第44話:適合者0
息を吸おうと口を開けた瞬間、激しく咳き込んだ。
俺はうつ伏せに倒れ、冷たくてヌルヌルしたものに鼻を突っ込んでいた。
右腕で身体を押し上げようとする。
――何も起きない。
記憶が断片的に蘇ってくる。
肩を動かそうとした。やはり、何も動かない。
(これほど無残な光景は、見たことがない)
そんな思考が頭をよぎった。
俺はゴミの山の頂へと這い上がった。
ここは少しだけ明るい。
どこか遠くから微かな光が差し込み、空気中に漂う灰色の霧を照らし出していた。
「エフレム……」
俺は掠れた声を出した。
「エフレム、どこだ?」
返事の代わりに、右側のどこかから重々しい金属の軋み音が聞こえた。
左手でゴミをかき分け始める。
指先が割れた陶器や、錆びついたスプリング、そして骨に触れた。
細く、脆い――子供の骨だ。
十分ほどして、ようやく彼を見つけた。
エフレムは、ひしゃげた二つの鋼鉄製コンテナの隙間に挟まれていた。
「おい、爺さん、目を覚ませ」
俺は彼の肩を揺さぶった。
「ほら。起きろ。時間がないんだ」
エフレムが目を開けた。
その視線は定まらず、瞳孔が開いている。
「アイロン……」
彼は囁いた。
「ここは……地獄か?」
「それより最悪な場所だと思う。俺たちは『釜』にいる。足の感覚はあるか?」
彼が動こうとした瞬間、悲鳴を上げ、唇を血が出るほど噛み締めた。
「挟まれてる。骨が……もうダメみたいだ」
俺はコンテナを観察した。
手で動かす? 不可能だ。
数メートル先、ガラクタの山から太い水道管の破片が突き出しているのが見えた。
俺はそこへ這い寄り、左手でパイプを掴むと、コンテナに足を突っ張って全力で引いた。
『無駄だ』
突然、ゼノの声が割り込んできた。
『お前の効率は5%以下だ。肩の組織が断裂している。残った骨を完全に粉砕するだけだ』
「やってみなきゃ分からねえだろ」
俺は歯を食いしばって唸った。
パイプの先端をコンテナの縁の下に潜り込ませ、コンクリートの破片を支点にした。
そして、死んだ右腕の重みを利用して、全体重を反対側の端にかけた。
金属が悲鳴を上げる。
コンテナが数センチ持ち上がった。
「這い出せ!」
俺はエフレムに怒鳴った。
「早く!」
激痛に耐えながら、老人は足を引っこ抜いた。
俺がパイプから手を離すと、コンテナは凄まじい音を立てて元の位置へ落下し、塵の雲を舞い上げた。
俺たちは激しく息を切らしながら横たわっていた。
「すまない……」
エフレムが俺の肩を掴んだ。
その時、暗闇の中で何かが動く気配がした。
リヒターか? またあいつなのか?
「いや」
エフレムが掠れた声で言った。
「俺たちはあれを『ゾンビ』と呼んでいる」
ゾンビ……。
この世界には、一体他に何が存在しているってんだ。
俺は心の中で毒づいた。
「かつては人間だったものだ。今はただの、残骸に過ぎん」
エフレムが続ける。
四つん這いで移動する者、手の代わりに錆びついたフックが溶接されている者。
彼らの顔は潰瘍に覆われ、永遠の闇のせいで目は白内障のように濁っていた。
「ナイフはあるか?」
俺はエフレムに尋ねた。
「落ちる時に失くした」
俺の左手は、先ほどのパイプをさらに強く握りしめた。
「俺の後ろにいろ」
「ゾンビ」の一匹――顎が外れた怪物が、最初に飛びかかってきた。
俺は渾身の力でパイプを突き出した。
金属が鈍い音を立てて、奴の胸骨を貫く。
「壁際へ」
俺は指示を出した。
「そこなら囲まれにくい」
俺たちは後退を始めた。
エフレムは俺に寄りかかりながら、足を引きずっている。
ゾンビの数は増える一方だった。
暗闇の中に、好機をうかがう数十もの赤や黄色の光――奴らの目が灯る。
その時、奴らさえも硬直させる音が響き渡った。
ガシャーン……ガシャーン……
二十メートル先、ゴミの山から一つの巨体が立ち上がった。
それは俺たちとゾンビを捉えた。
リヒターが折れた剣を振り下ろし、最も近くにいた屍肉喰らいを真っ二つに引き裂いた。
怪物どもは雪崩のように鉄の巨体へと群がり、装甲の関節部に噛み付いていく。
「走るぞ!」
エフレムが俺の袖を引いた。
俺たちは『釜』の奥へと走り、戦場から遠ざかった。
足元で頭蓋骨や金属が砕ける音がする。
肺が溶けた錫を流し込まれたように焼けるまで、俺たちは走り続けた。
「行き止まりだ……」
エフレムが壁に背を預け、ずるずると崩れ落ちた。
俺は壁の表面に手のひらを滑らせた。
微かに温かい。
「いや」
俺は継ぎ目を探りながら言った。
小さな窪みを見つけた。
手のひらサイズの、完璧な真円。
『やめろ』
ゼノの声に、明らかなパニックが混じる。
「爺さん、事情は分かるが、今はただ生き残るぞ」
俺は疲弊しきった声で言い、右腕をその円に押し当てた。
最初は、何も起きなかった。
だが次の瞬間、結晶が共鳴を始めた。
鋭い超音波の金属音が空気を切り裂き、俺の耳から血が噴き出した。
【生体認証キーを検出。識別中……適合者0(キャリア・ゼロ)。アクセスを許可します】
重厚なプレートが溝に沿って開き、蛍光灯の死んだような白い光に満ちた、清潔な通路が現れた。
「これは……何だ?」
エフレムが眩しさに目を細める。
「あんたが知らないなら、俺に分かるわけがない。だが、とにかく進むしかない」
俺は彼を中に引きずり込んだ。
気圧の抜けるような音を立てて、背後でハッチが密閉された。
俺たちが立っていたのは、サーバーの列とカプセル状の構造物で埋め尽くされた広間だった。
俺たちが近づくと同時に、中央のコンソールが輝き、起動した。
俺はメイン端末へと一歩近づいた。
手が滑らかな表面に触れる。
『アイロン……!』
ゼノが脳内で悲鳴を上げた。
メイン画面に、赤い警告が灯る。
【警告:城塞排水精製システム『シタデル』の自爆プロトコルが起動しました】 > 【タイマー:15:00... 14:59...】
それに続くように、天井のスピーカーからヴァレリウスの穏やかな声が響いた。
「ありがとう、検体アルファ。お前をここまで誘導するのが、どれほど困難だったか、お前には想像もつくまい」
「お前……ここをすべて吹き飛ばす気か!?」
俺はカメラを睨みつけた。
「ここには何千もの人間がいるんだぞ!」
「人間とは資源だ」
ヴァレリウスが答えた。
「十五分だ、検体アルファ。この初期化(再起動)を生き延びてみせろ」
「ゼノ」
俺は歯を食いしばった。
「どうやって止める!?」
沈黙。
「ゼノ!」
『無理だ』
奴が囁いた。
『爆発を止めるには、核にあるコードを書き換えるしかない。
そして、その核は……お前の目の前にある』
俺は広間の中心にある巨大な円柱を見上げた。
その内部で、白い光が不気味に脈動していた。




