第47話:上書き
そのケーブルは、単なる銅線と絶縁体の塊にしては不自然なほど重かった。
俺は左手でそれを引きずり、床に血の跡を残していく。
前方にはリヒターが倒れている。
サーボモーターと人工筋肉の隙間に、小さく黒ずんだソケットが口を開けていた。
『急げ、アイロン……』
脳内のゼノの声が薄れていく。
『接続が不安定だ。俺の存在維持が限界を迎える』
「……あと、少し……」
俺は掠れた声で応えた。
指先が滑る。
辛うじてコネクタを探り当てた。
リヒターのヘルメットの後頭部にあるポートへ、それを近づける。
手が激しく震え、三度も外れて金属を引っ掻いた。
「おい、頼むぜ……この野郎……」
カチリ。
コネクタ、そして結晶が、鈍く密着した音を立ててソケットに収まった。
その瞬間、身体に電流が走ったような衝撃を覚えた。
他者の精神がそこにいる感覚――あの絶え間ない囁きや助言が、唐突に消え去った。
近くのモニターに目を向ける。
黒い画面を、緑色のコードが駆け抜けていった。
【外部ストレージを検出】 > 【データタイプ:精神のニューラルコピー】 > 【対象:生体メカニカル素体『ハウンド MK-4』】 > 【素体ステータス:致命的な損傷。生体脳は死亡】 > 【上書き中:10%... 35%... 68%...】
俺は壁際まで這い戻り、腕の残骸を胸に抱え込んだ。
エフレムのベルトは血で完全に染まっていたが、スキルの効果が間一髪で出血を止めていた。
部屋の隅でエフレムが身じろぎした。
「アイロン……」
老人は辛うじて頭を持ち上げた。
「なぜだ……なぜ奴を繋いだ? なぜ……」
「あいつじゃ、ない……」
俺は呟いた。舌がうまく回らない。
【上書き中:99%... 完了】
画面が明滅した。
リヒターの巨体が、びくりと跳ねる。
ひしゃげた巨大な鋼鉄の塊が、音を立て始めた。
装甲の内部で冷却ファンが唸りを上げる。
リレー回路がカチカチと鳴る。
破壊された関節部から、勢いよく蒸気が噴き出した。
その時、天井の裏で何かが動き出した。
レーザーヘッドや溶接工具を備えた、蜘蛛の脚のような細いアームが3本、降りてくる。
1本がリヒター――いや、『ゼノ』の肩を掴み、その重い身体を引き上げた。
もう1本が、俺が電流で焼き切った胸甲の穴へ向けて細い溶接レーザーを照射し、瞬時に傷口を塞いでいく。
最後の1本が、関節部に特殊な発泡剤を注入した。
1分もしないうちに、アーム群は天井へと格納されていった。
静寂。
ヘルメットの暗いレンズが輝いた。
鮮やかな、緑色の光。
金属が激しく擦れ合う。
巨体がゆっくりと、片膝を立てて立ち上がった。
緑色の眼が広間をスキャンする。
核で止まり、エフレムを捉え、そして――俺のところで静止した。
俺は壁に身をすくませた。
あらゆる本能が『逃げろ!』と叫んでいたが、身体が全く動かない。
巨体が完全に立ち上がった。
俺に向かって一歩、踏み出す。
俺は目を瞑った。
「素体の損傷率:70パーセント」
ヘルメットのスピーカーから、地響きのような声が轟く。
「弟子の損傷率:致命的」
目を開けた。
ゼノだ――確信があった。
彼が俺の前に立ち、ゆっくりと屈み込む。
黒い鋼鉄に覆われた巨大な手のひらが、俺へと伸びてきた。
身構えたが、手は途中で止まった。
俺の健全な腕ほどもある太い指先が、止血帯の少し上の肩に、そっと触れた。
「痛むか?」
スピーカーが問いかけてくる。
「当たり前だろ……」
俺は自嘲気味に鼻で笑った。目から涙が溢れ、頬を伝う。
奴は俺の身体の下に腕を差し入れた。
そして、軽々と持ち上げる。
俺は奴の腕に抱えられ、冷たい胸甲に額を押し当てた。
「エフレム」
ゼノが老人に顔を向け、命じた。
「歩けるか?」
老人は口をあんぐりと開けて奴を見つめていた。
「お、お前……一体何なんだ?」
「ゼノだ。他に誰がいる。ほら、立て。残り3分だ」
エフレムは呻き声を上げ、壁にすがりながら立ち上がった。
ゼノは広間の奥の壁へと歩き出す。
そこには影に隠れるように、貨物搬送用のような別の扉があった。
ゼノは扉の隙間に指をねじ込む。
サーボモーターが悲鳴を上げた。
金属が軋み、降伏する。
扉が開き、暗いトンネルが姿を現した。
内部には、鈍い銀色をした弾丸のようなカプセルが静止していた。
磁気浮上レールの上、数センチメートルの高さで浮いている。
「乗れ」
ゼノは俺を内部の柔らかいシートへと慎重に横たえた。
シートが自動で俺の身体の形に変形する。
エフレムが巨体を警戒しながら、足を引きずって後に続いた。
最後にゼノが入る。
その重量でカプセルが一瞬沈み込み、すぐに磁場が安定した。
奴はコンソールの前に座る。
驚異的な速度で、指先がセンサーの上を走り始めた。
「どこへ……行くんだ?」
意識が遠のきかける中、俺は尋ねた。
「外だ」
ゼノが答えた。
カプセルが震動し、猛烈な勢いで発進した。
加速Gが俺の身体をシートへと押しつける。
トンネルの壁が一筋の灰色の線へと変わる。
サイドウィンドウに目をやった。
時折、コンテナが敷き詰められた巨大な空洞――管理ステーションの明かりが高速で後方へと過ぎ去っていく。
「見ろ、アイロン」
カプセルが減速した。
トンネルが途切れ、透明なチューブへと切り替わる。
俺たちは、外の世界へと飛び出した。
夜だった。
だが、あの沼地のような暗闇ではない。
カプセルは、奈落の上に架かる高架橋で停止した。
ハッチが静かな音を立てて開く。
強風が顔を打ちつけた。
ゼノが俺を抱きかかえ、外へと連れ出す。
エフレムが手すりにすがりながら、後に続いた。
「この匂いは……何だ?」
老人が貪るように空気を吸い込んだ。
「潮……か?」
俺は目を開けた。
眼前に、地平線の彼方まで広がっていたのは――
「海だ」
ゼノが言った。
(この世界にも、海が存在していたなんてな) それが、意識を失う前の最後の思考だった。




