第75話:オーソライズ・ポイント
工業区画には、『死の水』のような静寂は欠片もなかった。
ここではすべてが咆え、軋みを上げ、火花を散らしている。
巨大な磁気クレーンが天井を這い回り、無残にひしゃげた金属の山を引きずっていく。
それはまるで、巨大な鋼の怪物の砕けた肋骨のようだった。
俺たちは狭いキャットウォークを進んでいた。
遥か100メートル眼下では、溶けたスラグの満ちた巨大な坩堝が、煮えたぎる泡を吹き上げている。
金属の山に視線を落とした瞬間、視界の隅で戦術インターフェースのグリッドが明滅した。
【対象:44-B規格鋼。崩落確率:14%。最適ルート:算出完了】
「アイロン、どうして立ち止まった?」
エフレムが俺の肩に触れた。
俺はビクッと身をすくませる。視界のグリッドが消え去った。
「足元を見ていたんだ」
俺は嘘を吐いた。
(これ以上、馬鹿正直に手の内を晒すのはごめんだ)
「腕がオーバーヒートしてるんじゃないの?」
ティラが俺の歩調に合わせながら訊ねた。
彼女は工具袋を掛け直し、疑い深そうに俺の義手を観察する。
「前腕から蒸気が出てるよ」
「何でもない」
俺は彼女の言葉を遮り、上着の陰に腕を隠した。
中央のジャンクションに差し掛かろうとした時、工場全体を包んでいたハム音が、唐突に音色を変えた。
フライス盤の甲高い悲鳴が止み、代わりに、金属と金属が高速でぶつかり合う規則的な打撃音が響き始める。
「敵と接触!」
ゼノが咆え、カービン銃を構えた。
圧縮された金属屑の山の陰から、四つ足の首無し機械が飛び出してきた。
小刻みで不規則な挙動でありながら、恐ろしいほどのしなやかさで梁から梁へと跳び移ってくる。
「撃つな!」
エフレムが叫んだ。
「上層のパトロールを呼び寄せるぞ!」
「だが、奴らはもう来てる」
俺は言った。
その瞬間、群れの中で最も巨大な個体が、上のキャットウォークから直接俺に向かって飛び降りてきた。
一歩踏み込み、俺は右腕でそいつを空中で鷲掴みにした。
ツェンチュリオンの油圧駆動が凄まじい出力で稼働し、生身の肩の骨が関節から外れそうになる。
指に力を込める。
怪物の装甲がひしゃげた。
閃光が走り、焼け焦げた絶縁体の臭いが立ち込める——。
俺は火花を散らす鉄屑の塊を、眼下の深淵へと投げ捨てた。
残る3体の機械が、ほんのコンマ数秒だけ硬直する。
「アイロン、下がって!」
ティラがスタン・バトンを構えながら叫んだ。
俺の頭の中では、絶えず一つのリズムが脈打っていた。
標的。捕捉。破壊。
俺は前方に飛び出した。
瞬く間に2体目との距離を詰め、裏拳による強烈な一撃を叩き落とす。
拳は装甲を完全に貫通し、格子状の鉄の床に機械を縫い留めた。
3体目と4体目が同時に俺の側面へ回り込もうとする。
だが、すでに体勢を立て直していたゼノが、容赦ない銃床の打撃でそのうちの1体を空中で叩き落とした。
最後の一体は——ただ『首』を掴み上げ、メインケーブルをプロセッサの一部ごと根こそぎ引きちぎってやった。
俺はキャットウォークの真ん中に立ち、荒い息を吐いていた。
右腕が激しく痙攣し、拳を開くことすらできない。
金属からは濃い煙が吹き出し、顔面には神経性のチックが走っていた。
「アイロン……」
ティラが、手負いの獣に近づくように慎重に歩み寄ってくる。
「見せて」
俺は後ずさった。
「触るな。平気だ」
「どこが平気なもんか!」
エフレムがまっすぐに歩み寄り、俺の顎を乱暴に掴んで自分の方を向かせた。
「腕が異常なほど震えとるだろうが! それにお前の目だ……また完全に灰白色になっとるぞ、小僧。自分を焼き尽くす気か」
「だが、俺は奴らを片付けた」
俺は毒づき、老人の腕を振り払った。
「一発も撃たずにだ」
「分かった、好きにするがいい」
エフレムは言い捨てた。
「だが、そのガラクタがお前を引き裂き始めたとしても、助けを呼ぶような真似はするなよ」
何も答えず、俺は歩き出した。
その後、俺たちはセクターの最奥部に到達した。
目の前に、巨大な気密扉が立ちはだかっている。
壁には生体スキャナーが鈍い光を放っていた。
ティラがアクセスポートにタブレットを接続した。
だが、スクリーンに乗せた指先がピタリと止まる。
「三層暗号化されてる。それに……なんてこと」
「どうした?」
エフレムがマガジンを確認する。
「システムが力任せのハッキング(ブルートフォース)を弾く設定になってる。対象者本人の認証が必要だ。『観察者』への直接照会……」
彼女は俺を見た。
「もしあんたの手のひらをこのスキャナーに押し当てたら、システムが感知した瞬間に、ヴァレリウスに俺たちの居場所が筒抜けになる。通知があいつの個人端末に直接送られるんだよ」
俺は無言のまま、スキャナーの冷たいガラスに手のひらを押し当てた。
スキャナーが鮮やかな赤色にフラッシュし、次いでカチリと音を立てて緑色に切り替わる。
重厚な扉が金属音を軋ませながらスライドし、垂直に伸びるシャフトが姿を現した。
「迎えに行くぜ、クソ野郎……」
俺は低く呟いた。
上層のどこかにある、無菌室のような執務室。
ヴァレリウスのスクリーンに、一つの通知が浮かび上がった。
【対象:アイロン-01:認証完了。エレベーターシャフトに侵入】
ヴァレリウスは気付かれぬほどの微かな笑みを浮かべた。
そして彼の視線は、対象者のニューラルネットワークが致命的なオーバーヒートを起こしていることを知らせる警告表示へと、ゆっくりと滑り落ちていった。




