第77話:ガラスの庭園
「嘘でしょ……」
ティラが息を漏らした。
彼女はハッカー用タブレットをだらりと下げ、あっと圧倒されたように頭上を見上げていた。
俺たちは、透明なドームの下にある巨大なアトリウムにいた。
防弾ガラス越しに差し込む光——それは、本物の恒星からフィルタリングされた、青みがかった清浄な光のスペクトルだった。
周囲を公園が囲んでいる。
艶やかな葉をつけた木々、整然と刈り込まれた生け垣。
そして、人工の小川がさらさらと音を立てて流れる、白い石畳の小道。
『ガラスの庭』。
特権階級のためのエリアだ。
俺が一歩踏み出すと、泥と血にまみれた重いブーツが、タイルに黒い足跡を残した。
「あいますら、こんな場所に住んでるの?」
ティラの声が震えていた。
「あたしたちが下の泥沼で、喉の渇きを凌ぐために自分の小便を濾過してる間……あいつらは、こんな上の世界で……」
彼女は近くの茂みに近づくと、一枚の葉をむしり取り、拳の中で握りつぶした。
「この庭を維持するためだけに、ハイヴの居住区画全体よりも多くのエネルギーが消費されてるんだよ」
エフレムがタイルに唾を吐き捨てた。
「ここはテラリウムじゃ。この静けさに騙されるなよ」
静寂は、確かに息が詰まるほどだった。
換気扇のハム音も、商人の怒号も、サイレンの音もない。
ただ、葉の擦れ合う音だけが響いている。
【最適環境。脅威レベル:0%。待機モードを推奨します】
脳内で、何かがそう囁いた。
俺は頭を振り、幻聴を追い払おうとする。
「ようこそ」
声が、あらゆる場所から、同時にどこでもない場所から響き渡った。
俺たちは瞬時に、背中合わせの円陣を組んだ。
ゼノが鋭く銃を構え、銃口を左右に走らせるが、狙うべき標的はどこにもいなかった。
「予想よりも早くたどり着いたな。褒めて遣わそう。特に、アイロン。お前が新しい装備に適応する速度は……実に見事だ」
「姿を現せ、卑怯者!」
俺は叫んだ。
「何をそう声を荒らげる? 私たちは文明人のはずだ」
ヴァレリウスの声が続く。
「周囲を見てみろ。美しいとは思わないか? これこそが、私たちの目指すものだ。秩序。調和。そして、純潔」
突如、木の幹に擬態していたホログラムパネルの一つに、ティラの顔が映し出された。
彼女の経歴、グラフ、神経活動のダイアグラム。
「ティラ……泥にまみれて生まれた、才気溢れる子供。お前の才能は浪費されている。ここアカデミアであれば、独自の研究所を持つこともできた。あらゆるテクノロジーへのアクセス権もな。お前は世界を破壊するのではなく、創造する側に回るべきなのだ」
映像が切り替わる。
今度はエフレムだった。今よりも、ずっと若い姿の。
「傷を負った古い友人よ……お前は疲れている。バイタルデータを見れば一目瞭然だ。肺は塵にまみれ、心臓は限界を迎えつつある。私たちには医療カプセルがあるのだよ、エフレム。ほんの一回の処置で、お前は永遠に痛みから解放される。本物の星空を眺めながら、穏やかな余生を過ごすこともできるのだ」
「その提案ごと、お前のケツに突き刺してやるわい」
エフレムは掠れた声で毒づいたが、その両手が震えているのを俺は見逃さなかった。
「アイロン……」
ヴァレリウスの声が、一段と優しくなった。
「お前には何も提案すまい。お前自身がすでに真実を知っているはずだからな。自分の同行者たちを見てみるがいい。よく観察するんだ」
【標的戦術分析】
ゼノ(イエローマーカー):旧式モデル。致命的な損傷。戦闘効率:12%。
エフレム(レッドマーカー):生物学的対象。ステータス:極度の疲弊。任務の障害。
ティラ(レッドマーカー):非戦闘員。高い誤差要因。足手まとい(バラスト)。
「奴らがお前の足を引っ張っている」
ヴァレリウスが囁いた。
「お前の潜在能力は無限だ。それなのに、弱者を守るために無駄なエネルギーを消費している。左腕が壊死しかけているのは、お前の肉体が、もはや不要となった『人間性』にしがみついているからだ。そんなものは捨てろ。一人で私の元へ来い。そうすれば、お前は完璧な存在になれる」
「違う……」
俺は奥歯を噛み締めた。
「こいつらは、俺の家族だ」
「家族とは、弱さの別名だ」
ヴァレリウスが言葉を遮った。
【近衛兵:第一フェーズ】
アトリウムの照明が明滅し、禍々しい赤色へと変化した。
木々の陰から、壁の窪みから、あるいは地面から直接、複数の影が這い出してきた。
身長は2メートル。
人間の筋肉の解剖図を模した、艶消しの白い装甲に身を包んでいる。
顔はない——ただ、滑らかな鏡面のバイザーがあるだけだった。
「ゼノ、撃て!」
エフレムが命令を下した。
銃撃が開始されたが、弾丸は装甲に弾かれ、ただ火花を散らすだけだった。
そのうちの1体が、瞬時に俺の間合いに踏み込んできた。
胸部への容赦ない蹴りが俺を後方へと吹き飛ばし、大理石のベンチを粉々に粉砕する。
肋骨を突き刺すような激痛が走ったが、それもすぐに消失した。
周囲の世界の動きが、不自然に遅くなる。
【脅威:高。結論:排除】
俺は跳ね起き、近衛兵が俺の首筋を狙って突き出してきたブレードを掴み取った。
金属が、俺の鋼鉄の手のひらと擦れ合って悲鳴を上げる。
指を締め上げる。
チタン合金の刃が圧折した。
鋭い引き戻しと同時に、俺はその無表情なマスクの中央へと拳を叩き込んだ。
奴が崩れ落ちる。
だが、まだ5体残っていた。
視界の端で、エフレムが地面に組み伏せられるのが見えた。
ゼノは片腕を失い、ティラはスタンガンで応戦しながらも、効果なく後退を余儀なくされている。
【味方の防衛:非効率】
優先事項:自己保存。対象の殲滅。
俺は装甲を引きちぎり、人工の骨をへし折り、破壊したサイボーグの片腕を棍棒代わりに使って別の個体の頭蓋を叩き割った。
最後の近衛兵が、俺の側面を突しようとした。
俺は踵を返し、裏拳の軌道を正確に算出した。
俺の拳が、寸分の狂いもなく標的へと突き進む。
だが、衝撃が走る直前、最後のコンマ数秒という瞬間に、システムが新たな対象をハイライトした。
【対象:ティラ。ステータス:障害物】
推奨:無視/排除。
ティラだ。
彼女はEMPグレネードを投げつけようと、激しい戦闘の射線上に直接飛び込んできていた。
俺の拳が、彼女の顔面から1ミリのところで急停止した。
遮断された衝撃の余波が、彼女の髪を激しく吹き上げる。
彼女は強く目を瞑っていた。
俺は荒い息を吐きながら、その場に立ち尽くした。
腕が激しく震えている。
「アイロン……?」
ティラが目を開けた。
俺はゆっくりと腕を下ろした。
肩のインジケーターが、戦闘時の赤からニュートラルな青へと切り替わる。
「俺は……」上手く声が出ない。「……そんなつもりじゃなかった。すまない」
装甲の破片が地面を埋め尽くしていた。
庭園は完全に破壊され、木々は無残に引き裂かれている。
エフレムが、ゆっくりと俺に近づいてきた。
「お前は、まさにあの男の望む通りの怪物になりかけておるぞ、小僧」老人は静かに言った。「それが分かっておるのか?」
「分かってる」俺は低く応じた。「だけど、止められないんだ。これを切ったら……俺たちは全員ここで死ぬ」
「急がないと」
ティラが立ち上がり、服の汚れを払いながら言った。
俺たちは破壊し尽くされた庭を抜け、先へと進んだ。
プロムナードの突き当たりに、黒い黒曜石で作られた巨大な両開きの扉がそびえ立っていた。
俺たちが近づくと、重厚なパネルが音もなく左右へと滑り出していく。
その奥にあったのは、コマンドセンター。
すなわち『源泉』だった。
壁面は完全に透明であり、深宇宙のパノラマが広がっていた。
何十億もの星々が、俺たちを見返している。
部屋の中央。俺たちに背を向けた一人の男が、白衣をまとって立ち、地球の巨大なホログラムを凝視していた。
「夕食には遅かったな」
ヴァレリウスは振り返りもせずに言った。
その声は穏やかで、どこか哀愁さえ帯びていた。
「だが、古い世界の終わりを見届けるには、ちょうどいい時間だ」
俺たちは一歩踏み出し、敷居を跨いだ。
背後で、重い扉が鈍い音を立てて閉ざされた。




