第76話:ソース
昇降台が激しく震え、上昇を開始した。
それはエレベーターというよりも、格納庫ほどもある巨大な貨物デッキだった。
果てしない垂直シャフトの内部。そこに敷かれたチタン製のレールを、ゆっくりと這い登っていく。
眼下に広がる工業階層の轟音が遠ざかり始め、代わりに吹き降ろす向かい風の咆え声が響いてくる。
俺はそこに立ち、下を見つめていた。
『蜂の巣』の汚れ、錆、そしてネオンの靄が混ざり合い、辛うじて判別できる程度の鈍い光のシミへと溶けていく。
「縁から離れろ、小僧」
エフレムが静かに言った。
彼は鋼鉄の箱に腰を下ろし、古びて凹んだフラスコを取り出した。
一口含むと、それを俺に差し出してくる。
「今日は妙に静かじゃな」老人は風に目を細めながら言った。「お前にしては、な」
「ただ、考えていただけだ」
「何をじゃ?」
「どうして俺は、こんなことを始めてしまったのかってな。いや……本当は分かっているんだ。それでも……全部、自分が招いたことだ」
エフレムは長い沈黙を保ち、シャフトの暗闇を見つめていた。
「誰しも愚かな真似をするものさ。昔はワシも、自分が大物だと自惚れていた。聖堂騎士団の最上層にいたんじゃからな。だが……奴らはワシの娘を奪っていった。開発中だった新しい神経インターフェースに、あの子の生体データが適合したという、ただそれだけの理由でな。それ以来、娘の姿は見ておらん」
「あんたがトップにいたのに、どうして奪うなんて真似ができたんだ?」
「五人評議会じゃ。正確には……ヴァレリウスの部下の一人だな」
彼は静かに言った。
シャフトの中に、沈黙が降りた。
「どうし……」
「なぜお前を助けるのか。そう訊きたいんじゃろう、小僧」
「あぁ」
「お前には多くの嘘を吐いた。ワシがお前を助ける本当の理由はな……奇妙なことに、お前があの子に似ているからじゃ。それに、ワシがお前の手でヴァレリウスの喉笛を掻き切る手助けをできれば、ワシの人生も全くの無駄ではなかったと思える」
彼は俺の無事な方の肩を叩き、背を向けた。
少し離れた場所で、ティラがゼノの整備をしていた。
ロボットは支柱にしがみつくように座り込んでいる。
ティラは彼の胸の剥がれかけた装甲板を固定しようとしていたが、油にまみれた指先が何度も滑っていた。
「ティラ」
唐突に、ゼノが口を開いた。
その声は、いつものデジタルノイズを伴わず、奇妙なほど鮮明だった。
「もし君が、僕の機体のあと40パーセントを交換したとしたら、僕は変わらずゼノのままだろうか?」
ティラはスパナを握ったまま、動きを止めた。
「あんたはあんただよ、ゼノ。あんたの記憶。アイロンを心配するその心。そんなものは、予備のパーツなんかじゃ換えがきかないんだから」
(それでも俺たちは皆、何かしら壊れたものの破片に過ぎない)
俺はそう思った。
その時、脳内で何かが弾けた。
高音の耳鳴り。
視界を遮るように、いくつもの光景が明滅する。
無菌の白い病室。ゴム手袋をはめた冷たい手。
そして、水底から響いてくるようなヴァレリウスの声。
『対象アイロン-01。テスト番号48。【技能】発動を確認。網膜の変性が見られる。刺激を継続せよ』
俺は絶叫し、頭を掻き抱いた。
「アイロン! どうしたの?!」
ティラが俺の元へと駆け寄る。
「奴が……そこにいる」
脳髄から光景を叩き出そうともがきながら、俺は掠れた声を出した。
「記録を強制転送してきているんだ」
「あいつ、義手を中継器にしてるんだ!」
ティラは狂ったようにタブレットへ手を伸ばし、俺のポートに接続を試みる。
「持ちこたえて、アイロン! フィルターをかけるから!」
頭上のシャフトの暗闇から、はっきりとした駆動音が轟いた。
「物陰に隠れろ!」
エフレムが怒鳴り、古びたカービン銃を跳ね上げた。
猛禽の群れのごとく、上方から襲いかかってきたのは『迎撃機』だった。
磨き抜かれたクロームが眩い、『光のアカデミア』のドローン群。
放たれたレーザーカッターがデッキの床に熱線の軌跡を刻み、ゼノのすぐ傍をかすめた。
遮るもののないエレベーターシャフトでの戦闘は、自殺行為に等しかった。
数個の貨物箱を除けば身を隠す場所もなく、昇降台は今なお猛烈な速度で上昇を続けているため、吹き荒れる向かい風が全員の照準を狂わせていた。
「ゼノ、側面をカバーしろ!」
俺は命じた。
視界の端で、赤色のマーカーが次々と点灯する。
すべてのドローンが計算されていた。速度、軌道、撃破確率。
俺は地を蹴った。
ドローンの1機が背後を取ろうと俺の1メートル横を掠める。
振り向きもせず、俺は右腕を後方へと突き出した。
金属の指先が迎撃機の薄い翼を鷲掴みにし、そのままシャフトのガイドレールへと叩きつける。
爆発。火花の豪雨。まず1体。
「アイロン、気をつけろ!」
エフレムが別の群れに牽制射撃を加えながら叫ぶ。
俺はデッキの床板から引きちぎれていた鉄筋を掴み、2機目のドローンへと投げつけた。
プロセッサが完璧な投擲軌道を割り出す。鉄の棒はマシンのコアを真ん中から貫通した。
だが、最後のドローンが——今やただの燃え盛るプラスチックの塊と化して——暗闇へと墜落した時、俺は自分の左腕が完全に感覚を失っていることに気づいた。
俺はその場に片膝を突いた。
「……ここまで、か」
息を吸おうとしたが、肺に砂が詰まったかのように空気が入らない。
ティラが顔を真っ青にして駆け寄ってきた。
彼女はバッグから自動注射器をひったくる。
「警告したはずだよ! あんたの神経系が持たないって! これ以上の負荷をかけたら、シナプスが文字通り焼き切れる!」
彼女は俺の首筋に遮断薬を突き刺した。
鋭い痛みが一瞬だけ意識を呼び戻したが、左腕のマヒは消えなかった。
「お前は自分を殺しとるんじゃ、アイロン」
近づいてきたエフレムが静かに言った。
「ヴァレリウスは指一本動かす必要すらねえ」
「選択肢なんて……ないんだ」
袖で血を拭いながら、俺は声を絞り出した。
昇降台が減速し始めた。
レールの軋み音が徐々に静まっていく。
頭上で、巨大な気密扉が開き始めた。
隙間から溢れ出す光は、盲目になりそうなほど眩しかった。
デッキは滑らかにドッキング・ドックへと侵入し、所定の位置で固定された。
俺たちは格納庫の、鏡のように滑らかな床へと足を踏み入れた。
ここには錆ひとつない。焦げ付いたスラグの臭いもしない。
空気からはオゾンと、何かの花の香りがしていた。
「誰もいないの……?」
ティラがタブレットを強く握りしめながら、低く呟いた。
俺はまっすぐ前を見据えた。
俺の義手が微かに振動し、まるでコンパスの針のように機能していた。
「奴は『源泉』で待っている」
俺は言った。
「なら、行くぞ」
エフレムは振り返らずに言った。
「ケリをつける時間じゃ」




