第78話:トライアード
空気が奇妙に変質していることに気づいた。
密度が高く、かすかにオゾンの味がする。昇降機のキャビンの中とまったく同じだ。
おそらく、生命維持システムが稼働しているのだろう。
地球を見やった。
それは巨大で、美しく輝いていた。
だが、俺たちが登ってきたはずの軌道エレベーターも、鋼鉄のシャフトも、どこにも見当たらない。まるで、最初から存在しなかったかのように溶けて消えていた。
一跳びで、一瞬にしてここまで来てしまったかのようだ。
実際には、鋼鉄のシャフトはステーション自体の巨大な構造物に遮られ、遥か下方に埋もれて見えないだけなのだろうが。
(俺たちは本当に、宇宙にいるのか?)
そう思った。
ヴァレリウスは、床が無限の深淵へと途切れるその際に立っていた。
外界と彼を隔てているのは、超高強度透明コンポジットの層だけだった。
「降伏しろ、ヴァレリウス」
エフレムが掠れた声を絞り出した。
老人は荒い息を吐き、その顔面は蒼白だった。
「お前のプロジェクトのすべて……取締役会の裏で築き上げたものすべてを、ワシらが白日の下に晒してやる」
「取締役会だと?」
ヴァレリウスは低く笑った。
「エフレム、お前はいつも地上の概念に囚われすぎている。本当にあの階下の官僚どもが、このステーションを支配しているとでも思っていたのか? アカデミアは学校でもなければ、企業でもない。私の私的な道具だ。私は『創設者』なのだよ。お前たちが這い回る泥と混沌の上へ昇るため、この尖塔の最初の礎石を置いたのは私だ。評議会など、何かを信じる必要がある者たちのための、ただの目隠し(スクリーン)に過ぎん」
彼は、世界の頂点に置かれた王座のような椅子へと腰を下ろした。
「だが、王がゴミを片付けるために自らの手を汚すことはない。そのための者たちがいる」
ホログラムパネルの背後に隠されていたホールの壁が、左右へと開いた。
気密ニッチから、三つの影が現れる。
俺の義手が、かすかに震えるのを感知した。
マルクス。重装甲『ゴリアテ』をまとったタンク。
鏡面の床に一歩一歩を踏みしめるたび、重い衝撃が響く。そのエキゾスケルトンは、爆発と銃撃による無数の傷痕に覆われていた。
シフ。彼女は床に触れていなかった。
反重力モジュールと一体化したサイボーグの女。髪の代わりに頭部から伸びる無数の光ファイバーケーブルが、天井のポートへと繋がっている。
カイン。骸骨のように痩せ細り、目も眩むような純白の白衣をまとった男。
その指先は、針、メス、レーザーといったマニピュレーターの束に置換されていた。『肉体の調律師』。
エフレムが硬直した。
カインの姿を目にした瞬間、彼の眼窩が大きく見開かれる。
「お前……第734ブロックの……。ワシの娘を奪ったのは、お前か」
カインは首を傾げ、薄い唇を歪めて笑みを浮かべた。
「おや、彼女は実に見事でしたよ。その神経系は、最後の最後まで激しく抵抗し続けた。非常に稀少な検体でした」
エフレムが猛然とカービン銃を跳ね上げたが、すべてはあまりにも一瞬だった。
「始めなさい」
ヴァレリウスが退屈そうに言い捨てた。
俺はヴァレリウスに向かって突進しようとしたが、マルクスがその巨体で立ち塞がった。
衝撃。
俺は後方のガラス壁へと弾き飛ばされた。
宇宙の真空を堰き止めている透明な障壁に背中から激突し、一瞬、ガラスに亀裂が入ったかのような錯覚に襲われる。
別の方角でティラが悲鳴を上げた。
シフがゼノをハッキングしていた。
ゼノの機関銃の銃口が、ゆっくりとティラの方へと向けられていく。
彼のカメラアイが赤くフラッシュする——サーボモーターが火花を散らして抵抗していたが、シフのバイパスプロトコルが彼のプロセッサを内側から焼き切ろうとしていた。
「やめて! ゼノ、止まって!」
ティラが壁に背を擦りつけながら絶叫する。
その瞬間、エフレムはただカービンを構えるのではなく、上着の内ポケットへと鋭く手を突っ込んだ。
掴み出されたのは、内部から微かに発光する数個の小さなアーティファクト。
関節が軋むほどの力で、老人の指がそれらを握りしめる。
すべてのアーティファクトを一撃で粉砕し、不安定なエネルギーを暴走させ、この場のすべてを道連れに爆破してカインを地獄へ引きずり落とす気だ。
だが、ヴァレリウスはそれを見逃さなかった。
彼の手に、奇妙な黒い六角形のデバイスが閃く。
次の瞬間、そこから漆黒の質量が噴出した。
コンマ数秒でホールを横切った黒い物質は、老人の手の中にあるアーティファクトを強固な繭のように包み込み、凄まじい力で引ったくってヴァレリウスの手元へと持ち去った。
アーティファクトを弄びながら、ヴァレリウスは低く、嘲るように笑った。
「本当に私を騙せると思ったのか? 洞窟でも、各セクターでも、あるいは地表にいた時でさえ……お前はアイロンやゼノに向かって、アーティファクトなど持っていないと言い張り続けていたな。私がそれを聴き逃すとでも?」
彼は首を振り、唇に笑みを浮かべた。
「だがエフレム、奴らに嘘を吐き通すつもりなら、最後まで突き通すべきだったな」
エフレムが呆然と自分の空の手のひらを見つめた、まさにその刹那。
カインの身体が掻き消えるような速度で肉薄した。
一瞬のブレ、そして正確無比な刺突。
長い針が老人の肩深くへと突き刺さる。
エフレムは喉を掻きむしりながら、鏡面の床へと崩れ落ちた。
「ニューロトキシン(神経毒)です」
カインが彼を見下ろしながら、耳元で囁いた。
「肺が呼吸を止めるその前に、あなたの大切な『坊や』を私が解体する様子を拝むくらいには、十分に長生きできますよ」
俺は床に倒れ伏し、マルクスの重いブーツに踏みにじられていた。
胸部を踏みつけされ、肋骨が内側へと軋む。
【システムリミッター解除】
【過負荷:400%】
【殲滅プロトコル作動】
俺の、目が——。
耐え難いほどの熱量がそこに灯るのを感じた。
世界が、灰色に染まっていく。
作動液が沸騰し、関節から蒸気となって噴き出した。
俺はマルクスの足首を掴んだ。
俺の指先の下で、強固な装甲が紙細工のようにひしゃげる。
俺は立ち上がった。奴の巨体の重みなど、完全に無視して。
マルクスがハンマーを振り下ろそうとする。
打撃。
俺の拳は、30センチメートルに及ぶコンポジット装甲、肉、そして骨を易々と貫通した。
マルクスの背中を突き抜けた俺の手は、そのスーツの動力核を強引に引きちぎっていた。
胸に穿たれた巨大な風穴から、機械油の混じった鮮血が激しく噴出する。
巨体が崩れ落ち、ただの鉄屑の山へと変わった。
噴き出す蒸気の煙の中に立ち、俺は荒い息を吐いていた。
俺の左腕は力なく垂れ下がっていたが、右腕は——禍々しい深紅の光を放っていた。
カインとシフへ、ゆっくりと首を巡らせる。
ヴァレリウスがその椅子から、静かに立ち上がった。
「これだ……」彼は囁いた。「これこそ、星々へ向けてこの尖塔を築き上げるに値する価値だ」
俺はカインに向かって、一歩を発み出した。
腕の関節からはシューシューと音を立てて蒸気が漏れ、俺の視界の中で、世界が細かく震えていた。
「お前が……次だ」




