第65話:ジャックポット
俺はうつ伏せに横たわり、指の下で土が沈み込むのを感じていた。
第七セクターの無機質なコンクリートとは、似ても似つかない感触だ。
「起きろ、坊主。ほら、ひっくり返ってる時間はないぞ」
エフレムの声は低く、まるで綿でも詰められたかのように濁って聞こえた。
右腕で身体を支えようとして――危うく悲鳴を上げそうになった。
激痛が鋭く走り、視界が真っ暗になる。
俺は仰向けにひっくり返り、自分の右腕を見つめた。
「クソが……」
黒焦げになった肉塊を凝視しながら、俺は息を吐き出した。
「外れねえ」
「そいつはもう、お前の一部だ、坊主」
エフレムは少し離れた場所で、倒木に背を預けて座っていた。
「後で切り落とすさ、多分な。十分に鋭い得物が見つかればの話だが」
俺は『生きる意志』をオフにしようと試みた。
しかし、何も起きない。
世界は正常な状態に戻ることを、頑なに拒絶していた。
耐え難かった。
流れ込んでくるデータが多すぎる。
「水を……」
俺は掠れた声で言った。
エフレムが水筒を差し出してきた。
手を伸ばしたが――空を切った。
距離感が二重にブレている。
水筒の運動ベクトルも、質量も「視える」のに、普通に掴み取ることができない。
「それから、お前の目、元に戻らんぞ。本当に大丈夫なのか?」
「そのうち治る」
俺は言った。
「ゼノはどこだ?」
数メートル離れた場所で、奴は見つかった。
土と枝に半分ほど埋もれていた。
俺よりもさらに悲惨な状態だった。
肩は引き裂かれ、関節からはドロリとした黒い潤滑油が漏れ出している。
ピクリとも動かない。
ただ、内部で何かが規則正しくカチカチと音を立てていた。
「ゼノ。ステータス」
俺は命じた。
「構造的完全性――四十二パーセント。パワーコア、危険状態」
奴の音声が途切れ、激しいノイズが混ざる。
「推奨……。修理部隊が到着するまで、微動だにせず待機すること」
「修理部隊なんて来ねえよ。起きろ」
俺は無理やり立ち上がった。
世界がぐらりと揺れる。
俺たちが外へと突き破ってきた場所には、深いクレーターが形成されていた。
そして、それを見てしまった。
地平線の彼方、森が岩だらけの荒れ地へと変わる境界線で、土煙が巻き上がっている。
この『白の視界』越しに、熱源シグネチャがはっきりと捉えられた。
十……いや、十二。
猛スピードで接近している。
「エフレム。起きろ。お出ましだ」
「異端審問官か!?」
奴は疲労も忘れて跳び起きた。
「分からん。あの速度からして、軽量の騎獣だ」
俺はゼノに歩み寄り、無事な方の腕を掴んだ。
「手を貸せ。こいつを置いていくわけにはいかない。第七セクターで、重量を軽減する何かを見つけてただろ? そいつを使え」
エフレムはゼノに近づくと、その真上でアーティファクトを握り潰した。
俺たちは二人がかりで巨体を持ち上げ、密集したモミの木の茂みへと引きずっていった。
溶けた金属が、炎症を起こした生肉をガリガリと削る。
意識が遠のきかける。
気絶しないために、俺は数を数え始めた。
心拍数――一一〇。
歩幅――〇・八メートル。
森までの距離――四〇メートル。
傾斜角――一二度。
「黙れ……」
エフレムが荒い息を吐きながら呟いた。
「ずっとブツブツ言ってやがる。いい加減にしろ」
「止めると、意識が飛ぶんだよ」
息を吐きながら俺は言った。
「なら頭の中で数えろ」
しばらくして、俺たちは鬱蒼とした奥地、絡み合うモミの枝の下へと辿り着いた。
俺は傷ついた腕を動かさないよう細心の注意を払いながら、折れた枝で俺たちの身体を覆い隠した。
数分後、奴らが通り過ぎていった。
俺たちから百メートルと離れていない距離だ。
茂みの隙間から、彼らの姿が鮮やかなオレンジ色のシルエットとして視えた。
蒸気の噴出音。
鋼鉄の蹄が鳴らす硬質な足音。
音が完全に遠ざかったとき、俺はついに地面に倒れ込んだ。
――一日後。
俺たちは、地元民が「道」と呼ぶ、膝まで浸かる泥濘を進んでいた。
頭の中のスキルは今も回り続け、泥の粘度や降り注ぐ雨粒の軌道を分析し続けている。
「坊主、地面を見てろ」
半歩前を歩くエフレムが、低い声で警告した。
「フードを深く被るんだ」
俺は従い、頭を垂れた。
足元で泥がじょぼじょぼと音を立てる。
背後からは、ゼノの重く規則正しい足音が響いていた。
森で見つけた古い麻袋と帆布の切れ端を三重に巻き付け、脚はあり合わせの廃材ででっち上げたものだ。
(最悪の作業だったな)
と、俺は思った。
奴が一歩進むたびに微かな金属の擦れ音が響き、俺はそのたびに咳払いをしたり、わざと足を引きずったりして音を誤魔化した。
煙と汚物の悪臭が、村の出迎えだった。
灰色の小汚い小屋が、寄り添うようにひしめき合っている。
中央の広場には群衆が集まっていた。
三十人そこそこ、といったところか。
泥に汚れ、疲れ果て、未漂白の亜麻布を纏った人間どもだ。
彼らは低い木製の壇上の前で膝をついていた。
そこを、青いマントを着た男が傲慢に歩き回っている。
その手には、先端で青白い炎が揺らめく、細工の施された杖が握られていた。
「あれが見えるか?」
エフレムが呟いた。
「魔術師だ。おそらく……あの一大組織の連中だな」
俺は目を細め、その炎を見つめた。
スキルが瞬時にデータを弾き出す。
白リンの酸化物。
低い燃焼温度。
エネルギー出力――ゼロ。
「安っぽい手品だな」
俺は静かに言った。
「魔術師」は両手を天へと掲げた。
「大いなる教えを聴け! アカデミーの光がお前たちの心の闇を払うのだ! 十分の一税を納めよ、さすれば家畜が病で死ぬこともなくなろう!」
彼は杖の先端を水の入った鉢に浸した。
一瞬、炎が鮮やかな緑色に変わる。
群衆は息を呑み、平伏した。
俺は見逃さなかった。
奴が気付かれぬよう、何かの粉末をほんの一掴み投げ入れたのを。
おそらく、銅の塩類だ。
俺たちは小屋の陰に身を隠しながら、広場の端を通り抜けようとした。
だがその時、ゼノが大きな金属音を立てて軋んだ。
広場の端にいた村人の一人が振り返った。
「おい! お前ら、何者だ?」
群衆の動きが凍りつく。
「魔術師」が、発光する杖をゆっくりと下ろした。
「旅の者でございます、お師匠様」
エフレムが即座に頭を下げた。
「孫が病に倒れましてな。森の薬師の元へ向かう途中、暗闇で道を失ってしまったのです。どうかお慈悲を、善良なる皆様方」
「魔術師」――ヴァルドが壇上から降りてきた。
彼は俺たちの五歩手前で足を止めた。
「フードを外せ、坊主」
奴は命じた。
「悪魔の刻印がないか、確かめてやる」
脳裏に思考が走る。
喉元への一撃。
致死確率――八十九パーセント。
実行時間――〇・四秒。
俺はその衝動をねじ伏せた。
ここで奴を殺せば、村中を敵に回すことになる。
「この子は人見知りでしてお師匠様」
エフレムが俺たちの間に割って入ろうとする。
「顔に酷い火傷を負っているのです。鍛冶屋での不慮の事故で……」
ヴァルドはそれを無視した。
彼は杖を伸ばし、俺のフードの端を引っ掛けて乱暴に剥ぎ取った。
息を呑む音が、さざ波のように群衆に広がった。
炎の照り返しの中で、俺の目は人間のそれとは思えない異様な輝きを放っていた。
それに加え、土気色のやつれた顔、血に染まったボロ布で包まれた腕の無残な断端……。
「憑き物だ!」
どこかの女が子供を抱きかかえながら悲鳴を上げた。
ヴァルドの動きが一瞬、凝固した。
「深淵に魅入られたか、旅人よ」
奴はもったいぶった口調で宣言し、リンの炎を俺の顔のすぐ近くまで寄せた。
「その目は罪によって灼かれている。……して、そこのおぞましい塊は何だ?」
彼はゼノを指差した。
「こ、これは……二人目の孫でして」
エフレムが苦しい言い訳を並べる。
「生まれつきの……せむしで、口も利けないのです」
ヴァルドは鼻で笑った。
さらに近づき、鼻をくんくんと鳴らす。
「焦げた肉の臭い……それと、油か? 妙な連中だ。アカデミーはこういう奇形を研究するのが大好きでね。それに、最寄りの検問所に突き出せば、異端審問会もかなりの報奨金を払ってくれるだろうよ」
(強欲なクズめ)
と、俺は思った。
「お師匠様、その安物の杖、そろそろリンが切れかかってますよ」
俺は静かに言った。
ヴァルドの身体がびくりと跳ねた。
その顔が怒りで怒張する。
「何をトチ狂ったことを言っている、異端者が!」
「俺たちを通さないなら」
俺は一歩踏み出した。
「それと、パンを寄こさないなら……あんたの水がなぜ緑色に燃えるのか、こいつらに全部ぶちまけてやる。それから、その『聖なる炎』がなぜ指を灼かないのかもな。――杖の正しい持ち方さえ知っていれば、誰にでもできる手品だってことを」
ヴァルドは俺を凝視した。
「……失せろ」
奴はついにそう吐き捨て、群衆の方へと向き直った。
「アカデミーの光は慈悲深い。この少年の魂は、まだ完全に呪いに呑まれてはいないようだ。俺の気が変わらんうちに、さっさと行くがいい」
「パンだ」
俺は念を押した。
ヴァルドは鞄からカチカチに硬くなった平パンをむしり取り、俺の足元へと投げつけた。
「俺の村から出ていけ」
俺はそれを拾い上げ、ズボンで軽く汚れを拭うと、エフレムに顎をしゃくった。
俺たちはゆっくりと歩み去った。
村の灯りが完全に見えなくなったとき、エフレムがようやく大きなため息を漏らした。
「奴、間違いなく審問会に通報するぞ」
(騎士団、異端審問会、ヴァレリウス、おまけにアカデミーか……。大当たりのジャックポットだな、全く)
俺は思った。
「どっちにしろ、数時間の猶予はある」
俺はゼノに視線を向けた。
「足を早めるぞ。街道から外れるんだ」




