第70話:ブラックゾーン
気密扉が激しい金属音を立てて溝に嵌まり込み、俺たちを外の世界から隔絶した。
だが、静寂は訪れなかった。
雨の中の高圧電線が放つ唸りのような、重く振動するハム音が耳を満たした。
ゼノの動きは迅速だった。
右のマニピュレーターが変形し、細いプラズマカッターが伸びる。
盲いるような青い光が一瞬だけ弾け、蝶番の金属がドロリと融けてドア枠と完全に一体化した。
扉の向こうから、重苦しい打撃音が響き始める。
最初は大型ハンマー、次いでさらに重い何か。
鈍い衝撃が床を揺らしたが、至近距離での爆発にも耐える設計の扉は、微動だにしなかった。
「安全を確保しました」
ゼノの声は、妙にクリアに響いた。
「追跡者が保有する機材でこの障壁を突破できる確率は、今後6時間以内で0.04%です」
「安全なんて、相対的なもんだよ」
ティラが荒い息を吐きながらしゃがみ込み、掠れた声で言った。
彼女はレスピレーター(呼吸器)を剥ぎ取る。煤に汚れた青白い肌が露わになった。
「ここは『黒の領域』だ。深く吸い込みすぎれば、空気すら凶器になる」
言い返そうとしたが、舌が完全に麻痺したように動かなかった。
「おい……大丈夫か?」
エフレムが近づき、水筒を差し出してきた。
震える手でそれを受け取る。
ぬるくて錆臭い水だったが、これまでの人生で飲んだどれよりも美味く感じられた。
「……平気だ」
俺は声を絞り出した。
「お前ならそう言うと思ったよ」
老人は首を振りながら鼻で笑った。
「ほら、俺に捕まれ」
俺たちはトンネルの奥へと進み出した。
『黒の領域』は、これまでに通り抜けてきた居住区や技術通路とはまるで違っていた。
ねっとりとした膜が壁を覆い、燐光を放ちながらかすかに脈打っている。
ティラが先頭を歩き、手首の小さな端末を頻繁にチェックする。
端末は時折、乾いた静電気のノイズを立てた。
「放射線量が規定値を超えてる」
彼女は振り返らずに言った。
「壁には触るな。それと、絶対に油膜の浮いた水溜まりを踏むんじゃないよ。タンパク質合成用の化学廃液だ。10分で靴底を溶かし尽くす」
「なぜそんなことまで知っておる、娘よ」
エフレムが警戒を怠らず周囲を見回しながら尋ねる。
「10年前、親父が清掃部隊のエンジニアだったのさ」
彼女は淡々と答えた。
「その任務から戻ることはなかった。だけど、日誌を遺してくれた。それと、どんな時もフィルターを確認するっていう癖もね」
壊れかけた俺の知覚のせいで、視界の端にたびたび幻影がよぎった。
首を振っても、そこには何もない。ただ灰色の壁と粘液があるだけだ。
不意に、俺の足が止まった。
10メートルほど先、壁際に人間が立っていた。
真っ白な、綺麗な白衣を着て、タブレットに何かを書き込んでいる。
「あそこだ……」
俺は指を指した。
「誰かいる」
ゼノが瞬時にマニピュレーターを構えた。
赤色の照準レーザーが闇を切り裂き、何もない壁を照射する。
「対象は検知されません」
ロボットが答えた。
「熱源反応なし。音響レベルも正常です」
「クソ、確かにそこにいる!」
俺は一歩踏み出した。
白衣の影が顔を上げた。
そこには顔がなかった——ただ滑らかに発光する表面があるだけだ。
影はゆっくりと腕を上げ、まっすぐ俺を指差した。
そして、何千もの小さな火花となって霧散し、消えた。
「アイロン、誰もいないよ」
ティラが近づき、俺の目を覗き込んできた。彼女は眉をひそめる。
「瞳孔が光に全く反応してない。ここの古いセキュリティシステムが、たまに保存データを空間に放出するんだよ。ただの視覚的ノイズさ。無視しな」
「無視するのは難しいな……」
額の冷や汗を拭いながら、俺は呟いた。
「慣れなよ」
彼女は背を向けながらぶっきらぼうに言った。
「『黒の領域』じゃ、現実なんて『まだあんたを殺していないもの』のことに過ぎない。それ以外はただの背景さ」
トンネルを抜けると、『朽ちた橋』に出た。
かつて大規模な輸送ラインが通っていた巨大な空洞だ。
いまや橋の残骸は、濃く、刺激臭のする霧が立ち込める底なしの深淵の上に吊るされた、一本の細い錆びた鉄の帯に過ぎなかった。
奈落の底から奇妙な音が響いてくる。
濡れたものが擦れ合う気配、金属のきしみ、あるいは微かな、不気味な口笛のような音。
「一人ずつだよ」
ティラが指示を出した。
「ゼノ、あんたは最後だ。梁があんたの重量に耐えられないかもしれない」
彼女が最初に動き出した。
エフレムがそれに続く。そして、俺だ。
距離感が狂う。一瞬で何マイルも伸びたかと思えば、次の瞬間には一歩の距離に縮まる。
頭が激しく揺らいだ。
「下を見るな、小僧!」
前を行くエフレムが叫んだ。
「俺を見るんじゃ。ただ歩け!」
下の霧から何かが這い上がってきた。
それは絡まり合あったワイヤーと生肉の塊のように見えた。
目は無い。長い関節の分かれた四肢の先には、鋭い骨の棘が備わっている。
異形は音もなく、橋の裏側を這いながら迫ってきた。
「敵と接触!」
ゼノが叫んだ。
銃弾が肉にめり込む鈍い音が響く。異形は悲鳴を上げ、霧の中へと落下していった。
だが、深淵からはすでに次の影たちが這い上がってきていた。
「クソっ!」
ティラがマントの下からソウドオフ・ショットガンをぶち抜いた。
「急ぎな! 全員向こう岸へ、早く!」
速度を上げようとしたが、濡れた金属に足を取られた。
俺は横ざまに倒れ込み、間一髪で手すりを掴む。
その時、獣の一匹が目の前の縁を飛び越えてきた。
針のような歯がびっしりと並んだ顎が、俺の顔のすぐ数センチ先に迫る。
すべてが克明に見えた。
半透明の灰色の皮膚、その下で脈打つ血管、完全に退化した眼球、膨れ上がった喉の袋。
そして、顎と頭蓋骨の継ぎ目。
無事な方の腕が、純粋な反射だけで動いた。
エフレムから渡されていたナイフを引き抜き、その一点へと正確に突き刺す。
怪物は力を失い、俺に悍ましい黒い体液をぶちまけた。
そいつを深淵へと突き落とす。
「アイロン、手を掴め!」
エフレムがすでに傍にいた。
俺を固い地面へと引き上げる。
同時にゼノが援護射撃を開始し、残りの追跡者を足止めした。
ロボットが最後の2メートルを飛び越えた瞬間、背後で橋が崩落し、十数匹の怪物たちを巻き込んで霧の彼方へと落ちていった。
「一体……今のは何だったんだ?」
上着にこびりついた黒い粘液を拭い落とそうとしながら、俺は訊ねた。
「研究所の失敗作さ」
ティラが言った。
「昔は犬か、あるいは豚だったんだろうね。今じゃただの『純粋な飢え』の塊だよ」
30分後、俺たちは管制室に行き当たった。
岩肌をくり抜いて作られた、小さな部屋だ。
分厚い鉄扉は、まだ辛うじて気密性を保っていた。
内部は、コントロールパネルを覆う厚い埃を除けば、奇妙に清潔だった。
ゼノは入り口で警戒態勢に入り、センサーを稼働させたまま省電力モードに移行した。
ティラはすぐにターミナルに向かい、少しでもシステムを復旧させようと弄り始める。
エフレムは部屋の隅から、「緊急配給品:タイプB」の刻印が入った密封コンテナをいくつか見つけ出した。
「この泥が俺たちを殺さないなら、もう何があっても死なんてことさ」
彼はナイフでコンテナの一つを抉じ開けながら呟いた。
中身は灰色のペーストだった。
酷い匂いがしたが、十分に食べられそうだった。
俺は金属の壁に背を預け、床に座り込んでいた。
(結局のところ、俺はただのありふれた人間に過ぎない)
そんな思いが脳裏をよぎった。
そして妙なことに……それが微かな活力をもたらしてくれた。
「よっしゃ、繋がった」
ティラが低く声を上げた。
「換気シャフトのマップだよ。第5セクターを切り開けば、中層へ続く業務用エレベーターに出られる。あそこには人がいる。市場もある。紛れ込むにはうってつけさ」
「アカデミアはどうなんじゃ?」
エフレムが訊ねる。
「あそこまであいつらの手は届かないよ。ギャングや貿易ギルドが多すぎるからね」
「待て、アカデミアだって? ヴァレリウスの奴、アカデミア総出で俺たちを追わせてるって言うのか?」
「認めたくはないが……その通りじゃ」
エフレムが答えた。
「五人評議会はどうだ? 奴らも俺たちを狙っているのか?」
「それは分からん」
老人はそっけなく返した。
「警告」
ゼノの声に全員の身体がこわばった。
「室内で異常な電磁波を感知」
「何だって、またあいつら!?」
ティラがショットガンを構え直す。
「否定。シグナルは人工的なものです。周波数4.2ギガヘルツの狭帯域無線送信。アカデミアのデータプロトコルを確認」
「発信源はどこだ?」
俺はゆっくりと立ち上がりながら訊いた。
ゼノが首を巡らせた。
彼のレンズはティラからエフレムへ、そして……俺のところで静止した。
「発信源は、個体名『アイロン』から50センチメートル以内の圏内です」
淡々と、ロボットは告げた。
「あなたの体内、あるいは衣服の中に、アクティブな追跡用ビーコンが存在します」
エフレムが配給品の缶をゆっくりと下ろす。
ティラは後退し、俺にショットガンの銃口を向けた。
「そう簡単にいくわけがないと思ってたよ」
彼女が低く唸る。
「俺は知らなかった……!」
俺は上着をむしり取るように脱ぎ捨て、必死にポケットを探った。
「ここには何も無い! ゼノ、範囲を絞れ!」
ゼノが一歩近づき、スキャナーが俺の身体をなぞる。
「シグナルはあなたの右腕から検出されています」
ゼノは、汚れた包帯が巻かれた腕の断端を指差した。
「皮下、肘関節の付近。深度:1.5センチメートル。ビーコンは、神経負荷がピークに達した瞬間に起動しました」
(義手……だが、いつの間に?)
俺は思考を巡らせる。
だが、俺の復讐の根は、もっと深いところにある。
「抉り出せ」
俺はティラに向かって腕を突き出した。
「は……?」
彼女が硬直する。
「ナイフを持ってるだろ。それで切り出せ」
「痛むよ。それどころじゃない」
「知るか。いいからやれ」




