第71話:バイオトラッカー
数時間前——
「急ぎな、ティラ! 時間がないぞ!」
エフレムは施錠されたドアを何度も気にしながら、狭い作業場の中を苛立たしげに行ったり来たりしていた。
「急かさないでよ、ジジイ!」
ティラは、ゼノの首元から露出した配線から目を離さずに言い返した。
「一歩間違えれば中央プロセッサがショートする。そうなったら、あたしたちは一生ここから出られないんだから。ちょっと黙ってて……」
彼女の尖った声は、外に筒抜けだった。
すりガラスの仕切りの向こうから、重い足音が近づいてくる。
通路に配備されていた大柄な二人の「看守」が、鋭い動きでこちらの部屋へと向き直った。
「おい、そこの中! 何の騒ぎだ?」
巨漢の一人が怒鳴り、ドアへと向かってくる。
もう一人は、すでにホルスターに手をかけていた。
室内の緊張感が限界まで跳ね上がる。
アイロンは最悪の事態に備え、拳を握りしめた。
「よし、できた!」
ティラが勝ち誇ったように息を吐き、診断用ケーブルを引き抜いた。
看守たちが何事かと中に踏み込んできた瞬間、ゼノが猛然と飛び出した。
電光石火の二連撃。
大男たちには、武器を構える時間すら与えられなかった。
ゼノは顎と後頭部の付け根へ正確な一撃を叩き込み、二人を瞬時に気絶させた。
重い肉体が、金属の床に激しく叩きつけられる。
「行くよ! 動いて!」
ティラは工具袋を掴みながら指示した。
しばらくして、セクターの分厚い防爆扉がゆっくりと左右に開いた。
二人の忠実な手下を従え、クロトが部屋に入ってくる。
その顔には、勝ち誇ったような薄汚い笑みが浮かんでいた。
クロトの頭の中では、すでに壮大な計画が渦巻いていた。
(あのガキ、アイロン……あいつの脳は宝の山だ)
クロトはだらしなく指を鳴らしながら考えた。
(あいつに作らせる。新しい技術。プロジェクト『アリスク(Arisk)』をな。あいつの天才的な工学の才能があれば、中層の幹部連中が震え上がるほどの強力な兵器を作れる。この地域の勢力図を完全にひっくり返してやる。そうなれば、もう誰一人として俺に命令をくだす真似はできん……)
だが、その妄想は、突然その場に硬直した手下の一人によって無残に打ち砕かれた。
「ボス……あそこを見てください」
「何だとっ?!」
クロトが唾を吐き捨てた。
手下たちは一斉に銃を抜き、通路と檻を警戒しながら前方へと突進した。
クロトは足早にティラのいた部屋へと向かう。
——もぬけの殻だった。
激しい怒りの波が彼を襲い、現実を突きつけた。
クロトの顔は怒りで歪み、首の血管がち切れんばかりに浮き出ている。
「ボス……」
戦闘員の一人が、固意を呑みながら恐る恐る声をかけた。
「どう……どうしますか?」
「追うぞ!」
クロトは怒りを辛うじて抑え込みながら唸った。
「何が何でもだ! 見つけ出して、生きて連れ戻せ!」
彼らが踵を返し、出口へ向かって走り出そうとしたその時。
突如として、彼らの目の前に一つの人影が出現した。
「私の獲物に触れるな」
骨まで凍りつかせるような冷酷な声が響いた。
「命が惜しければな」
次の瞬間、その人影は現れた時と同じように、唐突に虚空へと消え去った。
通路の空気は、再び生温く淀んだものへと戻る。
クロトの手下たちは恐怖に震えながら振り返り、あたりを狂ったように見回したが、背後にはただの灰色の冷たい壁と、空っぽの通路が広がっているだけだった。
男たちの額に冷や汗がにじむ。
「ボス……」一人が声を震わせ、途切れ途切れに呟いた。「まさか……本当に、あいつ(彼)なんじゃ……」
クロトは激しく息を荒らげ、無力な怒りと、忍び寄る恐怖で拳を震わせていた。
(クソが、ヴァレリウス……!)
彼は心の中で呪詛を吐いた。
現在——。手術。
俺は管制室の冷たい床に座り、金属製のターミナルに後頭部を押しつけながら、ティラが工具を弄るのを見ていた。
「これ、噛んでなよ」
ティラはねじれた革の帯を俺の口に突っ込んできた。
「絶対に身じろぎするんじゃないよ。もし腕の神経を傷つけたら、あんたは一生スプーンすら持てなくなるからね」
俺は頷いたが、その拍子に激しい吐き気が喉元までせり上がってきた。
「エフレム、肩を押さえて。強く」
ティラが命じる。
「待て! 間違ってる、右じゃなくて……っ」
俺はかすれた声で暴れた。
だが彼女は、肘のすぐ上の皮膚を切り開こうと身を構えている。
「ストップ!」俺は叫んだ。
「エフレム、もっとしっかり押さえな! あんたも暴れるんじゃないよ!」
鋼鉄の刃が肉に食い込み、俺の身体は本能的に弓なりに跳ね上がった。
歯の間で革帯がきしむ。
「静かに……静かにじゃ……」
エフレムが耳元で囁いた。
「あと少しの辛抱じゃ。鼻で息をするんじゃ。ただ呼吸をしろ」
「とらえた」
ティラが緊張した声を漏らした。
「クソ野郎どもめ。生体糸を使ってやがる……。すでに結合組織に織り込まれてる。あと一日遅れてたら、筋肉ごと抉り出さなきゃならないところだったよ」
鋭い引き抜き。
前腕を血が伝い落ちる。
「よし、取れた」
ティラが掲げたのは、細く半透明な糸がぶら下がった、血まみれの小さなカプセルだった。
「エフレム、入り口のところにゼノが転がした、あの怪物の死体をここまで引きずってきて。今すぐ」
一分後、彼が重く濡れた何かと格闘する音が聞こえてきた。
「このクズを怪物の皮下に押し込んで、第4セクターのゴミ排出口に叩き落とすのさ」
ティラは手際よく俺の腕に包帯を巻きながら、淡々と言った。
「清掃屋どもが死んだ変異体を追いかけて大騒ぎしてる間に、あたしたちはとっくに地上さ」
立ち上がろうとしたが、膝がガクガクと震えて力が入らない。
床に倒れ込む前に、ゼノが俺を受け止めた。
「個体名『アイロン』」
ゼノが言った。
「身体的負荷を最小限に抑えることを推奨します。あなたの状態は、極度の疲弊および外傷性ショックに相当します」
「こいつならやれるさ」
エフレムが遮り、近づいて俺の右腕を自分の肩に回した。
「ずっと担いでいくわけにはいかん。行くぞ、アイロン。足を動かせ。もうすぐそこじゃ」
エレベーターシャフトは、オゾンの臭いと、遥か無限の彼方へと続く暗闇で俺たちを迎えた。
エレベーターの籠は、とうの昔に底の方で朽ち果てている。
上へ登る唯一の手段は、コンクリートの壁に打ち込まれた、細い金属製のステップ(タラップ)だけだった。
「500メートルか」
ティラが上を見上げて言った。
「私が先行します」
ゼノが応じる。
「マグネットクランプにより安定性を確保。アイロンの安全を担保します」
「俺が下から支えてやる」
エフレムが付け加えた。
「下を見るな、小僧。一切見るんじゃない。お前の義手が命綱じゃ。フックのように使え。鋼鉄は指よりも強い、それを忘れるな」
義手の限界が近づいていた。
絶え間ない負荷によりサーボモーターがオーバーヒートを起こし、細く、耳障りな悲鳴を上げている。
金属の指がステップを掴むたびに、強烈な電流が肩へと走り、弾けた。
狂ってしまったセンサーが、脳へ偽りの痛覚シグナルを大量に送り込んでくる。
左腕は役に立たなかった——手術のせいで感覚がなく、身体にきつく固定されている。
俺はほぼ、機械の腕と膝だけを使って登った。
ゼノが俺の頭上を凄まじい速度で動き回り、俺が足を滑らせるたびに上へと引き上げてくれた。
(……クソ、あいつら、いつの間に俺の左腕にこんな真似を?)
思考が明滅する。
ある瞬間、俺の身体が完全に静止した。
力が……ただ、消え失せた。
地上200メートルの高さで、錆びついたステップを死に物狂いで掴んだまま、俺は灰色の壁を茫然と見つめていた。
思考が絡まり合う。
まだ自分が、あのカプセル(ポッド)の中にいるかのような錯覚に囚われる。
「止まるんじゃない、絶対に!」
下からエフレムの声が響いた。
彼は自分の頭を俺の背中に押しつけ、強引に上へと押し上げてくる。
「動け! あと少しじゃ!」
声が出なかった。
俺はただ、もう一度身体を引き上げた。
そして、もう一度。
「下方に移動体を感知」
突如、ゼノが告げた。彼の頭部が180度回転する。
「規則的な生体反応。追跡部隊です。重力プラットフォームを使用しています」
「チッ」
ティラが頭上で舌打ちした。
「発信器のトリックを見破られたね。エフレム、急いで!」
下方の暗闇から、刺すような白い光線が放たれ、シャフトの壁を激しくなぞった。
「標的を捕捉!」
スピーカーから声が響き渡る。
「撃て! 生体サンプルは生け捕りにしろ、残りは排除だ!」
激しい銃撃が始まった。
銃弾がコンクリートに跳ね返り、破片の雨が俺たちに降り注ぐ。
「制圧射撃を開始」
ゼノが淡々と宣言した。
片手で梯子を掴んだまま、彼は下方に向けて容赦なく弾丸をばら撒く。
マズルフラッシュがストロボのようにシャフト内を明滅させた。
「登れ、アイロン!」
エフレムが叫び、手が離れそうになるほど激しく俺の身体を突き上げた。
俺の脳は思考を停止し、純粋な本能に主導権を譲り渡した。
足を動かす。掴む。進む。
足を動かす。掴む。進む。
俺たちが中層のメンテナンス用エアロックへと飛び込んだまさにその瞬間、足元のプラットフォームが銃撃によって粉砕された。
ゼノが最後に滑り込んでくる。
彼は反転し、コントロールパネルを殴りつけた。
金属のきしむ音と共に気密扉が爆音を立てて閉まり、追跡者たちを完全に遮断した。
「やっと……」
エフレムが俺の隣に崩れ落ち、激しく胸を上下させた。
「クソッタレが……なんてこった。こんな大冒険をするには、俺は年を取りすぎちまってる……」
ティラはすでに立ち上がり、通路をスキャンしていた。
「動くよ」彼女が言い捨てる。
「あのドアじゃ長くは持たない。あいつらはアクセスコードを持ってる。なんとかして『蜂の巣』まで行かないと。あそこなら人が多すぎる——アカデミアだって、おいそれと全面的な掃討作戦は仕掛けられないさ」
いくつかの通路を迂回すると、突如として、第4セクターの中央広場を見下ろす巨大なバルコニーに出た。
俺はその光景に、目を射られて立ち尽くした。
下層の終わりのない暗闇の後では、中層の輝きは眩しすぎた。
ネオンの看板。
何キロメートルにもわたって続く終わりのない市場の列。
喧騒。群衆。あらゆる場所で蠢く動き。
生きている蜂の巣——汚らしく、人口過密で、悪臭が立ち込めている。
「文明の世界へようこそ」
ティラが皮肉を込めて薄笑いを浮かべた。
「このあたりじゃ、2人に1人は泥棒さ。解りきったことだけどね。そして残りの1人は裏切り者。目を離すんじゃないよ」
市場へと続く金属製の階段を降り始めたその時、4人の影が俺たちの行く手を阻んだ。
革ジャン、チェーン、クズ鉄で作られたアーマー。
その手には、古いが入念にメンテナンスされたライフルが握られている。
「おいおい、誰かと思えば」
首筋に歯車のタトゥーを入れた、体格のいい男が一歩前に出た。
「排水溝から何が這い出てきたかと思えば。ティラか? 逃亡中だって聞いてたがね。確か、人に借金があったはずだろ?」
「そこをどきな、ネイル」
彼女は歩みを止めず、冷淡に言った。
「あんたに用は無い。それに、その借金はあたしのものじゃないよ」
「関係ねえな」
男はライフルを構え、ゼノに銃口を向けた。
「このボットはお前のものか? 中層の闇市がありゃ、50枚は硬い。通行料としていただくぜ」
「脅威を検知」ゼノが告げた。「3秒以内の生存確率:2%」
エフレムは、手首が明らかに震えているにもかかわらず、ゆっくりと鉄筋の武器へと手を伸ばした。
俺は彼らの背後に立ち、機械の腕を手すりに預けていた。
「待ちねえ」
エフレムが突然前に進み出、俺たちを庇うように立ちはだかった。
「このロボットをよく見てみろ。ただのクズ鉄だと思うか? ほら、よく見てみろ。肩の刻印が見えるだろ?」
ネイルが目を細めた。
汚れの層の下に、かすかにシンボルが見えた——稲妻の走る、バツ印のついた円だ。
「それから、そのガキを見てみな」
エフレムは俺を指差した。
「こいつは『清掃屋』だ」
老人は毅然とした、自信に満ちた声で嘘を吐いた。
「大怪我を負って退役しちゃいるが、未だに極めて危険だ。お前が引き金を引いた瞬間、この機械はお前の指が引ききりもしないうちに、お前らを皆殺しにするぞ。俺たちを通せ、そうすれば消えてやる。アカデミアが脱走兵として俺たちを追ってるんだ。あいつらをここに引き込みたくはあるまい? 奴らはこの忌々しい市場を、お前らごと灰にしちまうぞ」
ネイルは視線をゼノに移した。
それからティラへ。そして、俺へ。
「忌々しいカルト信者どもめ……」
彼は毒づきながら、ライフルを下ろした。
「失せな。猶予は5分だ。二度と俺のセクターに面を出すんじゃねえぞ」
老人は俺の腕を掴み、群衆の中へと引きずり込んでいった。
ティラが先頭に立ち、露店と人々の間を縫うように進む。
「いいハッタリだったよ、ジジイ」
彼女が呟いた。
「どうでもいいさ」エフレムが息を吐き出した。「おい、アイロン……意識を保つんじゃ。お前が倒れる前に、隠れ家を見つけなきゃならん」
俺たちは群衆をかき分けて進んだ。
肉屋、修理屋の露店、何百人もの見知らぬ他人たちの間を。
長い時間の後、ようやく【技能】が消えかけていき、俺の脳内に焼き尽くされたような虚無感が残された。
「あそこだよ」
ティラが、錆びついた歯車の描かれた薄暗い看板を指差した。
「あたしの古い知り合いが、あそこで安宿をやってる。コインを数枚握らせりゃ、チクるような真似はしないさ」
俺たちは敷居をまたいだ。
背後でドアが閉まる。
俺は不潔な床の上へと、壁を伝って滑り落ちた。
「……終わった」
俺はかすれた声を絞り出した。




