたちを壁へと叩きつける。
カエレンの球体は低い駆動音を鳴らしながら、彼の掌へと戻っていった。
統率者を失った怪物どもは、悲鳴を上げてリフトの闇へと逃げ帰っていく。
俺は即座にスキルを解除した。
破壊し尽くされた酒場の中心で、カエレンが立っていた。
肩で荒い息をつき、上着は焦げている。
彼はゆっくりとこちらを振り返り、テーブルに近づくと、俺の顔をじっと覗き込んできた。
「……いや、見事だったよ」
彼は言った。
「なぁ、友よ。どんな魔術体系があんな芸当を可能にするのかは知らないが……自分の顔、鏡で見た方がいい」
「何が言いたい」
俺はぶっきらぼうに返した。
「君の目さ」
カエレンは球体を弄びながら、テーブルの端に腰掛けた。
「灰色になった……いや、白か? よく判別できないな」
「まあ、どっちでもいいか」
彼はそう言って、手を差し出してきた。
「命を救われた。さっきの提案はまだ有効だ。君が俺の『目』になり、俺が君の『腕』……あるいは『盾』になる。今のリフトは荒れている。一人じゃ1マイルも進めやしないさ」
「明日の夜明けだ」
差し出された手を無視し、俺は目を閉じた。
「決まりだね」
彼は笑い、球体を隠しポケットへと収めた。




