第81話:記憶の欠片
目を開けた。
世界は灰色だった。
右腕を動かそうとしてみる。
何の手応えもない。
すぐ近くで、焚き火がかすかにパチパチと音を立てていた。
ティラが火のそばに座っている。
彼女はナイフで泥を削り落としながら、何かの根を剥いていた。
その肩には、白い包帯が痛々しく目立っている。
「気がついたのね。3時間前に最後の興奮剤を打っておいたわ」
俺は嗄れた声で激しく咳き込んだ。
「……ここは、どこだ?」
「墜落地点から三日ほど歩いた場所よ」
彼女がようやくこちらを振り向いた。
「追手は来ていないわ」
自分の右腕に目を落とす。
指先は不自然に半曲がりの状態で硬直していた。
俺は左手を無理やり伸ばして旅用バッグを探り、エフレムの古いドライバーを取り出した。
肘関節のロックを解除しなければ、まともに歩くことさえままならない。
ガキリ。カチッ。
金属が噛み合う。
腕は完全に力を失い、身体の横へとだらりと垂れ下がった。
俺はちぎれたベルトの端切れを使い、それを胸にキツく縛り付けた。
「ティラ」俺は彼女を見つめた。「出発の準備をしよう。ゼノの言葉が本当なら、ドルンハイムは北にある。俺の計算では、この連峰を越えれば……」
「『あたしたち』なんてものは、もういないよ。アイロン」
ベルトの結び目の上で、俺の手が止まった。
「……何だって?」
ティラは根を脇に置けると、ゆっくりと立ち上がった。
「あたしの任務は終わったの。アーカイブへの鍵だったエフレムも、人工知能の最高傑作だったゼノも、みんな死んだ。もう、あんたと一緒にいる理由なんてない」
「だけど……あんたは俺の命を救ってくれた。自分の身体を盾にして、俺を庇ったじゃないか」
「プロトコルよ」
彼女は俺の言葉を鋭く遮った。
「ゼノが強固なアルゴリズム・ディレクティブを遺していったの。対象を救出し、容体を安定させ、降下後最初の7日間の安全を確保すること。その期限は、今日の夜明けに切れたわ」
俺はまるで別人を見るかのように彼女を凝視した。
「本気で言ってるのか? このまま背を向けて出ていくっていうのかよ」
俺は自嘲気味に笑った。
「あれだけのことを、一緒に乗り越えてきたっていうのに?」
「あたしたちはただ、外部の状況に圧されて同じ方向へ進んでいただけ。今のその圧力は、もうどこにもないわ」
彼女はリュックサックを肩に担ぎ直した。
「ドルンハイム……本当に存在するなら、せいぜい頑張って探すことね」
彼女は一瞬だけ、その場に立ち尽くした。
まるで、何かを言いたそうに。
だが、何も口にはしなかった。
彼女は背を向け、鬱蒼とした茂みの中へと歩き去っていった。
焚き火が静かに燃え尽きようとしていた。
俺は湿った丸太に腰掛け、完全な虚脱感に囚われていた。
だが、それでも動かなければならない。
食料も、まともな武器もない状態では、二日と持たずに野垂れ死ぬ。
それから約1時間、俺は生い茂るシダの群生を掻き分けながら歩き続けた。
感覚が、異常なほどに研ぎ澄まされていく。
【枝葉の運動ベクトル:算出完了】
【地面の傾斜:計算に反映】
【空気の湿度:測定完了】
パキリ。
【対象を感知】
【質量:約80kg】
【移動速度:高】
開けた場所に、ある生物が飛び出してきた。
かつて『ハイヴ』の辺境で見かけたことはあったが、名前はとうに忘れてしまった。
狼に似た姿をしているが、毛皮の代わりに、オークの樹皮を思わせる硬質な骨板が全身を覆っている。
その双眸が、鈍い琥珀色の光を放っていた。
俺はゆっくりと腰へ手を伸ばした。
カービン銃はない——墜落地点に鉄屑として置いてきた。
手元にあるのは、短いエンジニア用ナイフだけだ。
奴が跳んだ。
【衝突計算】
【運動量:質量 × 加速度】
【軌道:胸部中央へ直撃】
【回避結果:不可能(生体側の四肢に損傷あり)】
俺は機能を停止した義手を前方へと突き出した。
激突の瞬間、義手のすべての関節を完全にロックする。
腕を、地面に深く突き刺した強固な支柱へと変貌させる。
衝撃。
獣は最高速度のまま、俺のチタン製の拳へと真正面から激突した。
跳躍によるすべての運動エネルギーが反転し、奴の頭蓋へとそのまま跳ね返る(リバウンド)。
乾いた破壊音が響いた。
獣の頭部を覆う骨板が粉々に砕け散る。
俺の身体は後方へと吹き飛ばされた。
義手で吸収しきれなかった凄まじい運動エネルギーが、俺の肩と胸部を直撃したのだ。
俺は胸を押さえ、その場に膝を突いた。
息が詰まる。
視界の端から、どろりとした黒い斑点が広がっていく。
(クソッ、どうして俺は……未だに、自分に跳ね返る代償なしに一撃を放つことすらできないんだ……?)
思考が脳裏をよぎる。
肺がようやく再び空気を取り込み始めるまで、俺は十分ほどその場に倒れ伏していた。
立ち上がり、獣の死骸へと近づく。
ナイフを抜き、その皮を剥ぎ取り始めた。
義手を固定するベルトをさらにきつく締め上げ、僅かな獲物をバッグに放り込む。
そして一歩、踏み出した。
さらにもう一歩。




