第73話:アセット(有用な資産)
俺たちは『蜂の巣』の中にいた。
足首まで油まみれの粘液に浸かりながら、泥濘を進む。
俺はエフレムの肩に重く寄りかかり、ただオートパイロット状態で足を交互に動かしていた。
『青いゼリー』の効果は、完全に切れかけていた。
老人は息を切らし、吐き出す呼吸のたびに喉を鳴らしていた。
「コレクターの排水路まであと200メートルじゃ」
彼は吐き捨てるように言った。
「そこまで行けば、奴らを撒ける」
ティラが先頭を歩き、薄暗い懐中電灯の光で進路を照らす。
最後尾はゼノだ。
ツェンチュリオンとの激闘を経て、彼のシャシーは目に見えて歪んでおり、一歩進むごとに左脚から不快な金属摩擦音が響いていた。
角を曲がると、ペンキの剥げかけた気密扉が目の前に立ちはだかった。
そこには『第C-4セクター』と書かれている。
ティラはすでにデコーダー付きのピッキングツールを取り出していた。
「持ちこたえなよ」
電子錠に端末を接続しながら、彼女は呟く。
「3秒で開ける」
——だが、扉は開かなかった。
代わりに、通路が突如として強烈な白い光に満たされた。
10メートル先、通路の真ん中に、一人の男が立っていた。
真っ白なキテル(軍服)、完璧にアイロンのあてられたズボン。
そして、泥など一切ついていない磨き抜かれたブーツ。
男は背中で腕を組み、こちらをじっと見据えていた。
「ヴァレリウス……」
エフレムが呟いた。
「久しぶりだな」
男は言った。
ゼノが反応し、銃口を持ち上げようとした。
だが、ヴァレリウスが軽く指を鳴らす。
それだけで、見えない衝撃波がゼノを壁へと激しく叩きつけた。
「重力モジュール……」
ティラが一歩後退しながら、最悪の現実を口にした。
「第4世代型だ。終わったよ」
「酷い面構えだな、エフレム」
ヴァレリウスが冷ややかに言った。
「逃亡生活でおちぶれたか。そしてお前だ、アイロン……」
男の視線が俺へと移る。
「……随分と興味深い姿になったな。お前をあえて逃がしてやってからというもの、すべてが退屈極まりなかった」
「何が望みだ?」
俺は訊ねた。
「始めたことを終わらせるだけさ」
ヴァレリウスは俺たちの三歩手前で足を止めた。
「あの時、お前はほぼ俺の手中にあった。覚えているか? インプラントへの適合性、あるいはその生存能力……お前を連れ戻す」
「俺は道具じゃない」
俺は拳を握りしめて言った。
「お前は資産だ。損傷してはいるが、価値ある資産だ。お前の友人どもに関しては……」
男はエフレムとティラを、底辺のゴミを見るような目で一瞥した。
「……ただの付随的被害に過ぎん」
男が掌を上に向けて腕を上げた。
刹那、俺たちの周囲の空気が凝縮される。
急激な気圧の乱高下が鼓膜を直撃し、身体が床へと圧殺された。
エフレムは膝を突き、血を吐いた。
ティラは背後の扉に文字通り張りつけにされ、指一本動かすことができない。
「抵抗は無意味だ、アイロン。お前もよく分かっているはずだ」
俺はティラを見た。
彼女が俺の視線を受け止め、声を出さずに唇だけで一つの言葉を紡いだ。
——『管』。
彼女は上方に視線を走らせる。
ヴァレリウスの真上を通る、一本の太く錆びついた配管。
そこには色褪せた警告表示があった。
『注意:高圧蒸気』。
ヴァレリウスが俺に向かって一歩踏み出した。
「立ち上がれ。家に帰る時間だ」
俺は這いつくばったまま、手探りでエフレムのベルトを漁った。
指先が、老人がいつも持ち歩いている重いパイプレンチに触れる。
「地獄へ落ちろ」
俺は毒づき、残されたすべての力を振り絞ってレンチを投げつけた。
金属工具が甲高い音を立てて、錆びついた配管に命中する。
ヴァレリウスが嘲笑した。
「本気か? レンチだと?」
だが、そのまさに一瞬の隙だった。
瓦礫の山に倒れ込み、システムを再起動させていたゼノが腕を持ち上げた。
放たれた、一発の銃弾。
弾丸はレンチが激しくぶつかったまさにその一点を貫き、配管が爆発的に破裂した。
汚水の混じった過熱蒸気の奔流が真下へと噴出し、一瞬にしてヴァレリウスを沸騰する白煙の彼方へと呑み込んだ。
俺たちを床に縫い止めていた重圧が、霧散する。
「ハッチへ! 早く!」
エフレムが俺の襟首を掴みながら咆えた。
ティラはすでに床のハッチの鍵を叩き割っていた。
振り返ることなく、俺たちは次々と暗闇へと飛び込んだ。
排水シャフトの滑りやすい壁に身体を強打しながら、俺たちは奈落へと滑り落ちていく。
俺たちが辿り着いたのは、『蜂の巣』の階層から50メートルほど下に位置する沈殿池だった。
コンクリートの壁に激しくぶつかる水の音を除けば、そこは暗く、静まり返っていた。
エフレムが俺を乾いたプラットフォームへと引き上げる。
続いてゼノが這い上がってきた。彼の傷だらけのシャシーからは、黒い泥水が滴り落ちている。
「撒いた……よね……」
ティラが震える指で濡れた髪を顔から払いながら、荒い息を漏らした。
「長くは持たんて」
エフレムが水の中に血を吐き捨てながら、陰鬱に言った。
「あの男がお前の名前を呼んだということは、意味は一つしかねえ……」
「クソ……よりによって、なんで今このタイミングで出てきやがるんだ、あの野郎……」
俺は低く呟いた。




