第68話:フリーゾーン
暗渠の闇には、いくつかの階層があった。
第一の階層は、ねっとりとした油のような黒。
第二の階層は、消えかけのゼノのレンズが放つ微かな光。
それは虚空から錆びたパイプの破片や、滴り落ちる粘液を浮き上がらせていた。
[そして]第三の階層。
それは、ほとんど視認できないほど微かな――。
アイロンの身体から放たれる、幽霊のような燐光だった。
エフレムはゼノの冷たいマニピュレーターにしがみつきながら、後ろを歩いていた。
老人はかろうじて足を引きずっている状態だった。
奴のブーツが湿った音を立てて水溜まりに沈むたび、その足音がトンネル全体に反響した。
「静かに……」
エフレムは囁いた。
だが、自分の声の響きに、奴自身がさらに怯えたようだった。
ゼノは機械的な単調さで前進を続けた。
左大腿部の駆動系が五歩ごとにロックされ、短い金属音を立てて軋む。
アイロンは奴の肩に、まるで骨の詰まった袋のように力なくぶら下がっていた。
一歩ごとに首が揺れ、ゼノの姿勢が低くなるたび、唯一無二の無事な左手がコンクリートの床をズルズルと引きずられた。
「なぜ、こいつは目を覚まさないんだ?」
「対象の意識は現在、強制隔離状態にあります」
ゼノが答えた。
「シナプス経路の臨界過熱。今後二十時間以内にスキルの再起動が確認された場合、大脳皮質に不可逆的な損傷が発生する確率は――」
「もういい!」
エフレムが遮るように吐き捨てた。
「とにかく、そいつを運べ」
それから約一時間後、トンネルが広がり、小さな管理室へと行き着いたところで彼らは足を止めた。
ゼノはアイロンを、乾いたコンクリートのプラットフォームの上へと慎重に横たえた。
その呼吸はあまりにも微弱で、エフレムは奴がまだ生きているか確かめるために、胸に耳を押し当てなければならなかった。
「身体が焼け付くように熱いぞ」
アイロンの額に触れ、すぐに手を引っ込めながらエフレムが呟いた。
皮膚はからからに乾き、熱を帯びている。
「水が必要だ」
ゼノは部屋の隅で静止し、そのレンズを針の先ほどにまで縮小させた。
「当該セクターの水分には、40%の重金属および有機分解物が含まれています」
ゼノが淡々と事実を告げる。
「浄化は不可能です」
エフレムは歯の隙間から毒づいた。
奴は水車小屋から持ってきた水筒の残り――アイロンがアルコールと呼んでいた濁った液体を取り出した。
布の切れ端を湿らせ、坊主の顔を拭き始める。
突如、アイロンの身体が激しい痙攣を起こして仰け反った。
「押さえろ!」
老人が叫んだ。
ゼノの反応は一瞬だった。
その鉄の指が、アイロンの両肩をコンクリートの床へと押さえつける。
【神経節の不随意放電を検知】
副作用:『生きる意志』
現在のプロセス:システムへの過剰負荷の緊急排出試行。
一秒後、アイロンの身体から力が抜け、再び深い昏睡へと落ちていった。
エフレムはその場にへたり込んだ。
両手が激しく震えている。
「お前、こいつは一体何者んだ、ゼノ? 人間がこれほどの苦痛に耐えなきゃならん理由がどこにある」
「スキルは道具に過ぎません」
ゼノが答えた。
「しかし、その道具は宿主の肉体が100%崩壊している状態での運用を想定していません。宿主を保護するために、宿主自身を破壊している。論理的パラドックスです」
彼らはそれから十分ほど、静寂の中に身を置いていた。
――その音が、変わるまでは。
キィィィン、という微かな高周波の電子音。
それは頭上、ゴミの詰まった通気口の格子の奥から響いてきた。
ゼノは瞬時にメインレンズの光を消した。
「動かないでください」
奴の声は、かろうじて聞き取れるほどの囁きだった。
「能動索敵です」
エフレムは唾を飲み込むことすら恐れ、硬直した。
冷たい汗の滴が、奴の背中を伝い落ちる。
頭上の格子から、小さな金属的なクリック音が響いた。
隙間から、細い赤いレーザー光線が暗闇を切り裂いて伸びてくる。
光は壁の上をゆっくりと走り、錆びたパイプの上で一度止まった後、ゼノの脚部をさっとなぞった。
老人は目をきつく閉じ、思いつく限りのあらゆる神に祈りを捧げた。
赤い光線は、アイロンの顔からわずか数インチのところでピタリと止まっていた。
部屋の空気全体が、まるで静電気を帯びているかのように張り詰める。
頭上のどこかで小さくカチリと音が響き、通称『蚊』はさらに先へと飛び去っていった。
その不快な羽音のような高音は、複雑に入り組んだトンネルの迷宮の中へと消えていく。
「アカデミーです……」
一分後、ゼノが音声を漏らした。
「奴らは『囁き(ウィスパー)』級の追跡モジュールを投入しています。闇雲に探しているわけではない。目的はアーカイブの回収です」
「あるいは、こいつか」
エフレムはアイロンの方へ顎をしゃくって言った。
ゼノは再びアイロンを腕の中に抱え上げた。
「ここに留まることは不可能です。ドローンの信号周期は五分。間もなく突撃部隊が派遣されるか、あるいはこのセクターに神経ガスが充填されます。ここから『境界』への出口があります」
「どこだと?」
「旧市街の最下層です。アカデミーのセンサーが、激しい電磁ノイズによって無効化される領域です」
プレデルへの道のりは、狭い這い口と浸水した通路が延々と続く地獄だった。
エフレムは腰まで氷のような水につかりながら、水面下で自分の足に触れる「何か」について考えないよう必死に努めた。
ゼノが先頭を進み、アイロンの身体を水面より高く掲げて運んでいく。
奴の関節からは火花が散り、その足取りはますます不規則にガタついていたが、それでも停止することはなかった。
ついに、彼らは巨大な鋼鉄の扉へと行き着いた。
それは、彼らがこれまで通ってきたどれとも異なっていた。
表面にはツルハシで叩かれたような無数の傷跡、煤の汚れ、そして白いペンキで描かれた奇妙な記号が並んでいた。
「施錠されています」
ゼノが判断を下した。
マニピュレーターが金属の表面を無意味に滑る。
「電子ロックは完全に死亡。機械式の駆動部は、向こう側からロックされています」
エフレムは激しい息を吐きながら、扉へ近づいた。
奴の目が、石や固まった泥が詰まった、古びて錆びついた手動式のハンドル(ホイール)を捉える。
「下がってろ」
老人は両手に唾を吐きかけた。
ハンドルを握り締める。
金属の冷たさが皮膚を灼いた。
全体重をかけて一度回そうとしたが――動かない。
もう一度。
関節がミシミシと鳴り、過度の緊張で視界が一瞬暗転する。
「動け……この、分からず屋のクソ鉄板が……!」
エフレムが声を振り絞った。
手のひらの皮膚が裂け、生暖かい血が錆の粉と混ざり合うのを感じた。
その直後、手応えがあった。
扉が重い悲鳴を上げる。
ハンドルがガリガリと音を立てて、四分の一回転ほど回った。
「もう一押しです……」
ゼノが扉に肩を押し当て、奴を援護した。
二人がかりで、強引に機構をねじ伏せる。
長く尾を引く、金属の不快な引き裂き音と共に扉が横へとスライドし、目の前に広大な空間が姿を現した。
天井の一部が崩落しており、遥か上方の灰色の空の下に、錆びついた建造物の骨組みが剥き出しになっていた。
至る所に霧の断片が漂い、線路沿いに放置された大破した車両の合間で、いくつかの小さな焚き火が鈍く揺らめいている。
「ここはどこだ……?」
エフレムは手の血をマントで拭いながら、力なく囁いた。
「『自由地帯』です」
ゼノが答えた。
そのメインレンズが、警戒を示すように赤く明滅する。
最も近くにあった車両の影から、三つの人影が音もなく現れた。
彼らはビニールや帆布の切れ端を繋ぎ合わせたマントを纏い、顔は手製の粗末なマスク(フィルター)で覆い隠されていた。
その手には、トゲの突き出た重々しい鉄筋の棍棒と、ビニールテープで幾重にも補強された古びたクロスボウが握られている。
中央にいた男が一歩、前に出た。
その視線が、火花を散らすロボットから、疲れ果てた老人へ、そして最後にアイロンへと移動する。
「おいおい、珍客のお出ましだな」
見知らぬ男が、低くかすれた声で言った。
奴はクロスボウを構え、ゼノのレンズを真っ直ぐに狙い定める。
「俺の気が変わらないうちに、その『肉』をそこに放り出してさっさと失せな。コミュニティに無駄飯食らいを置く余裕はねえが、部品なら大歓迎だ」
奴は下卑た笑みを浮かべた。
エフレムは腰のナイフへとそっと手を伸ばしようとしたが、両足の震えが止まらない。
「こいつは肉じゃねえ」
声は上ずっていたが、奴は毅然と言い放った。
「じゃあ何だってんだ?」
見知らぬ男は、笑い声の代わりにするような、乾いた激しい咳を吐き出した。
ゼノが一歩前に進み出、その巨体でエフレムとアイロンを遮るように立ちはだかった。
「脅威を検知。分析を完了……。対象:排除します」




