第63話:絶対零度
エレベーターの降下はあまりにも長く、俺は三百回もの鼓動を数えることができた。
床の振動が、歯の根にまで直接響いてくる。
頭の中がガンガンと鳴っていた。
ゼノは隅の壁に片脚で寄りかかり、立ち尽くしている。
奴のレンズは消灯と、短い赤い火花のような点滅を繰り返していた。
(なぜ緑じゃないんだ?)
そのたびに、俺はそう思った。
「聞こえるか?」
エフレムが低く尋ねた。
俺は耳を澄ませた。
エレベーターの軋み音の隙間から、かすかな、聞き取りにくいほどの高音が突き抜けてくる。
古いブラウン管モニターが発するような音。
あるいは、負荷のかかった高圧送電線のような音だ。
「空気がイオン化している」
自分の腕の毛が逆立つのを見つめながら、俺は言った。
扉が開いた瞬間、俺は本能的に目を細めた。
目の前に広がる巨大なホールは、均一な青い光に満たされていた。
光源はランプではない。
空気そのものが発光しているのだ。
大学の講義で、チェレンコフ現象について習ったことがある。
粒子が特定の媒体中を、その媒体における光速度よりも速く移動するときに起こる現象だ。
もしこれを生身の目で、しかも防護服なしで見ちまったなら、その時点で動く死体も同然。
だがここでは、マナが緩衝材(デンプ法)として機能し、放射線を力線の内側に閉じ込めているようだった。
「一体全体、これは何なんだ……?」
エフレムが手のひらで目を覆いながら囁いた。
「説明のつかない現象なんてものは、すべてただの物理学だ」
俺は言った。
「そろそろ学習しろよ」
ホールの中心には、何千もの微小なセグメントで構成された、巨大な立方体が宙に浮いた状態で静止していた。
それらは絶えず蠢き、配置を変えている。
俺たちが近づくと、立方体はピタリと動きを止めた。
その表面から、マイクロスコピックな鋼鉄の球体の群れが分離する。
それらは虚空で、人間の顔のような形を形成した。
『警告』
脳内に直接、声が残響した。
『生体汚染を検知。当該セクターのエントロピーレベルが許容パラメータを超過。安定化のため、余剰変数の排除を要求する』
「『排除』だと? ナメやがって」
エフレムが杖を掲げ、低く唸った。
俺はその腕を制した。
「よせ。そいつに脅威は通じない。ただのアルゴリズムだ」
群れ――『守護者』――が青く脈動する。
『対象:アイロン。お前の計算は局所的秩序を乱している。お前は混沌をもたらす存在だ。核へ到達したくば、方程式の均衡を保て』
俺たちの前に、揺らめく透明な陽炎の壁が立ち上がった。
あの中に手を突っ込めば、一瞬で原子レベルに分解されるだろう。
内部の振動周波数は、不条理なほどに高かった。
「俺は通らせてもらう」
体内で再びスキルが沸き立ち始めるのを感じながら、俺は言った 。
「...そして、こいつらも一緒だ」
『対象「エフレム」および「ゼノ」に計算上の価値を認めない。アクセスを拒否する』
エフレムの息が詰まるのが聞こえた。
放射線が奴の心臓を蝕み始めている。
【スキル起動:『生きる意志』】
世界から再び色が失われる。
俺は障壁に向かって一歩を踏出した。
脳内に瞬時に数式とデータが展開されていく。
「ふざけやがって」
俺は声に出した。
「これを通り抜けるには、粒子の運動を停止させる必要がある。事実上、不可能な領域だ」
上等だ。
俺が本当にどこまでやれるのか、ここで試してやる。
チタンの右腕を突き出した。
マナが義手を経由して奔流となる。
俺は目前の空間から「熱」を強引に奪い取り、義手のコンデンサへと叩き込み始めた。
義手の金属面が、わずか数秒で霜に覆われていく。
俺の周囲の大気が結晶化していった。
さっきまで喉が詰まるような熱気に満ちていたホールに、細かな雪の結晶がハラハラと舞い落ちる。
「アイロン……」
エフレムの声が届く。
100ケルビン……50……10……1……
ある瞬間、俺の手前の障壁にピキリと亀裂が入った。
分子が凍りつき、結合エネルギーを失ったのだ。
「行け。早く!」
俺は言葉を絞り出した。
俺たちはその破れ目へと飛び込んだ。
熱の吸収を止めた刹那、蓄積されていたエネルギーが一気に外部へと爆発的に噴出した。
義手が、キィィィンと狂ったような金属音を立てて鳴り響く。
接合部から過熱蒸気が激しく噴き出し、俺の肩を酷く灼いた。
「坊主!」
エフレムが俺の肩を掴み、無理やり振り向かせた。
「俺を見ろ!」
「待て、動くな」
奴はポケットを手探りしながらブツブツと呟いた。
「あった」
「ほら、これを飲め!」
そう言って、緑色の何かを差し出してきた。
「これは何だ……」
「いいから飲め!」
俺は無言でそれを煽った。
…… そして、これっぽっちも、何も感じなかった。
「……今のは何だったんだ?」
俺は静かに尋ねた。
「回復薬だ。どうだ? 少しは楽になったか?」
エフレムが聞いてくる。
「いいや。さっきと寸分違わず同じ気分だ」
「本当か? 効果は、その、後から効いてくるんだよ。おそらく」
奴は口ごもった。
「多分な。だが今は先へ進むぞ。障壁の向こうに、もう一つのエレベーターがある」
「正気か? お前には休息が必要だ、坊主。今動けば――」
「分かってないな」
俺は奴の言葉を遮った。
「お前のポーションが本当に効くのかどうか、確かめたいんだよ。ここに留まっていたら、効果なんて永遠に実感できないだろ」
「そりゃあ……そうだが、しかし……」
「いいから行くぞ。まさか怯えたわけじゃないよな、エフレム?」
「俺が? まさか、あるわけないだろ。恐怖と俺は、決して相容れない性質のものだ」
(相容れないってことは、恐怖を感じたらその瞬間に死ぬって意味か?)
俺は心の中で思った。
俺たちは最終ホールへと足を踏い入れた。
そこには、濁った液体で満たされた巨大なガラスのタンクが鎮座していた。
何百本ものケーブルが、そこへ向けて収束している。
液体の中には、かろうじて人間の形を留めた何かが浮遊していた。
その肉体の半分は、完全に機械へと融合している。
「これが……『核』なのか?」
エフレムが十字を切りながら、低く囁いた。
俺はガラスに近づいた。
内側の存在が、ゆっくりと目を開けた。
その瞳に、瞳孔はなかった。
ただ、角膜の奥を無限に流れ続ける、デジタルな数字の羅列があるだけだった。
「ついに」
天井のスピーカーから、声が響き渡った。
「新たなオペレーターの到来だ」




