第62話:悪魔の眼
俺は床のタイルに崩れ落ち、鋼鉄の支柱に背を預けた。
「坊主……おい……大丈夫か?」
エフレムの声が、まるで水中から届くかのように遠く、濁って聞こえた。
俺はチタンの義手を、冷たい鋼鉄の梁に押し当てた。
(頼むぞ、熱力学のクソ野郎……仕事をしろ)
心の中で悪態をつく。
体内に籠もった熱を、無理やり外部へと押し出す。
義手へ。そしてそこから、梁へ。
右腕の金属が、色を変え始めた。
灰色から……真紅へ。そして、深いチェリーレッドへ。
一分後、ようやくまともな呼吸ができた。
研究所の中は温かいはずなのに、空気が氷のように冷たく感じられた。
「ゼノは……どうした? また機能停止か?」
老人はロボットの傍らに座り込んでいた。
ゼノは微動だにしない。
俺は歩み寄り、その機体に手を置いた。
目を閉じ、奴の回路へとマナを流し込む。
額を汗が伝い落ちるのが分かる。
負荷のせいで、目の奥の血管がぶちぶちと弾けた。
ズレを修正する。
もう一箇所。
そして、同調。
ゼノの巨体がビクンと震えた。
そのレンズが、また瞬きを始める。
「シ、システム……復旧……」
奴が軋んだ声を立てる。
「アイロン……あなたのバイタル……極めて危険です。速やかな……心停止を推奨します」
「今まで聞いた中で、最高のアドバイスだ」
数分後、俺たちは再び歩き出した。
やがて、行く手を「凍りついた炎」の流れに阻まれる。
「触るな」
エフレムが杖で俺の進路を遮った。
「下層流でこれを見たことがある。これは『深淵の息吹』だ。魂を焼き尽くす」
「ただのガスだろ、天才さん」
俺は両手を突き出した。
正面から直接霧散させようとすれば、フィードバックで俺自身が壁のシミにされる。
代わりに、俺は共振点を探した。
あらゆる物質には、固有の振動数がある。
ガスの分子を、その位相から狂わせていく。
脳が再び過熱を始める。
振幅の計算に没頭するあまり、自分の肉体の感覚すら消失していった。
視界にあるのは波動のみ。
干渉パターン。
虚空に展開されるグラフの数々。
「アイロン! やめろ!」
エフレムが叫んだ。
その叫びが、俺をトランス状態から引き戻した。
動きを止める。
目の前のガス雲は、灰色の塵となって床に崩れ落ちていた。
道は開けた。
だが、俺はその場に硬直したまま、身動きが取れなかった。
「……なんで叫んだ?」
首を巡らせ、奴に問いかける。
「お前の目だ……変わっちまってる。あの『湿地帯』の時と同じだ」
「それがどうした?」
俺は眉をひそめた。
「鋼鉄だ」
老人が静かに言った。
「灰白色だ。まるで悪魔の目だぞ」
「ただの副作用だ。珍しいことじゃない」
しばらくして、俺たちは『第七セクター』の巨大な鉄門へと到達した。
そこには、鍵穴も取っ手も見当たらない。
ただ、中央に一つのレリーフ(彫刻)が刻まれているだけだった。
(おいおい……『理想気体の状態方程式』と『万有引力の法則』か? 彫られているのはこれだけかよ)
俺は呆れた。
まあいい。
金属に手を触れ、錠の内部へエネルギーを送り込む。
機構内部の力のベクトルをずらし、コードを力技で解除していく。
そして――それだけだった。
「行くぞ」
敷居を跨いだ瞬間、凄まじい吐き気が襲ってきた。
まるで、現実のテクスチャ(境界)を突き抜けて落下したかのような感覚。
門の先の通路の壁は、一見するとまっすぐに見えた。
だが、二秒以上凝視していると、猛烈な目眩に襲われる。
角が九十度で交わっていない。
というか、そもそもいかなる角度でも交わっていなかった。
「坊主……これはいかんぞ」
背後からエフレムが俺の肩を掴み、呟いた。
「壁が……動いているのか?」
「違う」
俺は額のねっとりとした汗を拭った。
「空間が歪んでるんだ」
前方を指差す。
「川の底を覗き込むのと同じだ。水が光を屈折させて、石が動いているように見えているだけだ」
俺たちはスタジアムほどもある広大なホールに足を踏みに入れた。
それなのに、遥か彼方の壁が、まるですぐ目の前にあるかのように鮮明に見える。
部屋の中央では、無数のガラクタが宙に浮遊していた。
崩壊した柱。コンテナ。絡まり合ったケーブル。
それらは目に見えない中心点の周囲を、複雑な軌道を描いてゆっくりと周回している。
「重力トラップです」
ゼノがデータを処理しながら、レンズを細かく痙攣させる。
「重力ベクトルが三・五メートルごとに変動しています。一歩でも踏み外せば、床に叩き潰されるか、天井へ向けて射出されるでしょう」
俺は床から金属のナットを拾い上げ、前方へと放り投げた。
最初はまっすぐ飛んだ。
だが、突如として右へ急カーブを描き、猛烈に加速。
高い金属音を立てて天井に激突し、火花を散らした。
「なるほど……上等だ」
俺は呟いた。
「向こう側へ渡るぞ。エレベーターシャフトはあそこだ」
「一体どうやってあんな場所を渡るつもりだ?」
エフレムの顔が青ざめる。
俺は入り口のすぐ手前で、その場にしゃがみ込んだ。
よし。始めるか。
【スキル『生きる意志』:起動】
【構造知覚モードへ移行】
視覚的な世界に変化はない。
だが、世界の『感触』が消え失せた。
恐怖が消える。
オゾンの臭いが霧散する。
疲労が退く。
残されたのは、ベクトルのみ。
空間を貫く、何千もの矢。
赤は死をもたらす圧力。
青は無重力。
黄は剪断のベクトル。
俺は立ち上がった。
動作のすべてが、ミリ単位で正確になる。
「俺の後を追え。足跡を完全にトレースしろ。立ち止まるな」
第一歩を踏み出す。
重厚な鋼鉄の梁が、天井へと凄まじい力で引き寄せられ、俺の頭のすぐ上を猛スピードで通り過ぎていった。
マナを使い、俺たちの周囲に極小の慣性フィールドを展開する。
「アイロン、お前一体何を――」
エフレムが言いかけ、息を呑んだ。
俺は、局所的な空間の重力定数を直接書き換えていた。
狂気じみた集中力が必要だった。
こめかみの血管がドクドクと激しく脈打つ。
一歩進むごとに、激痛が増幅されていった。
ホールの中央に差し掛かったその時、防衛システムが起動した。
壁の隠しニッチから銃座が競り出し、プラズマ弾を乱射し始める。
俺は即座に、目前の大気密度をわずかに変化させた。
極小の屈折レンズを形成し、プラズマの軌道を強引に歪める。
弾道は俺たちを逸れ、宙を漂うガラクタに激突していった。
「そこにいろ」
言い残し、前方へと突進する。
チタンの右腕が、熱を帯びて激しく振動する。
同調。
タレットの金属フレームが、一瞬にして塵へと崩壊した。
エレベーターに辿り着き、ボタンを叩きつける。
次の瞬間、世界が凄まじい咆哮を上げて引き戻された。
胃袋がひっくり返るような感覚。
鼻から溢れた血が、ブーツの先へと滴り落ちる。
エレベーターの壁に寄りかかるが、全身の筋肉がガタガタと震えて止まらない。
両目は、砂をぶち込まれたかのように激しく灼けつく。
「……抜けたのか?」
エフレムが胸を押さえ、荒い息の下から尋ねた。
「……そのようだな」
俺は袖で顔を拭いながら、息を吐き出した。
「アイロン、さっきの落下物のせいで、ゼノの脚がもげてるぞ」
「あぁ……気づかなかった」
エレベーターの扉へ向き直り、静かに言った。
「すぐ直す。全部直してやるさ。……俺たちはただ、『核』へ辿り着けばいいんだ」
エレベーターがガタりと揺れ、第七セクターのさらなる深淵へと降下を始めた。




