第8話:ここは白い部屋?
耳障りな耳鳴りで目が覚めた。
スキルはバックグラウンドで動作し、傷ついた内臓を「繕おう」としていたが、身体のリソースが圧倒的に不足していた。
体を起こそうとすると、途端に世界が傾いた。
視界に大きな黒いシミがにじむ。
ゼノが魔法で「縫い合わせた」肋骨が、鈍い痛みとなって悲鳴を上げた。
(今の俺は、まるでガタの来たポンコツ車だ)と俺は思った。
(俺に比べれば、ゼノの方が無限に健康的で頑丈に見える)
『生物学的摩耗:35%。体温異常上昇。グルコースの致命的欠乏』。
いつもの癖で頭の中で診断を走らせた。
いや、走らせたのは俺だろうか。
もう自分でもよく分からなくなっている。
ゼノは机に向かい、何かの根をすり潰していた。
その動きは正確で、無駄がない。
彼は振り返らなかったが、その視線を俺は肌で感じていた。
「起きたか」
作業を止めずに、彼は言葉を投げかけた。
「昨日、俺がお前を繕っている間、ずいぶんと熱心
にうわ言を言っていたぞ」
俺は硬直した。
背筋を冷たいものが走る。
(クソッ……過去のことを余計に喋っていなければいいが。
いや……誰を騙そうとしているんだ。
あっちでの生活は、あまりにも予測可能すぎた。
毎日が同じことの繰り返し。
研究室、計算、実験……
時折、これが新しい一日なのか、それとも前日の続きなのかさえ分からなくなった。
無限ループの毎日。
他に表現のしようがない。
「偉大な科学者」だって?
笑わせる。
人間はいつでもレッテルを貼りたがるものだ)
「お前のその『生きる意志』とやらだがな」
彼はかすれた声で言った。
「それについては……実のところ、問題があってな」
俺は呟いた。
ゼノは腕を組んで俺の方を向いた。
彼の手にあるナイフが鈍く光る。
「お前はそれを『スキル』と呼ぶな。奇妙な言葉だ。
『アクティベーション』、『リアクション』、『オーバーロード』……
そんな風に自分の命を『最適化』し続ければ、ある日突然心臓が止まって、二度と目が覚めなくなるぞ」
俺は黙って、彼から何やら灰色のドロドロした液体が入った器を受け取った。
酷い匂いだったが、カロリーが必要だった。
「ここでは、それが生き残る唯一の方法なんだ」
一口すすってから、俺は言った。
「猟師、狼、トロール……このスキルがなければ、初日にのたれ死んでいた」
「そうかもしれん」
ゼノは俺の向かいにあるスツールに腰掛けた。
「だが昨日のあれは、もう少しで自分の脳を焼き焦がすところだったぞ。
猟師から隠れ、気配を殺し、その上で魔力を無理やり叩き込んだせいで、目の血管が破裂している。
お前は火遊びをしているんだ、小僧」
それから朝の残りの時間は静寂の中で過ぎた。
ゼノが俺の事情をどこまで把握したのかを考えないようにしながら、俺は食事を続けた。
体内の計算では完全回復までにあと三日は必要だったが、ゼノには別の計画があったようだ。
「いつまでも転がっているな」
俺が食べ終えると、彼は言った。
「健康を害さずに、その『スキル』を制御する方法を学ぶぞ」
(……とんだスパルタ教師だな)という思いがよぎった。
俺たちは小屋の裏庭に出た。
空気は湿んでおり、腐った葉と雨の匂いがした。
ゼノは俺を平らな石の上に座らせ、両手を前に突き出すよう命じた。
「お前の問題は、すべての圧力を一度に解放してしまうことだ」
彼は行ったり来たりしながら説明した。
「スキルを起動すると、それに主動権を完全に握られてしまう。
お前はユーザーではなく、アドミン(管理者)にならなければならん。分かるか?」
俺は驚いて片眉を上げた。
「アドミン」だって?
老人のくせに、俺の語彙を吸収するのが早い。
「魔力を指先に集中させてみろ。ほんの少しだ。
激流ではなく、一本の細い蜘蛛の糸をイメージするんだ」
俺は目を閉じた。
スキルがいつもの唸りを上げて応じる。
出力を全開にしないよう抑え込んだ。
狂犬を短いリードで繋ぎ止めているかのような感覚だった。
魔力は心拍数を跳ね上げ、五感を研ぎ澄ましようと、前方へ激しく突進しようとする。
「静かにしろ……」
俺はシステムに命じた。
「最小閾値。出力一パーセント」
前腕に熱が宿るのを感じた。
それはゆっくりと手首へと走っていく。
筋肉が緊張で細かく震えた。
すべての細胞が「もっと速く!もっと強く!もっと効率的に!」と叫んでいるのを感じた。
「もっと抑えろ」
どこか遠くからゼノの声が聞こえた。
「押し出すな。ただ導くんだ」
俺は人差し指の、たった一つの神経終末に意識を集中させた。
額から滝のように汗が流れ落ち、目に入ったが、身じろぎもしなかった。
ある瞬間、上手くいきそうな感覚があった。
内側の障壁を、ほんの少しだけ緩めてみたのだ。
――その瞬間、現実が崩壊した。
一秒前まで頬に感じていた冷たい風が、次の瞬間には完全に消え去っていた。
音も、匂いも、肋骨の痛みも――すべてが消去された。
俺は白い部屋にいた。
影も、光源も、地平線すらない。
エンジニアの視点から言えば、それはテクスチャが読み込まれる前の、空っぽのグラフィック・ドメインのようだった。
(システムエラーか?)という思考がよぎる。
(認知オーバーロードか?)
仮想的な「視界」の端に、一つの人影を捉えた。
人間型ではあるが、細部は一切ない――
かすかに黄色みがかった、柔らかな白い光で満たされたただのシルエットだ。
それは動かなかった。
脅威も温もりも感じられなかったが、その存在自体が圧倒的に重かった。
一歩前へ進もうとした。
足も手もない。
俺はただの知覚の「点」にすぎなかった。
シルエットがゆっくりと薄れ始め、周囲の空間が黒い亀裂と火花で満たされていく。
『まだ早い』
頭の中に響いた。
声ではなく、形を成した思考の残像のようだった。
『システムが未定義だ』
そして――猛烈な勢いで引き戻された。
目を覚ますと、俺は横倒しになり、激しく咳き込んでいた。
ドス黒く粘り気のある血が、鼻から草の上へと滴り落ちる。
頭が大型ハンマーで殴られたように割れそうだった。
すぐ傍らでゼノがしゃがみ込み、俺の肩を掴んでいた。
彼の顔は青ざめ、その手は目に見えて震えていた。
「この……大馬鹿者が」
彼は息を吐き出した。
「押し出すなと言っただろう。もう少しで『境界』を超えるところだったぞ。
あと一秒遅ければ……」
俺は手の甲で血を拭い、身体の震えを抑えようとした。
「俺は……部屋を見た。白い虚無だ。そこに誰かがいた」
ゼノはゆっくりと手を離し、重そうに立ち上がった。
「お前が誰を見たのかは知らん。
だが、おそらくそこがお前の限界点だ。
『魔力の回廊』と呼ぶ者もいれば、『死の境界』と呼ぶ者もいる」
自分の両手を見つめた。
まだかすかに震えている。
(相変わらず芝居がかった言い回しをする老人だ)
だが、俺が見たものは死にゆく脳が見せた幻覚には思えなかった。
あまりにも……何というか、構造化されすぎていた。
「家へ這い戻れ。今日はここまでだ。
お前の言う『プロセッサー』だか何だか知らんが、そいつには再起動が必要だろう」
差し出された杖を支えに、俺はかろうじて立ち上がった。
気分は最悪だった。
「明日……」
小屋の敷居をまたぎながら、俺はかすれた声で言った。
「明日から、トロールの骨板で鎧を作り始める」
「まずはスープをこぼさずにスプーンを口に運べるようになってから言うんだな」
老人はそう悪態をつき、扉を閉めた。
俺はブーツも脱がずに藁布団へと倒れ込んだ。
エンジニアにはおあつらえ向けの、恐ろしく謎に満ちた世界だ。
だが、やるべき仕事が山積みだった。
まあいい……
前世の俺も、立ち止まり方なんて知らなかった。




