第61話:統合
研究所の中は、吐き気がするほど無機質で無菌だった。
ボイラー室の煤煙と悪臭の後では、アルコールとオゾンの臭いは不自然極まりない。
明かりは白かった。
あまりにも平板で、陰影のない白だ。
壁際に沿って、透明なカプセルが整然と並んでいる。
濁った液体の中を、様々な「パーツ」が浮遊していた。
何らかのポンプに縫い付けられた、人間の腕。
視神経のあった場所に、光ファイバーの束が突き刺さった眼球。
俺は目を背けようとした。
だが、あるタンクの中に、一つの「手首」を見つけてしまった。
俺の右手の、精巧なレプリカ。
ただし、それは黒焦げに炭化していた。
(……なぜ俺は、あれが自分の手に似ていると瞬時に理解できたんだ?)
脳裏を不穏な疑問がよぎる。
「気に入ったかね?」
サイラスの声が、どこからともなく、あるいは部屋のあらゆる方向から同時に響いた。
部屋の中央には、手術台とコックピットを足して二で割ったような代物が鎮座していた。
人間が、文字通りそこに「融解」して一体化している。
残されている肉体はわずかだった。
青白い顔。体幹。そして一本の腕。
それ以外のすべては、床や天井へと伸びるケーブル、ホース、そして油圧アクチュエータに置き換わっていた。
「君を生身の肉体で迎えることができて、本当に嬉しいよ」
サイラスの声が響き渡る。
「こいつが……本当に、あの男なのか?」
エフレムが後ずさりしながら呟いた。
「雑魚だな」
俺はそいつを睨み据えて言った。
「完璧。それが私の定義だ」
「坊主……もう行くぞ」
エフレムが杖を握りしめ、低く囁いた。
「行かせはしないよ」
サイラスは淡々と言った。
低い駆動音が部屋を震わせた。
耳の奥が詰まったような感覚に襲われる。
突如、ゼノの機体が激しく痙攣し、その関節から火花が飛び散った。
「ゼノ!」
俺が一歩踏み出した瞬間、天井から重々しいクランプ(固定具)が落下してきた。
その一つがエフレムの胸を捉え、彼を壁に釘付けにする。
「極めてシンプルな取引だ」
サイラスが虚ろな眼で俺を見た。
「君のスキル――『生きる意志』。君のシステムのコアへのアクセス権を渡し、君の脳がどのように現実を処理しているかを私に見せてくれ」
彼はわずかに首を傾げた。
「そうすれば、その老人を解放しよう」
「ふざけるな、クソ野郎」
俺は唾を吐き捨てた。
天井から四本の細いマニピュレーターが降りてきた。
その先端で、レーザーメスが輝きを放つ。
俺は横へ飛び退いたが、一筋の光線が俺の太ももを切り裂いた。
痛みはほとんど感じない。
ただ、肉の焦げる臭い。
そして、冷たい灼熱感。
奴らの動きは、俺の思考速度を上回っていた。
(これを発動しなければ、全員死ぬ……)
すべてを投げ打つ覚обс(かくご)を決めた。
俺は脳内にあるすべてのリミッター(制限器)を強制解除した。
【スキル起動:『生きる意志』――最大出力】
【警告:ニューラルネットワークの致命的な過熱】
世界が、構造体へと変貌する。
右腕が激しく振動し始め、金属と生身の境界線の皮膚が裂け、煙を上げ始める。
レーザーが大気を引き裂く、そのわずか一ミリメートル手前で俺は身を引いた。
ローリング。
ターン。
肉体が勝手に動く。
自分が何をしているのか、意識が追いつかない。
この領域における一秒一秒が、一時間の拷問に匹敵した。
サイラスのシートへ肉薄する。
俺の指先がコントロールパネルへと突き刺さった。
高圧の電流が、俺の身体を媒介して逆流していく。
俺はタイルの床に崩れ落ちた。
スキルが切れる。
息ができない。
全身が激しく痙攣した。
右腕は完全に沈黙し、金属部が赤熱して淡く光っている。
「大丈夫か!?」
クランプから解放されたエフレムが、瞬時に俺の元へ駆け寄ってきた。
老人の顔は恐怖に引き攣っている。
声を返そうとしたが、出たのは掠れた呻きだけだった。
「負荷で頭がはち切れそうになってるぞ……」
彼は呟き、俺の顔を覗き込んだ。
「それに、その目……。真っ白というか、灰色というか……。一体どうなっちまったんだ、不気味な色になってるぞ」
「……平気だ」
俺は壁に背を預けた。
こういう時、どんな言葉を返せばいいのか分からない。
サイラスはシートの中で硬直していた。
生きている。
だが、フィードバックの過負荷により、その脳味噌は完全に融解しているはずだった。
俺たちがゼノの元へ歩み寄り、ここを脱出しようとした、その時――。
笑い声が部屋を満たした。
サイラスが、ゆっくりと頭をもたげた。
ケーブルに半分埋もれた顔が、醜悪な笑みに歪む。
片方の眼球は血に染まっていたが、もう片方は不気味にギラついていた。
「素晴らしい……。ヴァルトとヴァレリウスは、いつも君のことを最高に価値ある『道具』だと私に語っていた。今私が見たもの……。まさにその言葉を証明してみせたね!」
サイラスが狂ったように笑う。
パネルに埋め込まれた奴の指先が、目にも留まらぬ速さでキーを叩き始めた。
「君が私に魂の完成を見せてくれたのだから、今度は私が君に、肉体の完成を見せてあげよう」
一斉にロックが解除される音が壁に反響した。
ガラスカプセルの蓋が跳ね上がり、濁った液体が床へと一気に溢れ出す。
肉と鋼鉄が不整形に混ざり合い、痙攣する肉塊どもが、タイルの上に次々と吐き出された。
「走れ!」
エフレムが怒鳴り、俺の身体をラックの陰へと押し込んだ。
右腕で身体を支えようとした瞬間、激痛で悲鳴が上がった。
「大人しく寝てろ!」
老人はマントの裏から、重厚な青い石のついたチェーンを掴み出し、俺に向かって放り投げた。
「『永眠のアミュレット』だ! しっかり握ってろ!」
半透明の瑠璃色の球体が俺の周囲に展開される。
サイラスの人型改造体の一体、三本の関節肢を持つ背の曲がった怪物が俺に飛びかかったが、クォーツの障壁に激突し、微かな波紋を残して弾け飛んだ。
「クソが……」
エフレムが二つ目のアーティファクト――骨でできた針のようなものを取り出すのを見ながら、俺は掠れた声で毒づいた。
「もう何も残ってないって言ってただろ!」
「お前のために残しといたんだよ、バカ野郎!」
老人はその針を、俺のすぐ脇の床へと突き立てた。
「『命の息吹』だ! 耐えろ! 皮膚を引きちぎりたくなるほど痒くなるぞ!」
氷のような衝撃が俺の身体を突き抜けた。
太ももと肩の激痛が、脳を狂わせるほどの凄まじい「痒み」へと変貌する。
火傷の輪郭が、目に見える速さで収縮し、塞がっていくのが分かった。
サイラスがシートから愉快そうに喉を鳴らした。
「君の連れは、なかなかの骨董収集家だね。これほど希少な玩具をいくつも隠し持っているとは」
「黙れ!」
エフレムが杖を掲げた。
「『連鎖稲妻』!」
目も眩むような、幾重にも枝分かれした雷撃が杖から放たれた。
電位差の直撃を受けた最前列の怪物が消し飛び、電流は次々と周囲の個体へと伝播していく。
だが、敵の数が多すぎた。
暗がりの死角から、新たな異形どもが這い出してくる。
「クソ、出力が足りん!」
エフレムは激しく息を切らし、顔から滝のように汗を流していた。
彼は小さな黒い球体を取り出した。
「ゼノを運ぶ羽目になった時のために取っておきたかったが……背に腹は代えられん。『ネヴェス』!」
彼は拳の中でその球体を握り潰した。
瓦礫、液体の水溜まり、そして俺たちの身体が、床からふわりと浮き上がり始める。
物言わぬ質量と化していたゼノの巨体が、宙に浮いた。
足場を失ったサイラスの怪物どもは、虚空で手足をバタつかせ、俺たちに届かずに空を掻いた。
(稲妻は純粋エネルギー、導体が必要だ。クロークは周波数振動。重力……奴は空間の密度そのものを改変した。生き延びたら、このメカニズムを絶対に解明してやる)
「エフレム!」
一体の怪物が天井を蹴り、老人に真っ直ぐ飛びかかるのが見えた。
俺は叫んだ。
「二時の方向! 上だ!」
「防衛プロトコル……再開」
金属の擦れる声が響いた。
「ゼノ!」
俺は絶叫した。完璧なタイミングだ。
「闇雲に殴るな! 奴らのコアは頸椎と肩の結合部だ! 光ファイバーが集まってる場所を狙え!」
「ゼノ、十一時の方向! ストレート・スラスト!」
鈍い衝撃音。
肉と鋼鉄の破片が壁一面に飛び散った。
「エフレム、無重力を維持しろ!」
俺は老人に顔を向けた。
「奴らに姿勢制御をさせるな!」
「やってるよ、坊主……」
エフレムが掠れた声で応じる。
その身体は限界の負荷で激しく震えていた。
「だが、このアーティファクトは俺の生命力を直接喰らい尽くしやがる!」
怪物どもはゼノを迂回し、天井を這って迫ろうとする。
「ゼノ、三六〇度シールド・スピン! 足場を奪え! エフレム、今だ!」
老人が一瞬だけ重力場を緩めると、異形どもは一斉に直下へと落下し、ゼノの鉄拳の駆動範囲へと吸い込まれていった。
ついに、部屋の中央へのルートが開けた。
サイラスは未だシートに鎮座したままだ。
ゼノが至近距離まで肉薄しても、奴は防御の姿勢すら取ろうとしなかった。
「これを見るがいい」
サイラスが狂気を孕んだ眼で囁いた。
「完璧な共生だ。君の頭脳、彼の出力、配置された老人のガラクタ……。君たちは最高の芸術を創り上げたのだよ」
俺は残った左腕に力を込め、かろうじて上体を起こした。
「仕留めろ、ゼノ」
エフレムが疲弊しきった様子で、壁を伝ってへたり込みながら静かに言った。
ゼノが右腕を掲げた。
「脅威を排除します」
機械の冷徹な声。
一撃が、サイラスの胸部中央を正確に撃ち抜いた。
奴の頭部が大きくのけ反る。
だが、その唇にはなおも笑みが張り付いていた。
「これ、は……実に……素晴らしい……」
首ががくりと胸元へ落ちる。
シートに埋め込まれたインジケータの光が、一つ、また一つと、静かに途絶えていった。




